小説『鬼瞼娃娃』
作者:mob()

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かすかな潮のにおいと甘ったるい排気ガスのにおいで物流倉庫の早い朝がはじまる。高速道路とモノレールが頭上を走り、まだ日もとどかぬ蒼い闇の底でフォークリフトが積み残した荷物を運んでいる。寺山の夜はその溜息のような音で終わる。
夜がタイムカードにジッという音で書き込まれ、トラックのエアブレーキの音が響く広い倉庫街の底で寺山はスニーカーの軋む音だけに耳を澄ませた。
歩みはともすれば音がたよりだ。それほどここは広い。
 後ろから足音が近づいて来た。振り向くとバイトの山岸だった。
「へっへー」と細長い顔をくしゃくしゃにし、「どうすんの、帰んの?」と言う。
「何言ってんだよ、こんな朝っぱらから」
「茶店発見した。行かへん?」
 山岸は家族で京都から移り住んで4年になろうとしているのに関西弁が抜けない。山岸は「東京はこの方がねーちゃんの受けがええんや」という。
「コーヒーならさっき休憩所で飲んだばかりじゃないか」
「ちゃうちゃうそんな店やない。女の子がおるんや。朝からやってる早朝なんとか喫茶や」と山岸は肩をすり寄せた。
「好きやなあ。俺はくたくただよ」いつの間にか寺山にも関西弁がうつっていた。
 山岸はヒョコヒョコと跳ねるように歩きながら、「寺山さん一人やろ。一万ちょっとで最後までやから安いよ。
もっともみんな中国かあっちの人らしいけどな。疲れまらって言うやろ、連れまらってのもあるんちゃう?」
「ないない」と寺山は一笑した。
「明日は入れ替えの休みやんか、中国語の勉強にもなるしな。国際交流や」
 トラックゲートまで来たとき、寺山さーんと呼ぶ声がした。「事務のみっちゃんや」と山岸が振り返った。
「朝、寄ってって昨日言ったでしょ」と美智代は駆け寄り息せきってとぎれとぎれにそう言うと、
「はい」と手提げの小さな紙袋を差し出した。
寺山は「ん?」と怪訝そうに袋を受け取り、「あー」とやっと思い出し「悪いね、ありがとう」と困ったような笑顔を浮かべた。
「何それ?」と山岸がのぞき込むと「あんた関係ないの」と美智代が押しのけた。
「あ、差別や」
「あんたは家に帰ればちゃんとご飯あるでしょ。お母さんいるんだから」
「えー、そうなの。弁当か。いいな、それって」
「ばか」と美智代は頬を膨らませ、横にらみそう言うと、その目を寺山に向け、
「早く食べてね」と言い、手でトラックの進行を制止しながら急ぎ足で事務所に戻っていった。
「美智代さん寺山さんに気があるんだ」と山岸が冷やかすように笑った。
「そんなんじゃないよ。いいから行こう。店行くんだろ」
「なんだそりゃ。変なひとだねえ、あんたも」と山岸は東京弁でこたえた。

 喫茶店とは名ばかりで、店構えからして町に馴染みすぎている。コンクリートのビルの壁面に薄汚れた紅白のストライプのテントがポツンとあり、「喫茶アイランド」と黒いガラスドアに白抜いている。
山岸の後に付いて寺山はそのドアをくぐった。ドアの向こうは滑り止めだけの打ちっ放しの階段で、2階に上がると殺風景な壁をくりぬいたようにまた黒いガラスドア。鉄の扉を差し替えただけのお手軽な外装だ。カランと音をさせたドアの向こうは薄明るく、
弱々しい外光が北側の窓から射し込みカウンターに落ちている。そのカウンターの奥の方に30くらいの小柄な女が座っていて、カウンターの中には谷啓が悪擦れしたような50絡みの男がタオルを手に立っていた。
「いらっしゃい」とその男はやけに明るい声で顔を向けた。声までタニケイに似ている。
 山岸はカウンターの端に座り、寺山にも隣に座るようにとうながした。建物の形のまま矩形になったスペースにボックス席があり、籐の衝立に仕切られたその席に、それらしき女達が3、4人が座っていた。
 山岸はカウンターの男に「フェイは?」と訊いた。男は首をすくめ親指で店の奥を指した。
店の中には小さく中国語の歌が流れている。ゆっくりとしたリズムで男女が掛け合う可憐な曲だ。どこかで聴いた曲だと寺山は思った。
 男はコーヒーと紅茶とコーラしかないメニューを二人の前に置いた。山岸はコーヒーを注文し、寺山に「ほら、あの娘たち選べるから」と言った。
女達の前には低いテーブルがあり、その上には女性雑誌とタバコの煙の立ち上る灰皿があった。雑誌に目を落としていた女が長い髪を掻き上げタバコに手を伸ばした。
「彼女たち凄いんだ。昼も夜も働いて、ちょっと休んでここにくるんだってさ。いつ寝ているのかと思うよ」と感心するように山岸は言った。
 黒いノースリーブの女が隣の女に何か耳打ちしながら寺山たちを見た。
「寺山さんどうする?」
「いいよ、自分から選びなよ」
「え、いいの?」と山岸は遠慮と喜びが一緒になったような複雑な笑顔で「俺、あの黒い服の娘にしようと思うんだけど」
「ああ、俺は違うから」
 男がコーヒーカップを二人の前に置いた。山岸はカウンターを指先で叩いて男に耳打ちした。男はイエンイエンともインインとも聞こえる発音で女を呼んだ。
 二人がカウンターの女の後ろの鉄製のドアの向こうに消えた後、寺山は曲に耳を傾けながらぼんやりとコーヒーを口に運んでいた。
女達は仲間で、カウンターの男も仲間だ。古い友人に囲まれているような気持ちだった。寺山は夜を想った。
 物流倉庫の夜は信じがたい大量の荷を仕分けることから始まる。仕分けている途中からも次から次と荷が到着する。最終の荷は午前4時くらいだ。冷蔵倉庫からの冷気が靄のように漂う中、荷の位置を指示する声が飛び交いフォークがひっきりなしにかけずり回る。
オレンジ色のライトの下で作業帽をかぶった男達が行き交う。目処が付くのは高速道路の灯が漸く消える頃である。その間主任の寺山に気を許す時間は無い。しかし寺山は毎日毎日確実に終わるこの仕事がそれ故に気に入っていたし、爽快感すら感じていた。その感覚の次に来るのは気怠さと眠りである。寺山の生活は毎日判で押したような生活である。会社から帰り、軽くジョギングし、午前10時には就寝。午後5時起床、6時には電車で一駅の会社に出社する。これを3出1休のサイクルで繰り返す。
 寺山は時計を見た。まだ8時前である。
 店の中にチャイムが響いた。男がカウンターの下に目をやった。多分監視カメラか何かがあるのだろう。しばらくしてドアが開き、太った作業服の男が入って来た。男は衝立の向こうをのぞき込み、タニケイに「メイ」と言った。タニケイは「ここは喫茶店なんだぜ。
コーヒーくらい注文しろよ」と眉をひそめた。「だってメニューが無いじゃねーかよ」「コーヒー、紅茶、コーラ。喫茶店の王道だ」「俺はミルクしか飲まねえんだ」と軽口をたたきながら、作業服の男は髪の長い女の尻を撫で、女に叱られながら鉄の扉の向こうに消えた。寺山はその後ろ姿を追うように目をやり、ついでにカウンターの端に座っている女を見た。肩までの髪を薄く染め後ろに流している。胸のあいた黒いスーツに銀の細工をあしらったチョーカー。女はカウンターに肘をつきぼんやりとタバコをくわえていた。なにか物思いにふけっているようだった。
 男が電話に向かって符丁っぽい数字をしゃべりノートに書き込んでいる。ノミ屋の中継所のついでに女を置いたのだろう。この辺は三交代の勤務に就いている人間が多いから需要があるのだろうが早晩消えてなくなる店だと寺山は思った。
 男が電話をおいたのをしおに訊いた。
「あのこは?」
 男は少しだけ肩をすくめカウンターの女のところに行った。小さな声でなにか話しているが聞き取れない。もっとも中国語らしかったから聞き取れても何を話しているか判るはずもない。女はタバコを指に挟んだ手を拒否するように揺らしたが、男がさらに何か言うとカウンターにかがめていた背を伸ばし、軽く振り仰ぐようにして寺山に顔を向けた。あからさまな眼差しだった。女は椅子から降りながら男に短い言葉を告げた。
「変わってるけどね、いいこだよ。別嬪だし」と男が寺山にウインクした。
 女は手にバックを持ちドアの前で体を斜にし待っていた。ドアを開けると女が後ろにすっと寄り添い微かに香水が匂った。扉の向こうは奥行きの無い通路になっていて通路の左手にトイレ、正面にぼんやりとした明かりを映す磨りガラスのドア。女は「初めて?」と、突っ立ったままの寺山の横をすり抜け正面のドアを開けた。その足下にワインレッドの床が広がる。アイボリーの壁を背景に女は少しだけ振り返り、「どうぞ」と微笑んだ。
 ドアの向こうはどうやらマンションのフロアらしく通路に焦げ茶色のドアが並んでいる。女はその中の一つにキーを差し込んだ。部屋はありきたりのワンルームである。ベットが部屋の中央にあり、その上に華やかな布団が敷いてあった。
「お風呂、入りますか?」
「うん」と寺山は返事をし「いくら?」と訊いた。
「一時間1万2千円。90分だと1万5千円」
 寺山は財布から金を取り出し女に渡した。雨戸が閉めてあるのか、間接照明の柔らかな光だけで、部屋の中は暗い。その光の下でも女の手に深く食い込んだ指輪の痕が見えた。バックに金をしまう女の背に寺山が言った。
「中国の人?」
「ええ」と女は振り向き「なにか?」と付け足した。
「中国でも結婚指輪ってするの?」
 女は寺山を見つめたまま指輪の痕を手でなぞり、「ええ」と軽くうなづいた。 寺山と交代でバスルームに消えた女がベットの上でタバコをふかしていた寺山の横に戻って来た。寺山の手を枕に寄り添う女に「なんて呼んだらいい?」と訊くと「リレン」と女は答えた。どういう字を書くんだと訊くと、寺山の手のひらに「麗蓮」と書いた。何度書かれても判らず、二人は笑った。
 よく見ると女の体にはところどころ傷があった。明らかに縄目の跡のようなものもある。その跡を辿る寺山の指先を女が見つめていた。
「訊かないの?」「趣味なのか?」女は応えず、「やってみる?」と微笑んだ。寺山は女を見つめ「どうして日本に」と訊いた。
 女は「ん?」と小首を傾げ、気だるそうに「どうしてだろう……」と寺山を見た。



「悪いけど回線貸してよ」と言いながら健二がノートパソコンに向かってカタカタやり始めた。寺山はキッチンで美智代の作ってくれたおかずをつまみにビールを飲んでいた。窓からは東京湾の端がビルの影に隠れて見える。そこに夕日が沈もうとしていた。寺山の部屋である。入り組んだ湾の向こうには製紙工場があり昼夜を分かたず白い煙をたなびかせている。健二が来たのは午後4時頃だった。 
「なにやってんだ」と寺山が振り向くと、
「身元調査」と健二はベットの上でパソコンの画面をのぞき込みながら言った。
「ストーカー?」
「彼らは大切な顧客だからね」
 健二はインターネットに広告を流し探偵を仕事にしているが実際に行動することはほとんどない。役所関係の個人情報は探偵のネットワークからすべて得られるという。勤め先から収入まで確定申告を見れば判ると言っていた。
「ああ、こりゃ深田さん勝ち目ないや。可哀想にご愁傷様」
 トランクスと白いシャツを羽織っただけの健二はそう言うとノートパソコンを閉じキッチンにやって来て「俺もビールもらうよ」と冷蔵庫を開けた。
「今回はなに?」
「知らない。ダブル不倫の果てに泣きの涙で別れた女を一年後に離婚覚悟で捜しているみたいだけれど女はクライアントと別れた後に離婚し
その6ヶ月後にスピード結婚している、相手はばりばりの青年実業家だ」
 寺山は苦笑し訊いた「いくら?」
「五万円」
「苦悩と涙の料金ってか」
「マゾヒストならいいんだけれどね」
 健二は寺山の横に座りビールを口に運びながら「何それ?」とタッパに入ったおかずを見た。会社の女の子が作ってくれたんだと言うと、「不味そう」と顔をしかめ、卵焼きを口に入れ「不味い」と苦々しく言った。 健二は26才。寺山と知り合ったのは3年前である。寺山にはまだ妻がいたが仕事で知り合った健二を受け入れ、妻をないがしろにした。別れようと言い出したのは妻の方からだった。寺山は何も言わず応じた。貯金もすべて渡し無一文になり会社も辞めた。その後渋谷の健二の部屋で様々な男や女に出会い、羽田に移ってきたのが1年前。健二にさんざん世話になりながら一緒にいてくれと言うのを無視して健二の部屋を後にしたのだ。
 健二は美智代の作ってくれたおかずをパクパク食いながら、友人達の近状を話していた。今日はどこそこへ行こう。こんな所はつまらない。あいつは相変わらずの馬鹿だと止めどがない。少年の面影を残し、少し赤みのかかった透き通るような肌をしている。怒ると素直に目がつり上がる。
 健二がテーブルの上のリモコンを取り、CDの再生ボタンを押した。緩やかなリズムでTHE BANDのTears Of Rageが流れてきた。
「ああ、好きなんだこれ」と健二は二本目のビールを開けた。

 第一京浜から山手通りに入り渋谷に着いたときには10時を回っていた。健二が新しくできた台湾屋台料理の店で腹ごしらえしようと言った。プロデュースにも一枚噛んでてね、流行ってんだと言う。店に入ると店を取り仕切っているらしい女が「健二、なに、ひさしぶり」と変なアクセントの日本語で健二に駆け寄ってきた。席はほぼ満席に近い。女が「ヨシダさん来てるよ」と振り返った。見ると奥の方で眼鏡をかけた吉田が手を振っている。健二は「ウゲッ」と言いながら、笑顔で手を振った。女がクスッと笑った。
「寺山さんひさしぶりじゃない。何してんの?」吉田は開口一番そう言った。
 テーブルの上には皿がいくつも乗っていて様々な料理が盛られている。
「労働者さ。吉田さんみたいな旦那じゃないからな。しがないもんさ」
「なんだよ、きついなあ。俺だってたいへんなんだぜ。不況でテナントは入らないしなあ。まあ、飲んでよ」
 吉田は連れのモデル崩れのような通り一遍の表情しか無いような女に、「何やってんだ、お注ぎしろ」と言った。
 吉田は渋谷の昔からの地主の家にどういうわけか養子におさまっている。妻子があり40に近い。自称サディストの色狂いである。
 吉田は金縁の眼鏡の端をぴくぴく振るわせながら「羽田の方だって」と言った。「ああ」と言いながら寺山は震えのとまらない吉田の眼鏡を取り、その目の周りを手のひらで覆い、少し揉んで「心配するなよ」と言った。吉田はされるがままに「うんうん」とうなづいた。
「リモコン入ってんだけどやってみる?」と吉田がポケットからピンク色のマッチ箱のようなものを取り出した。
「いや、いい。俺の前でスイッチ入れるなよ。飯がまずくなる」
 吉田は哀しそうに笑ってそれをポケットに仕舞った。
 寺山は女に目をやり溜息をつき「お楽しみ中わるいね」と言った。
 女は「いえ」と伏し目がちの睫を少し振るわせた。
 吉田の金でさんざん飲み食いし店を後にしたのは一時を回ったころだった。払うと言っても吉田はきかない。健二がいいからほっとけ金持ちなんだからと寺山の背中を押した。店を後にしても吉田はついて来たがったが連れの女の足許がおぼつかない。何してんだ馬鹿!と吉田の声が背中に聞こえる。しばらくして吉田だけが追いついてきた。「女は?」と訊くと「置いてきた」と言う。しばらくして健二が「泣いてるかもな」と言った。「ああ、泣いてるな」と寺山が続けた。「泣いてるかな?」と吉田が不安げに訊いた。「絶対泣いてるね」と寺山が言った。吉田は立ち止まり「ちょっと戻ってみる。リモコンもったいないしね」と唇の端をゆがめて笑い、「また!」と手をあげてきびすを返した。

 ……女は中国に子供が居て妹に預けてあると言った。中国の暦のはじめの月の七日には毎年帰ると言っていた。旦那は死んだと言った。以前、中国に行ったことがあると寺山は言った。女に問われるままに、「厦門へ」と。海産物を扱う会社の社長達の視察に同行したと。
女ははなぜか華やかなまでの笑みを浮かべた。
「夏だったからね。暑かったなあ、ビールが美味かったことくらいしか覚えていない」
「青島ビール?」
「うん、他の銘柄は見たことがない」
 女は世界で一番おいしいと言った。
 不意に思い出した。あのときの曲だ。コンクリートの床に水を打った店先。物憂げな海風。ラジオを聴きながら、うたた寝をする店番の老婦──。
「なぜ日本に?」と寺山はもう一度訊いた。
「あなたのような人がいるからよ」と女は寺山の首にすがりつき「縛る?」と訊いた。寺山が黙っていると「日本人、縛るの好きだから」と女は耳元で囁いた。
「日本人はみんな変態だってか?」
 女はうれしそうに「うん」とうなづいた。



 二日酔いとむくみでしかめっつらした健二に見送られて渋谷を後にした寺山は一旦自宅に戻り美智代に返す紙袋をリュックに入れ会社に向かった。途中物流倉庫のある駅で山岸と合流した。山岸は最近始まったパソコン組立のキッティング作業や新システムに関して不満と不信を漏らした。
「なんぼ合理化のため言うてもあんな年寄りにパソコンいじらすのは可哀想や。学生みたいのにあれせえこれせえ言われてうろうろしてるわ。いっそのこと辞めてくれ言われた方がましやで」山岸の言っているのは最近までトラックヤードを仕切っていて定年で嘱託になった元現場課長の斉藤のことだ。寺山ももちろんよく知っている。一月前まで一緒に働いていたし、ガムテープの張り方から伝票の接続、フォークの取り回しまで叩き込んでくれたのも彼だった。
「仕事があるだけましだよ。おまえが思うほど彼は気にしちゃいない。辞めたきゃ辞めるさ」と寺山は言った
 新システムが稼働したのは半年ほど前だった。既にPOSは導入されていたが、自動倉庫を一新し、仕訳をほとんど自動化した。作業を自動化するとミスは致命的な効率ダウンに直結する。手作業でなんとかしようとしても既にそのシステムがない。斉藤はそのミスを連発し伝票を手に走り回っていた。移動は突然だった。笑顔を凍らせて「はい、はい」とうなづく彼に、本社の若い総務課長はキッティングルームに人が足りないからそっちに回ってくれないかと告げた。三十年以上現場にいる人間にハードディスクのコピーをやってくれと言うのだから辞めてくれと言っているのと同じである。しかし人には出来ない事情がある。斉藤はキッティングルームに移った。
 三月に入ると東京の冬も春の兆しを見せ始めるがこの町にはそれがない。趣味の反映された庭など隅から隅までコンクリートに覆われたこの町にあるはずもなく緑化のために植えられた道路脇の緑樹もいたずらに白い町の広がりを映しているだけである。所々に巨大な橋がかかり海までも人の目から隠し車の中からざっと見るにとどまる。海猫が飛ぶから海があるのが判るくらいで、地上にいる限りどこもかしこも人工物だ。もっとも人が住み憩うための町ではないのであるから当たり前といえば当たり前である。好きこのんでここにとどまる人間は風に吹かれる人間か風に耐える人間か。きっと海猫の仲間で灰色の目を持つ──女の目も青みがかった灰色だった。振り仰いで寺山を見たときにも、キーを差し込んだドアの前で彼女が少し振り向いた時にもそれを見た。ワインレッドのクッションフロアに鈍い光が広がり、振り返った彼女の目はその光をこの町に緩やかに吹き荒れる風に溶け込ますかのようだった。
 倉庫の2階に上がるエレベータの前で掲示板のチラシを見ながら寺山はその目を思い出した。彼女は「もっと酷くして」と言い、「ごめんなさい」と言い「許して」と言う。「甘えるな」と髪を掴んだとき青みがかった灰色のその目の奥に懇願のような喜びが見えた。
 エレベータを下り、タイムカードを押し、山岸は検品所へ、寺山は事務所へと別れた。整然と積み上げられた段ボールの谷間をしばらく行くと透明なガラスをはめ込んだ間仕切りの向こうに美智代がいるのが見えた。寺山が手をあげると美智代も気付いた。寺山はリュックから紙袋を取り出しドアを開けた。緑色の絶縁塗料の床はここで終わる。事務所の中は薄いグレーのタイルカーペットが敷き詰められOA机とパソコンが並ぶ。美智代がコーヒーサーバーにサイホンを戻し、カップを手に戻って来た。寺山はそれと交換のように紙袋を美智代に渡し、「ありがとう、おいしかった」と礼を言った。寺山はここでコーヒーを飲みながらしばらく時間をつぶす。荷のリストが打ち出されるのを待つためである。荷は日本全国から各地のチェックポイントを通ってここにやってくる。情報はリアルタイムに更新されここにたどり着いたときには仕訳の半分は終わっているようなものだ。ただその巨大な量と質、形の違い、到着予定時間の狂いから現場の調整が必要になってくる。一つ狂えば連鎖的に狂って来る。リストを見ながらコーヒーを飲む時間も無駄な時間ではない。寺山はテーブルに寄りかかりコーヒーを片手にリストを見ていた。その斜め前で美智代がパソコンの画面を目で追いながら骨董市がどうのこうの言うのを寺山は聞くともなしに聞き、美智代の肩を盗み見た。ちょっと疲れて見えるのは椅子の背で寄った制服の皺のせいだ。おかずを作ってくれなくていいと言うつもりだったのだがなかなか言えない。気楽でいい仲だったのでなおさらである。
「うん、だから寺山さんがいいと思うんだ」と後ろから声が聞こえた。
「え?」と寺山は振り返った。
「骨董市ですよ骨董市。寺山さん、以前イベント屋さんののお仕事なさっていたって」
 三月前に課長になった宮田がサスペンダーで吊ったズボンに指先を突っ込みながらそう言った。
「でも課長、寺山さんにだってご都合があるのよ。そんなに急に言われたって。それにイベント屋さんじゃなくてマーケティングの会社でしょ」
「何、骨董市って?」
「だから今言ったでしょ。東センターで今度の日曜にあるって。協賛の企業が人を出さなくちゃいけないんだけれど欠員が出ちゃって」と美智代は課長をちらっと見、パソコンのキイーを2,3回強く叩いた。
「ん?」と寺山は首をつきだした。
「ん?って、わたしの言うことなんか何にも聞いていないんだから」と美智代は椅子を回し頬を膨らませて寺山を睨んだ。一昨日のこともついでに非難しているらしい。ますます言いにくくなった。
「いや、急に知人が田舎から出てくることになっちゃってさ、その日しかないんだよ。悪いけど、ね」と宮田が拝むように言った。
「だって、前から決まっていたのに……」
 二人のやりとりを聞きながら寺山は壁につり下げられたカレンダーに眼をやった。
「いいですよ、空いてますから。手当は出るんですよね」
「もちろん、休出。いやあ助かったよ」と宮田はカレンダーに書き込んであった自分の名前を黒く塗りつぶし、その下に寺山の名前を書き込んだ。
「じゃあ、わたしも出る」
「あ?なんだそりゃ、さっきまで絶対出ないっていっていたくせに」と宮田はマジックを手にしたまま、あきれたように言った。
「だって寺山さんだけじゃ判らないじゃないですか、ずっと課長がやって来たんだし、寺山さん、役場の人の顔も知らないんですよ。無責任じゃないですか」
「いや、そんなつもりじゃ」と美智代の勢いに怯む宮田に美智代が追い打ちをかけた。「それから制服はちゃんと着てください。規則なんですから。」

 明日が春分の日という骨董市当日、モノレールや高速道路から見えるようにと、高い幟を一月も前から立てていたおかげか、広い駐車場も午前中から交通整理が必要になり、寺山も駆り出され、やっと昼食がとれたのは一時を回ってからだった。センターの隣に流通博物館が併設されていて、食事はそこの二階の食堂でとることになっていた。寺山が生ぬるいみそ汁と幕の内を腹に放り込んで食堂を出ると、甲高い中国語が展示室の方から聞こえてきた。見るとがらんとした展示室の一隅でアイランドの女達が飛脚の人形を前に盛んに話し込んでいる。少し離れて麗蓮が別の展示物の前に立っていた。調度一階に下りる階段の脇である。寺山は気付かれなければやりすごそうと思ったが、麗蓮は足音に眼を移し寺山を見て微笑んだ。 寺山が問いかけるように「リレン……」と言うと、「覚えていてくれたの」「見学?」「うん」と麗蓮はまた展示物の方に目を移した。眼差しを感じ、飛脚の方を見ると先ほどまでいなかった男が酷薄そうな顔で二人を見ていた。「誰?」と寺山がそっと麗蓮に訊ねると「陳、アイランドのマスター」と麗蓮は言った。麗蓮がその『マスター』に手を上げると『マスター』は不意にくしゃっと作り笑いを浮かべ片手をひらひらと振ってみせた。
 麗蓮は世界中に広がる物流システムの詳解したパネルを見ていた。
「中国の都市部なら十日くらいで荷が届く。最近は通関も早くなったみたいだね」
「そう……」と言いながら麗蓮は世界地図の一点に想いを置き忘れてきたような眼差しを向けていた。
「そう言えば近くなんだね」と寺山はアイランドのことを言った。
 展示場の突き当たりの壁一面のガラス窓からアイランドの入っている建物が見えていた。女は寺山の視線を追い、
「今日はお店も休み」と言った。
「あそこに住んでるの?」
 女は首を振り電車で一駅のところを告げた。寺山の住む街と同じだった。寺山が自分もそこに住んでいると言うと、女はかすかに眉を寄せ寺山を見、その袖を軽く掴んで「また来て」と言い、『マスター』が口笛を吹いて促す方に向かった。

 午後からは会場の受付だった。美智代は立ちっぱなしだった寺山を気遣い、「少し休んでいなさいよ」と椅子を勧めお茶を入れた。水温む春といえども10トントラックが出入りするゲートを開けっ放しにした直ぐ脇である、ダウンを着ていても足下が寒い。見ると美智代達女性陣は足下の段ボールの箱に電気ストーブを隠している。「いいね、それ。俺も」と寺山はそこに足を突っ込んだ。「あ、もう」としばらく美智代の足と狭い段ボールの中で場所の取り合いをし、美智代の足が寺山の足の上に重なるようになってやっと落ち着いた。
三時を過ぎると客足も衰えてきた。白い布で覆った受付のテーブルの上には客に住所と名前を記入してもらうための紙がプラスチックの黒いバインダーに挟まれ置かれている。次回の案内を送るためのものだ。そこでペンを取る人もまばらになった。寺山は暑くなると段ボールから足を抜き、寒くなるとまた突っ込んだ。そんなことを繰り返しているうちに足を置く場所は既定のものとなり美智代はその空間を空けて置いてくれるようになった。しばらくとりとめのない雑談が続き寺山がお茶を入れるために席を立ち戻って来たときだった。『マスター』と女達がゲート前を過ぎようとしていた。麗蓮は寺山の視線に気付き、黒いコートの前を押さえていた手を軽く上げ、指先を揺らした。
「お知り合い?」
「山岸のね」
「嘘、彼の相手じゃないわ」
 寺山は苦笑し段ボールに足を入れようとしたが美智代の足がそれをブロックした。
「だめ、入れてあげない」



 山岸が殴り合いの喧嘩をしたと聞いたのは春分の日の翌日だった。事務所に行くと美智代が心配そうに寺山に告げた。課長は今キッティングルームの方に行っているという。寺山はその足でキッティングルームの方に向かった。エアカーテンを抜け中を覗くとパソコンに部品を組み入れているアルバイトの作業員の向こうに気の毒なくらいしょげ返った斉藤と宮田課長と若い主任がテーブルを囲んでいるのが見えた。課長は寺山に気付くと席を立ち、やって来て言った。
「困ったよ。会社でこんなことが起こるなんて。彼は山岸君にどうのこうの言うつもりは無いらしいが僕だって本社からの指示だからねえ」
 彼とは若い主任のことらしい。眼の下が青黒く腫れていた。本社からの指示とは斉藤の移動のことらしい。
「山岸は?」と寺山が訊いた。
「今検品の方だ」
「ちょっと様子を見てきますよ」と寺山が言うと、課長は「そうしてくれるかい。君の方が話が通じるだろう。私はこういうのはどうも苦手でねえ」と、こういう場合の管理者能力をハナから拒否した苦笑いを浮かべ言った。
 検品に山岸はいなく休憩所で見つけた。窓の外を見ながら一人タバコを吹かしていた。腹が立ってしようがなく、そんなつもりは無かったのだが、寺山は後ろからその頭を強くはたいた。
「な、」
「何考えてんだ、おまえは。何様のつもりだ」と寺山は怒鳴った。
「だってあいつ、使えないじじいだなんて」
「使えないじじいだから使えないじじいなんだろうが。違うのか」
「言い方があるだろうが」
「だったらなぜそう言えない。おまえのやっていることはめちゃくちゃなんだよ」
 寺山は吐き捨てるように「ふざけるな」と言うと、荒々しく休憩所のドアを閉めて出ていった。
 トラックヤードに向かいアルバイトに指示を出し寺山は再び事務所に向かった。ガラス張りの外からでも課長が頭を抱えているようすがうかがえた。その前にはうなだれた斉藤が座っている。寺山は事務所のドアを開けると二人の様子を無視して言った。
「課長、前から言っている守衛の件、いい加減になんとかしていただけないですか。客の車があっちこっちに停まっていて仕事になりませんよ。守衛がいなくなってもう半月ですよ」
「いや、あれは本社の方に頼んであるから」と宮田はなぜこんなときにと困惑した表情で言った。
「そんなこと言っていたら埒開かないですよ。10トン車がこんな狭い構内で切り返しなんてできない。今に事故が起きるのは眼に見えているじゃないですか。本社は現場のことなんか見えてないんですから。課長の方でなんとかしていただかないと。事故が起こってからでは遅いんですよ。誰か人をいれてください。」
「人をいれてくれってたって、そうすぐに……」と眉をしかめ、やっとピンときたようだ。宮田はその考えがまるで自分の中からわき起こったかのように自信を取り戻し、厳しい顔つきになり、「そんなことは君に言われなくても判っていますよ。私なりにきちんと本社に申し入れしてあるんだ。」と言った。
「判りました。課長がそうおっしゃるのならそうなんでしょう。早急にお願いします」と寺山は念を押した。
 後は斉藤の考え次第だと寺山はいたずらを見抜いた目つきの美智代からコーヒーとリストを受け取り事務所を後にした。コーヒーを啜りながら寺山は、もし課長がなにか間違っても美智代がなんとかしてくれるはずだと思った。

水平線に日が昇り始める時刻になっても、高速道路と倉庫の谷間に落ち込んだようなトラックヤードには日が届かない。、作業が一段落し照明を落とすと少し胸苦しいような暗がりが辺りを覆った。
既に昨日の夜、美智代から斉藤の件は本人返事待ちということになったと聞いた。課長は今日の今日だから一日考えてみてくれないかと斉藤に言ったという。山岸にもそのことを伝えるとホッとしたようすで、アイランドに行かないかという。ばかばかしい気もしたが、彼なりの友情の表現なのだろうと寺山はつきあうことにした。

 山岸のお目当ての女は今日はいてコーヒーもそこそこに山岸はドアの向こうに消えた。麗蓮はいなかった。カウンターの中にはタニケイがいて、麗蓮が座っていた場所に陳が座っていた。「麗蓮は?」とタニケイに聞くと彼女はいつ出てくるか判らないという。なぜか素っ気ない。雑談の中から中国の最初の月の七日は日本ではいつのことだと寺山が訊くと、タニケイは「一月かな二月かな……」と答えに窮し、陳を見た。「決まってないよ。旧暦だから二月の始め。調度春節の頃だ」と陳が答え、「なぜ?」と反対に聞き返した。麗蓮がその頃に毎年子供に会うために中国に帰ると言っていたと寺山が言うと、陳は、その言葉に肩をすくめたタニケイに一瞥をくれてから、懐かしそうに頬をゆるめ、「心のふるさとだからな。春聯や色とりどりの切り紙を窓に貼り、新しい服を着ておいしいものを食べ、一年の平安と幸福を祈り合う。ああ、臘八粥が食いたくなったな。日本にいる中国人にそんなことを思い出させるのは酷な話ですよ」と笑った。
「ローパーシュって?」「粥ですよ。落花生、ナツメ、クルミなど八種類の穀物で作る粥です。もともとは釈迦が悟りを開いたのを記念して寺院で食べられていたものです。日本で言うと、懐石料理のような位置づけですか。もっともあんなに気取ってはいませんがね。」と陳は笑い「大陸では南と北で正月の食べ物も違う。発音が違いますからね。縁起物も違うんです。」と言った。寺山が『大陸』という言葉に「ご出身は台湾ですか?」と訊くと、陳はひょいと眉を上げ「いえ、浙江省です。上海の南ですね。日本が長いと、つい『大陸』って言っちゃうんですよ」と寺山を見、微笑した。

 寺山はコーヒー代だけ払い店を出た。町には相変わらず風が吹いている。骨董市の幟が撤去されたセンターのゲートが黒々と口を開けている。遠く地鳴りのような音が聞こえてくる。高速道路を車が走る音だ。その音も風の行方で変わる。駅の前に小さな食料品店があり、寺山はワンカップとソーセージを買った。斉藤に教えてもらった小さな慰安だ。同じように時間を潰している男達が四五人入れ替わり立ち替わりしている。斉藤にはまだ中学生の娘がいる。遅い結婚だった。モノレールが何本か過ぎた頃寺山は空になったワンカップをゴミ箱に捨て、昼夜入れ替わる人々の間を縫って通りを渡り、駅の階段を上った。



「吉田が自殺未遂を起こした。だから今日は行けない」と妙に明るい声で健二が留守電に入れてきたのは、斉藤の警備員姿も漸く板に付いてきた四月の中頃、明けの休みで健二が来る予定の日だった。新宿のS病院だという。健二の携帯に電話をかけると、今向かっている最中だからおまえも来いと言う。
「新宿のホテルで昨日の夜、ほら、例の女と、心中だ、でも元気そうだ。自分で電話してきた。」と言った。
 新宿駅を下り、歌舞伎町の人混みを抜け、ハングル文字や中国語の看板の並ぶ通りを横切り、ホテル街の傍らの通りを行くと、そこに病院はあった。
既に6時を回っていた。受付で吉田の名前を告げると5階だという。エレベータを下りると廊下で看護婦と立ち話をしている健二の姿が見えた。
健二は寺山の姿を認めると手を上げた。
「家族が来ないんだ」
「そりゃそうだろう」と寺山は病室の入り口に表示されたネームプレートに眼をやった。
 既に緊急治療室を出て四人部屋だという。病室に入ると吉田は新宿の夜景の見下ろせる窓際のベットにいた。吉田は寺山の顔を見ると金縁の眼鏡が引っ掛かっているぱんぱんにむくんだ顔で、
「わるいなあ」と言った。
「ひでえ顔だなあ」と寺山がベット脇の丸椅子に腰掛けながら言うと、
「水を拷問のように飲まされてな。点滴も立て続けだ」
「睡眠薬か」
「うんビールでハルとヒルミナン。かなり食ったけど死ねなかったよ。後で聞いたらどんぶり一杯食ったって死ねないってさ」と吉田は笑った。
「彼女は」
「大丈夫。女部屋の方にいるよ。後で見てやってくれ。君のことは優しそうな人だっていっていたよ。僕は焼いたがね」
 ベットの反対側に立ち、腕を組んだ健二が、
「馬鹿なんだこいつ。女が苦しんでいるのを見て怖ろしくなって自分で救急車呼んだってんだから。しかも紐で縛ったまま。集中治療が終わったとたん警察が来て大騒ぎだ」と眉を寄せた。
「あんまり大きな声で言うなよ」と吉田が泣きそうな声を上げた。
 その言葉に、健二はさらに大きな声で言った。
「さっきの大騒ぎで病院中筒抜けだよそんなことを気にするから心中なんかするんだ。警察はまた来るって言っていたぞ。愛を貫きたいのならどうどうとしろ。二人とも死んじゃいないんだから」
「彼女をこれからどうするつもりなんだ」と寺山が訊いた。
「彼女のところに行ってきた。許してくれたよ。俺が守るって言ったら、母親みたいに抱いてくれて……」と吉田はこらえきれなくなってむくんだ目尻から涙をこぼした。
 吉田は既に弁護士にも連絡してあり、離婚に伴う慰謝料や財産分与のことも相談するつもりだという。そういうところだけは朦朧とした頭でもそつがない。だから資産家の養子が務まってきたのだろう。
女の方を見舞うとこちらも顔をむくませている。化粧を落とした顔は以外と素直な性格を表していた。
「あいつは子供みたいなやつだから」と寺山が言うと、「ええ」とむくんだ顔が微笑んだように見えた。

 うまい店があるからと健二に誘われて大久保の方に向かった。中華は歌舞伎町よりこっちが本物だと言う。渋谷の台湾料理の件でこの辺はずいぶん食べ歩いたんだと言った。「中国人相手の店だからね。ピンからキリまで揃っている。おかまも多い」と眉をぴくぴくさせた。
 職安通りを渡ろうとしたとき、通りの向こうのアンダーパスの安全壁の辺りで揉み合っているような二人が見えた。一人は男でもう一人は女。女の方に見覚えがあった。麗蓮に違いなかった。通りを渡り、反対側に行こうとする健二に「ちょっと待っててくれ」と言い残し、寺山は二人の方に向かった。 揉み合っているのではなく麗蓮が男の背広の胸ぐらを掴んでいる。男は掴まれるままにぐらぐらと首を揺らし、ぼんやりと麗蓮を眺めている。麗蓮は中国語でなにかわめいている。寺山が近づき、「どうした」と声をかけると麗蓮は振り向きざま激しい口調で中国語を浴びせた。多分放って置いてくれとかそんなせりふだったのだろう。それでも寺山のことは判ったらしい。男に何か言いながら、去りかけた寺山の手を掴み、男の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離し、寺山に恋人のように寄り添い、熱い息を吐くように男に向かって何か訴えている。街路灯に映るその眼は切なく、青みがかった色も消えていた。突然男がガクッと崩れ落ちそうになり、かろうじて防護壁に手をかけとどまった。それと同時に麗蓮の言葉も止み、「ごめんなさい」と寺山の腕を放し、男に歩み寄り、その頭を撫で、耳元で何か囁きかけている。健二がやって来て「なに?」と言った。寺山は「なんでもない。行こう」と健二をうながした。しばらく行って振り返ると、麗蓮の肩に手を置いている男と麗蓮の後ろ姿が百人町の方に向かうのが見えた。

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