第2章『武士道プラン異聞録編』
43話「魔性宿りし者」
1−C教室。
登校時間、伊予は教室に入ってすぐ、まゆっちの姿を見つけた。まゆっちは相変わらず楽しそうにクラスの生徒と話をしている。
「あ!伊予ちゃん、おはようございます!」
伊予が挨拶を交わす前に、伊予の姿を見つけたまゆっちが笑顔で手を振っている。いつもと変わらない。
「あ……お、おはよう」
昨日の一件があってか、思わず挨拶がぎこちなくなってしまう。まゆっちは伊予の様子が少しおかしい事に気付き、心配そうに声をかける。
「……伊予ちゃん?どうかしたんですか?」
「あ……ううん、何でもないの」
本当は聞きたい事があるのに、うまく切り出せない。まゆっちが、あんな事をするなんて……到底思えない。思えないのなら聞いても問題はない筈。それなのに躊躇いが邪魔をする。
それでも、聞かなければ。
「あ、あのさ……まゆっち」
「はい?」
「昨日の夜――――」
言いかけた途端、丁度チャイムの鐘が鳴ってしまう。まゆっちはまた後でと言って自分の席へと戻っていく。
結局、聞きそびれてしまった。もうすぐ担任の先生が教室へやってくる。やりきれないままHRを迎える伊予。
しかし、教室に入ってきたのは保険医の麗だった。何でも、担任が風邪で休んだらしく、代理で引き受けたらしい。麗はHRをさくさく進めていく。
「―――これでHRを終了する。後、黛由紀江。ちょっと話がある。一緒に職員室へ来てもらうぞ」
HRが終わり、麗はまゆっちを呼び出した。一体何の用だろう。まゆっちははい、と返事をして立ち上がり、麗と教室から出て行った。
そして二人が出て行ってすぐ、クラスが騒然となり始める。
「……ねぇ、呼ばれたのって、もしかしてSクラスの武蔵さんの事じゃない?」
「なんか、決闘の後に呼び出してエッチ迫ったらしいよ」
「武蔵さん身体中触られて、色々ヤバイ事されたみたい」
「ええ!?嘘でしょ!?」
「気持ち悪……」
「そりゃ武蔵さん、不登校になるわな」
「大人しいフリして、やる事結構怖いよねー」
クラス中が、まゆっちの妙な噂で塗りつぶされていく。伊予は突然過ぎて耳を疑った。そんな話、どこから流れてきたのだろう。
確かに武蔵との決闘後、まゆっちは武蔵を呼び出している。その次の日、武蔵が不登校になった事も耳にしていた。だからといって、まゆっちがそんな事をするとは思えない。こんなものは根も葉もないだろう。
「もしかして、通り魔の犯人も黛さんだったりして」
「ああ、そうかも」
「でも、もう犯人は捕まったんでしょ?」
「実は、捕まった後も一人襲われたんだって」
「え!?じゃあ本当に……」
だが、クラスのまゆっちに対する不信感は収まらない。一体まゆっちの何を知っているんだ……伊予はたまらず耳を塞いだ。
自分の親友が疑いをかけられている。もういい、やめてと心の中で叫び続けながら時間をやり過ごす。
しかしもう限界。クラスの空気に耐えられなくなった伊予は、逃げ出すように教室を飛び出した。廊下を走り抜け、生徒達を追い抜き、ひたすら走り続ける。
(違う……まゆっちが、そんな事するはずない!)
伊予が向かう先は、麗とまゆっちのいる職員室。もう躊躇ってなどいられない。今度こそ、まゆっちから真偽を確かめなければ。
息を切らしながら職員室の前まで辿り着く。伊予はドアに手をかけようと手を伸ばすが、先にドアが開き、伊予の前にはまゆっちの姿があった。どうやら話を終えたようだ。
「伊予……ちゃん?」
何でここに、とまゆっち。伊予は早速話を切り出した。
「まゆっち……聞きたい事があるの」
「聞きたい事?」
「昨日の夜……商店街にいなかった?」
昨日見たまゆっちの姿。あれはきっと見間違いだろう。まずは商店街にまゆっちがいたかどうか、それを聞けばいい。
いなければ、それで終わり。もう余計な心配する事なんてないのだから。
「はい。確かにいましたよ」
―――――。
伊予の心臓が、止まったような気がした。さらりと答えるまゆっち。伊予の不安が一気に膨れ上がる。
「何……してたの?」
恐る恐る訪ねる伊予。まゆっちは続けた。伊予は思わず息を呑む。
「大和さん達と通り魔事件の犯人を捕まえる為に、商店街を警備していたんです」
まゆっちが商店街にいた理由。それは学園から依頼された任務の一環からだった。仲間同士でペアで行動し、張り込みをしていたのである。麗に呼ばれたのも、その件についての事だったらしい。
「そっ……か」
伊予の肩の力が、一気に抜け落ちた。そうだ……心配する必要なんて始めからなかった。とんだ取り越し苦労だと自分自身を笑う。
「い、伊予ちゃん?」
「ううん、何でもないの。早く教室に戻ろ?」
まゆっちの手を取り、二人は自分達の教室へ戻っていく。
二人で廊下を歩きながら、伊予はクラスでの噂をまゆっちに話そうか迷った。しかし噂は噂。わざわざ言う必要はない。所詮は根拠のないもの。
それに、誰が何と言おうと伊予にとってのまゆっちは、まゆっちのままなのだから。
自分を変えようと、必死に走り続けるまゆっち。そんな彼女を、親友として応援してあげたい。
「あ……」
そういえばと、伊予は気付く。まゆっちに変化があってから、見かけなくなった物の事を。
「ねぇ、まゆっち」
「はい」
「最近見ないね、松風」
そう、松風の事である。いつもまゆっちの手の平で喋っていた馬のストラップ。父親から貰ったという大切なもの。と言っても、実際に喋っているのはまゆっちなのだが。
あれだけまゆっちの側にいたのに、今はいない。まゆっちがあまりにも自然過ぎて、その存在に気付かなかった。何気なくまゆっちに訪ねてみる。
「松風……?」
一瞬、まゆっちは何だか分からないような表情を浮かべたが、ああと思い出したように相槌を打つ。
「あれは、もう捨てました」
「えっ」
捨てた。その言葉に、伊予は言葉を失った。
「いつまでもあんなものに頼っていたら、父上に笑われてしまいます」
そう言って、くすっと苦笑いするまゆっち。そうなんだ、と伊予は返す事しかできなかった。まゆっちがそう決めたのなら、仕方が無い。伊予がどうこう言う事ではない。
「そうだ、伊予ちゃん」
まゆっちが立ち止まる。伊予もそれに合わせて足を止めた。すると、まゆっちは伊予と向き合うように顔を合わせた。
そして、
「大事な……大事な話があるんです―――放課後、私と一瞬に来てくれませんか?」
大切な親友、まゆっちからの頼み だった。そんなまゆっちからの頼みだ、きっと本当に大切な事なのだろう。伊予は頷いて承諾するのだった。
夜、公園見晴台前。
まゆっちと伊予は見晴台で、複数の星が煌めく夜空を、二人で眺めていた。
「うわぁ、きれい……」
まるでプラネタリウムのような星空を、食い入るように眺める伊予。星空を眺める伊予の横顔はとても満足げで、まゆっちも嬉しく思うのだった。
「私のお気に入りの場所なんです。伊予ちゃんに、ずっと見てもらいたくて」
学園の帰り道、偶然この場所を見つけたらしい。あまり人気のない古びた公園。こんな場所があったんだ、と伊予は思った。
星空が照らす見晴台の下。二人はしばらく星々の煌めきの鑑賞を続ける。
「その……喜んで頂けましたか?」
聞きにくそうに、伊予に言葉をかけるまゆっちの姿はどこか初々しい。伊予はまゆっちに顔を向けて、にっこりと微笑むのだった。
「うん。こんな場所があるなんて知らなかった。ありがとう、まゆっち」
親友からのプレゼント。これほど嬉しい事はない。伊予は感謝の気持ちでいっぱいだった。
しかし、本命は違う。まゆっちからの大事な話。伊予はその話題を切り出す。
「まゆっち………大事な話って、何?」
「…………」
まゆっちはただ黙って、伊予の目を真っ直ぐ見る。まゆっちの目には何かを決意したような、そんな感情が伺える。何度か深呼吸を繰り返し、息を整えてゆっくりと口を開いた。
「伊予ちゃん、私――――伊予ちゃんが、好きです」
それは、彼女からの突然の告白だった。伊予は状況が飲み込めずに目を丸くするが、よくよく考えてみれば友人同士。
「あ……えっと、それって友達としてって意味だよね?うん、私も好きだよ」
友達として。親友として好き……それは互いを認め合う事。それは伊予も同じ気持ちである。だが、まゆっちは首を横に振った。
「違います。私は伊予ちゃんを――――ひとりの女性として愛したい。そういう意味です」
「え……あ……」
伊予は言葉を失った。つまりそれは、もっと特別な感情で、思い人として好きという意味である。
いきなり何を言い出すのだろうか……何と返事をしたらいいか迷い、頬を赤く染めながらまゆっちから視線を逸らす。
「あ……で、でもそういうのってさ……なんというか、ほら!私たち女の子同士だし。だからその、愛してるとか、愛してないとかは違――――」
伊予の目の前に急接近するまゆっち。伊予の両手を握るように取り、まゆっちは迫った。
少し恐怖を感じる……伊予は後退り、背中が側にあった樹にぶつかる。
「ま……まゆっち?」
「伊予ちゃん……」
まゆっちの息が、伊予にかかる。初めて、優しいまゆっちの表情が“怖い”と感じてしまった。まゆっちは伊予に迫ったまま続ける。
「伊予ちゃん……大好きです。優しい所も、小動物みたいに和菓子を食べる所も、全部……」
まゆっちの手がまるで蛇のように動き、伊予の胸元に優しく手を置く。そして伊予の耳元でそっと囁いた。
「全部―――――私だけのものにしたい」
「………!?」
伊予の胸元に置かれたまゆっちの手が爪を立てて、無造作に伊予の制服を引き剥がした。下着ごと剥がされ、素肌が露わになる。
独占欲。伊予の心が恐怖で支配されていく。悲鳴を上げることすらできず、震えることしかできない。
「すごい……綺麗な肌。それに、こんなにも柔らかい……」
伊予の肌に触れ、焦らすように愉しむまゆっちの姿は、まるで獣だった。
『なんか、決闘の後に呼び出してエッチ迫ったらしいよ』
『もしかして、通り魔の犯人も黛さんだったりして』
クラスでのまゆっちの噂が、ふと頭を過る。伊予は何度も思考を拭い去った。認めない、まゆっちがこんな事、するはずがない。
しかし、現に今のまゆっちがここにいる。信じ難い状況が、ここにある。
「―――武蔵さんは、あんまり触らせてくれませんでした」
折角親睦を深めようと思ったのに、と撫でるように肌に触れながら、まゆっちは独り言のように呟く。武蔵の決闘後に呼び出した時の事である。それはクラスで言っていた噂が、本当である事を意味していた。
「じゃあ……通り魔で、女子生徒を襲ったのも、全部……」
一番聞きたくない事を、恐る恐る伊予は口にする。まゆっちは否定する事なく答えた。
「襲うだなんて……私はただ確かめたかっただけです。でもどの人達も違った……やっぱり、伊予ちゃんじゃないとダメです」
肯定。まゆっちは武蔵の事も、通り魔の事も全て認めた。認めざるを得ない残酷な現実。
「う、そ……」
これが、伊予の信じていた黛由紀江。まゆっちの本性。まゆっちはふふと笑い、伊予の素肌を舐め始めた。生暖かい感触が伊予に伝わる。
「伊予ちゃん……れろっ……これが私。本当の私なんです。伊予ちゃんが好きで好きでたまらなくて。もう自分を抑えられない。伊予ちゃんの隅から隅まで全部、私色に染めてあげたい」
「…………」
なす術もなく、ただ無抵抗に。あるがままを受け入れる伊予。身体中がまゆっちに染められていく。これが、自分がまゆっちという人間を信じてしまった結末。
……それだというのに。
「………違う」
震えながら、伊予は声をようやく絞り出した。まゆっちの動きが止まる。
「違うよ……あなたは、まゆっちじゃ、ない」
目の前にいるのは、まゆっちではない。本人の前で本人を否定するというのもおかしな話だ。こんな時に自分は何を考えているのだろうと、伊予は心の中で笑う。
けどそれでも。伊予には分かる。まゆっちの事は、自分が一番よく知っている。だから、このまゆっちは―――“黛由紀江”は違うと、はっきり認識出来た。
何故なら、伊予はまゆっちの事を信じているから。するとまゆっちの表情から徐々に笑顔が消え始める。
「どうして………どうして、そんな悲しい事言うんですか?私は私です、黛由紀江です」
自分自身を否定され、深い悲しみにくれるまゆっち。認めて欲しいとせがみ続けるも、伊予は首を横に振り続けるだけだった。
「だって、私の知ってるまゆっちは……こんな事しない。それに松風だって、簡単に捨てたりなんかしない」
おかしいって思ったんだと伊予。いつも大事にしていた松風。父親から貰った大切なもので、あんなに可愛がっていたのだ。仮に松風を使わなくなったとしても、決して捨てるような真似はしない。
それに、まゆっちはもっと友達を大切にする。いつも相手の事を優先し、こんな風に一方的な感情を押し付けたりはしない。
「姿形は、確かにまゆっちそっくりだよ。でも……ごめんなさい。あなたは違う。やっぱり、私の知ってる本当のまゆっちは―――」
口下手で、寂しがりで。寂しいから友達が欲しくて。そのために精一杯努力する頑張り屋。
最初は気付かなかった。まゆっちがあんなにすぐに変わってしまった事を、不思議に思わなかったから。
「私の言ってる事、めちゃくちゃだよね……自分でもよく分かんない。でも、これだけは言える。あなたは、まゆっちじゃない」
伊予の目から、一筋の涙が零れ落ちる。それは目の前にいる黛由紀江に対する哀れみなのだろうか。伊予は無理に笑って、彼女に告げる。
「あなたは……だれ?」
―――――。
その瞬間。黛由紀江は、伊予の肩を千切れるくらいに掴みかかった。俯いたままで、表情は伺えない。ただ一つ分かるのは、彼女は怒りで身体を震わせている事だけである。
「……がう」
ギリギリと、伊予の肩に爪を立てながら声を漏らす黛由紀江。そして顔を上げると、刃のような鋭い眼光の、怒りに満ちた表情があった。
「―――違う。私は……私は黛由紀江だ!認めろ、私は私なんだ!それ以上でもそれ以下でもない!」
黛由紀江の爪が肩に食い込む。まるで獣か何かに噛みつかれたかのように、じわじわと痛みが伊予を襲う。
先程とはまるで別人のように変貌した黛由紀江。伊予は苦しみと痛みに耐えながら、ある事に気付く。
―――黛由紀江の左肩に見え隠れする、黒い痣のようなもの。
否、痣にしては繊細すぎる。そう、まるで紋章のような跡。これは一体何なのだろう……そんな事を考えていた時だった。
「―――――!」
突然黛由紀江が伊予から離れ、刀を抜いて戦闘態勢に入った。剣戟が迸り、火花を散らす。
誰かいる……気配を察知した黛由紀江は刀を構えて警戒する。
「――――伊予ちゃんに、これ以上手は出させません」
公園の暗闇から聞こえる、女性の声。やがてその声の主は、暗闇から姿を現した。
刀を手にし、凛々しく立つその姿。清らかな闘気を纏いし、黛由紀江の前に現れた一人の少女。
そう―――――それは正真正銘、黛由紀江こと、まゆっちの姿だった。