-プロローグ-
「誘発衝動」
照火が雷人の死を知ったのはつい最近のことだった。雷人こと光見雷人は照火の唯一の友人であり親友であった。雷人は一週間ほど前にビルの屋上から飛び降り、自ら命を断った。照火はそのことを学校の担任から直接聞かされた。
初めその知らせを聞いた時照火には担任が何を言いたいのかが全く理解できなかった。その意味を理解するのには一日ほどかかった。
唯一の友人が死んだ。自ら命を絶って。
照火に訪れたものは絶望だった。自分と同じような境遇の雷人。お互いの居場所はお互いで、家族のような存在だった。
照火も雷人も親がいない。しかしそのことのせいかクラスの数人から彼らは執拗に嫌がらせを受けていた。そんな過酷な状況の中でもお互いの存在があったからずっと乗り切ってきた。だがもう雷人はいない。戻ってくることはない。
照火は何もする気になれなかった。ただ一週間学校にも行かずぼうっと過ごしていた。たった一人小さなアパートの一室で。孤独そのものだった。
部屋の中央にある小さな机の上にはもう使うことはないであろう携帯電話と小さな紙切れ。
その紙は雷人の遺書であった。ただ一言だけが書かれた簡潔なもの。
――ごめん、でもダメだった。
その文字は震えていた。その文字は弱かった。
正直照火はその意味がよくわからなかった。いや意味を考えるほど思考が回っていなかっただけなのかもしれない。
……八月十九日。雨が降っていた。
降りしきる雨がもともと静かなこの部屋を更に思い静謐で包んでゆく。
無機質な雨音の中、せわしなくいく車の音がなぜか生をもったもののように聞こえた。
昨日までは啼いていたセミたちも今日は静かだ。
照火は無表情な顔のままぼんやりと外を眺めていた。
空を覆う黒い雲がたまらなく邪魔に思えた。
気は沈んでいくばかり。
ふと照火は立ち上がった。そして玄関から外へと出た。傘は差さない。蒸し暑さの中濡れながら歩き始める。
特に目的があったわけではなかった。照火本人もよくわかっていなかった。自分が今なぜ外にいるのか。
それでも歩きは止まらない。髪も服も靴も、すでにぐちゃぐちゃだった。
十分ほど歩いて足が止まった。眼の前に建つ十階建てのマンション。雷人の最後の場所。
ここまできてようやく自分がここに来た理由を得心した。
――そうか、今日も雨が降っている。
単純な動機だった。雷人の死んだ日もそういえば雨の日だったはず。ただそれだけの話だった。
このマンションは最近建てられた新しいもので玄関ホールまではよくあるロック式の扉になっている。普通鍵の無い外部の人間は入ることができない。
照火はふらりと玄関ホールの前、大きなガラス張りの自動ドアの前にと立った。するとなぜか開かないはずの扉が開いた。照火は勝手に開いたドアを少し訝しんだが特に考えることはしなかった。吸い込まれるようにマンションの中に入っていく。
玄関ホールは殺風景だった。飾られた花は無造作にもしおれ、薄いクリーム色の壁も一様で特徴がない。突き当りにエレベーターがあった。左右にはそれぞれ一回の部屋へと向かう廊下に繋がる扉。夏なのに妙に冷えきっている。冷房のせいもあるだろうが、それ以外の何かが支配しているような気がした。
照火はエレベーターのスイッチを押した。
四階に止まっていたエレベーターがゆっくりと下りてくる。
チンと軽快な音がホールに響いた。エレベーターの扉が開く。照火はそれに乗り込み屋上のボタンを押した。
扉が閉まり上昇をはじめる。おーーーんと低い音をうならせながら上る無機質な箱。
程なくしてエレベーターは屋上へと辿り着いた。屋上までは一つ扉があった。見るからに頑丈そうな扉。しかし鍵は壊されていた。
辿るのは雷人の通った道。
照火は屋上への扉を開けた。
目の前の視界がひらける。
ここから見える俯瞰の風景はあまりに遠すぎて、つかめない。
広い広い世界と比べれば自分の存在は砂場の砂粒のようだ。
雨に霞む風景はどこか金属的な鋭さを帯びていた。
こんな世界に自分は独りでいるんだなと実感させられてしまう。
雷人もこの風景を見たのだろうか。
彼方で空と地平線とが交錯していた。いつもより近くに感じられる空は曖昧で現実味がない。
雷人はここから飛び降り命を絶った。
ならここから飛び降りれば雷人のところへいけるだろうか。
「そうだ、行ける」
疑問は確信に。
落下防止柵から身を乗り出す。ざらつくような生暖かい風が照火の頬を舐めた。
「行くよ。雷人」
空へと――――
――――ぐしゃりと聞きなれない音