小説『鬼瞼娃娃』
作者:mob()

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海沿いから団地の方へと走るに連れて朝の日差しが半島のような埋め立て地を巡る。勤め人が駅に去り、若い母親達が小さな子供を遊ばせるにはまだ早い時間、団地の中を駆け抜け、途中運河に向かって左に折れると、運河沿いの細長い遊歩道に出る。朝のジョギングは寺山の離婚する前からの癖だ。一日走らないと体が求めるし、一歩一歩が日記をつづるようなもので、走らないと一日が終わらないし始まらない。
 寺山の住む町も物流倉庫のある町とそうは変わらない。人工的に仕切られた海と川が複雑に入り組み、やはり海猫が舞う。ただ埋め立てられた歴史が古く、ここには多くの人が住む。色あせた古い団地が立ち並び、海辺とも運河ともつかぬところまで迫っている。運河沿いは、団地側には樹が目隠しとして植えられ、その樹と運河の間が遊歩道とベンチのみの海浜公園となっている。海浜公園と言っても浜があるわけではない。コンクリートで塗り固められた堤に小さな波が砕けているだけだ。その緑樹の葉が春の風にきらきらと光る。その光の向こうに麗蓮がいる。団地が切れたところに建っているマンションの2階である。その前を走り抜ける寺山を麗蓮が時々窓の手すりにもたれ見ていた。寺山がそれに気づいたのは半月ほど前だ。以来麗蓮がそこにいるときは走りながら手をあげて無言の挨拶を交わす程度だったが、あの日から二、三日その姿を見ない。しかし、今日はいた。木々のきらめきの向こうにその姿をみとめ寺山は足を止め、首に巻いたタオルで汗を拭きながら窓の下に立ち、眩しげに見上げた。
「出てこないか、外の方が気持ちがいい」
 麗蓮は窓の向こうに消えた。
 しばらくするとベンチに腰掛けていた寺山のもとにに小さなポットを手にした麗蓮がやってきた。
「なに?」と寺山はポットを見た。
「お茶。一休みしましょう。」と麗蓮はポットの蓋を寺山に渡した。
「始めてね、声をかけてくれたの」
 注がれた薄紅がかった液体からふわっと香りが広がった。
「ジャスミン?」
「ジャスミンも入っている。わたしがブレンドしたのよ」と麗蓮は言った。
 口に含むと体中に香りが広がるようだった。
「変わった味だね」
 三種類の葉と二種類の花が入っていると麗蓮が言った。
「レシピは?」
「秘密」
「中国人は香りの民族だって、何かの本で読んだことがある」
「そう。花を愛するのも香りから。日本人みたいに見た目からじゃない。もちろん見た目も大事だけれど……これは家に伝わったもの。本当は食事の後に飲むのよ」そう言いながら麗蓮は空になった寺山のコップに二杯目を注いだ。
「喉が乾いちゃってね。いつもはビールなんだけれど」
「仕事は?」
「この間言わなかったっけ。夜勤なんだ。これから食事して寝るだけ。君は?」
「私の仕事も夜」
「アイランド?」
「ううん。会ったでしょ、新宿で。朝までやっている中国料理店で仕事してる。そうだ、食事まだなんでしょ。中華は口に合うかしら?」
「口に合わないものがあるような育ちはしていないよ」と寺山は笑った。
「待ってて、たくさんもらってきて食べきれないのよ」と麗蓮は立ち上がり、二、三歩行きかけたが、何か思いついたように立ち止まり、体を反転させ、コップを口に持っていこうとしている寺山の背に、「良かったら、寄っていかない。ビールもあるから」
振り返ると腰の後ろで手を組んだ麗蓮が軽くウインクして微笑んだ。
 
 ドアを開けると直ぐにリビングがあり、一枚板の大きなテーブルがある。奥がキッチンで麗蓮はキッチンからビールと簡単なつまみを持って来て「待ってて、直ぐに用意するから」とテーブルの上にグラスとそれを置いた。
 テーブルの脇にはサイドボードがあり、磨かれたワイングラスが並んでいた。リビングの隣にもう一つ部屋があるらしく、白い壁が奥の方で切れていて、その向こうで隣と繋がっていた。娼婦の部屋にも見えないし、女一人の部屋にも見えない。窓からは製紙工場が真正面に見える。寺山は麗蓮が注いでいったビールのグラスに口をつけた。つまみは川エビの唐揚げ。
「暖め直しただけだけれど」と麗蓮がテーブルの上に皿を並べた。酢豚とエビのチリソース炒め、青梗菜の炒め物にイカのあんかけとチャーハン。
それにガラスの器に入った杏仁豆腐。
「こんなに食べきれないよ」
「男でしょ。男はたくさん食べなくちゃ」と麗蓮はそれぞれの皿に取り分けながら「中国の男はよく食べる。豪快。みんな山盛り。強い男はよく食べるものよ」と微笑んだ。
「君もビールを」と瓶を傾けながらむしゃむしゃ食い続ける寺山を麗蓮は楽しげに見つめた。
「この間はごめんなさい」
「絡まれているのかと勘違いしてね」
「気になっていたの」
「そのお礼?」
「うん、でも……いつも見ていた。走るところ」
 寺山は食事の手を止め、ビールの口に運びながら麗蓮を見た。
「君の目の色、コンタクトかい?」
 麗蓮は小首を傾げ微笑し、
「ええ、なぜ?」と言った。
「あのときはしていなかったね」
 麗蓮はわずかに微笑んで、「嫌い?」と訊いた。
「いや」寺山はそう言うとまた食べ始めた。

 寺山が皿のものをすべて平らげ「あー食い過ぎた」と反り返って腹を押さえ顔をしかめると、麗蓮は笑いながらさっきのお茶をティーカップに入れて出した。
もう入らないと思っていた腹にそのお茶はすっと飲み込まれ香りが広がる。
「だめだ、眠くなってきた」
「寝ていってもいいよ」
「そんなわけにはいかない」
「気にすることはない。手出したらお金をいただくから」
「はは」と寺山はあきれたように笑い、「じゃあ、ちょっとシャワー貸してくれるかい?」と立ち上がった。
 壁の裏側の寝室にはセミダブルのベットがあり、窓際にライティングディスクと椅子が置いてあった。麗蓮はそこで寝ろと言う。
リビングのソファーでいいと言うがきかない。しょうがなく寺山がベットに潜り込むと、しばらくたってうとうととしかけた寺山の背中に麗蓮が寄り添った。
「金を取るって言う方が無茶だ」と、もそもそと寺山は寝返りを打ち、麗蓮の首の下に腕を入れた。
「お願いがあるの」
「なに?」
 麗蓮は寺山の頬に手をまわし、、
「……眼がさめたら海を見に行こう」
「周り中海ばかりだよ」
「うん」
「それでも」
「いいの」
「かまわないけれど」
「約束よ」と麗蓮は楽しげに言った。

 夕方眼を覚ますと既に麗蓮の姿はベットにはなかった。薄暗がりの中でシーツが夕闇の光に暗く濡れているように見えた。ぼんやりとした意識の中でそれを見ていると、壁の向こうからタバコの灰を落とす音が聞こえた。風が微かに通っている。窓を開けているのだろう。船の過ぎる音が遠くに聞こえた。寺山はベットから起きあがると、ライティングデスクの上の小さな写真立てを見るとは無しに見ながら素肌にジャージを羽織った。壁の向こうから「起きたの?」と麗蓮の声が聞こえた。写真には麗蓮と男と小さな子供が写っていた。寺山はそれを覗き込みながら「うん」と応えた。
麗蓮は窓の方に体を向け座っていた。テーブルの上にはタバコと灰皿。電気も点けず、夕闇を身に染み込ませているようだった。
「タバコ、もらうよ」
 寺山は麗蓮の向かいに腰を下ろし、麗蓮のどこか寂しげな微笑みに触れ、タバコに火を点け同じように薄暗がりの中に身を置いた。紫煙だけがぼんやりとした光を映していた。
ジャージを羽織っただけの寺山を見、「風邪をひくわ」と麗蓮は立ち上がり、寺山の着ていたシャツを持ってきた。いつの間に洗ったのか日向の匂いがした。
「海は?」とシャツに腕をくぐらせながら、コーヒーを入れるためにキッチンに立った麗蓮に寺山が訊いた。
「覚えていてくれたの?」カップを手に戻って来た麗蓮が「でも、いいの」と言った。
「どうして?」
「いいの・・・」
「約束だ」
「ありがとう。覚えていてくれて」麗蓮は寺山の前にカップを置き、後ろからその肩に両腕を回し囁いた。
「好きよ」
「その海は何処にある?」
「なぜ?」
 霧笛が聞こえ、街路灯が部屋の中に影を作り始めた。
「この間の男は旦那かい?」
 寺山の髪をまさぐっていた麗蓮の手が一瞬止まり、「ああ、写真、見たのね」と彼女は言った。
「彼と君と子供が写っていた。中国での写真だね」
「古宮」
「彼はここに?」
「ううん」
「なぜ日本に?」
「同じことを訊く人がいる」
 麗蓮は寺山から身を離し、タバコを手に取り、「海、見に行く?」と言った。

 団地の外れに高い鉄の柵で囲まれた防風林があり、その上を高速道路とモノレールが走っていた。麗蓮は「モノレールから釣りをしている人を見てね、どうやって行くんだろうって」と柵が運河に達しているところに建っている小さなコンクリートの建物の裏に寺山の手を引いた。そこに堤から下に下りる階段があった。立ち入り禁止の札の掛かった鉄柵の扉があったが鍵も掛かっていない。多分壊されてそのままになっているのだろう。
手すりのついた階段を下りると堤の壁にドームのような大きなトンネルが切ってある。「探検みたいでしょ」と麗蓮は言った。トンネルの中は真っ暗である。方角から言えば調度防風林の真下に続いている。「こっちよ」と寺山は麗蓮に手を引かれトンネルの中を進んだ。長いトンネルのように思えたのは、出口が暗い外海に繋がる方向で街の灯り一つ見えなかったからだ。次第に波の音が物憂く聞こえだし、波頭が月明かりを黒々とした海に砕いているのが見え始めた。トンネルを抜けるととたんに波の音が高くなった。そこはまるで巨大な橋桁のようなところで、左右は限りがないが真っ直ぐ行けばすとんと海に落ちてしまう。柵も何もない。
「はい」と麗蓮はビニール袋から缶ビールを取り出し、寺山に渡し「いいところでしょ」と海に向かって立った。
「うん、知らなかったね」と寺山は缶ビールの蓋を開けた。
「本当は昔から女の子の方が探検家なのよ。ただ遠くに行かないだけ。よけいなものも追求しない」
「ここはよけいなものじゃない?」
「うん」麗蓮は風になびく髪を押さえながらうなずいた。
 寺山は「危ないよ」と言い、壁にもたれて腰を下ろした。波は量感があり深みを感じさせた。
「よく来るのかい?」
「たまに」と麗蓮は振り返り、「落ち着くの。夜こうして一人で」と言い、風に向かい両手を広げ胸を張った。
 寺山はその後ろ姿を見ていた。足下には暗い海が広がり、左右には工場の明かりが明滅しているのが見える。寺山はビールを口に運び、
コンクリートの白さの上にそれを置いた。麗蓮は月明かりの下に立ち、寺山は背後の壁によって生じた影の中にいた。「そこから僕が見えるか?」
 麗蓮は振り返り、
「ぼんやりと」と言った。
「君はよく見える。僕は観客で、君は舞台の上にいるようだ。ああ、でも観客がこんなにしゃべっちゃいけないな」
「何が見えるの?」
「美しい物語なのかな?」
「舞台じゃないし物語でもない。まして美しくはない」
 麗蓮は工場の明かりの方に眼を向けた。モノレールの近づいて来る音が聞こえた。波の音がふっと消え、再び打ち返した。麗蓮は光と影の境に立ち、「そっちへ行ってもいい?」と訊いた。寺山は麗蓮が持ってきたビニール袋からビールを取り出し、自分の横に置いた。麗蓮はそのビールを手に取り寺山の横に腰を下ろし、水平線からなぞるように暗い空に目をやった。

 ──男の名前は京明。麗蓮と知り合ったのは大学時代だという。麗蓮は外文科で日本語と英語を、京明は医科で医学を学んでいたと麗蓮は言った。文革時代はともに家族は階級敵人のレッテルを貼られ迫害されたと。麗蓮の父親は国共内戦時代からの生粋の共産党員であり文革前には県長官まで登り詰めていたが、江青一派を批判したために失脚した。京明の家は河北省で名医の名高い家だったが、内戦時代に国民党スパイを匿ったかどで父親は労働改造キャンプに送られ、過酷な労働と思想改造の日々に絶望して谷へ身を投げた。しかし麗蓮と京明が大学に入った頃は既に小平ら実務派が実権を握り、麗蓮の父親も復権し、文革時代に接収された京明の家屋敷も返還されていた。二人は大学でテニス部に所属していて同じような境遇から急速に接近した。大学を卒業し麗蓮は1年間日本に留学した後、国務院の外交部に勤めた。京明は父の家を再興し弟とともに開業していた。二人の結婚は晴れやかで誰からも祝福されたものだったという。
麗蓮は子供が出来ると外交部の通訳兼外国人監視員として働いたと言った。寺山は中国を訪れた経験から、通訳はエリートだと眉を潜めると、麗蓮は中国では珍しい話ではないと続けた。日中国交正常化から10年以上が過ぎ日本の政治・経済界からの要人の訪中も頻繁で、その中で、度々随行員として中国を訪れていた通産省の官僚に内藤という男がいた。30半ばで独身。エリート官僚にしては驕るところなく、麗蓮はむしろ少し頼りないくらいに思っていたという。剃り残した髭が喉元に残っていたり、皺の寄った背広も平気で着ていた。中国の官僚では考えられないことだった。それがどういう訳か一緒に中国各地を回るうちに恋に落ちた。紹興で魯迅の生家を訪ねた時には内藤は日本での魯迅の生活を語り、辛亥革命から文化大革命までの短期間の大きなうねりの中で中国が失ってしまったものを語った。その悲しむような懐かしむような眼差しで語る男を麗蓮は愛した。ある日、男は日本に来ないかと言った。結婚したいと。麗蓮の心が引き裂かれた。内藤は2ヶ月に一度は随行員として中国を訪れ、その他に単独で来るときもあった。麗蓮はそのときも仕事と偽り内藤と過ごした。外泊の仕事が多くなったのを責める京明に対し微かな憎しみすら感じたという。内藤がいつまでもそんなふうに中国に来られる訳ではないこともわかっていた。だから逢瀬の刹那が輝き過ぎた。
夜は大概外国人専用ホテルだった。内藤は日本と中国のことを話した。麗蓮は1年間日比谷の留学生アパートに住んでいた頃を懐かしがった。日本の自由と平和を。中国人はどんなに体制に順応しているように見えようと心底体制を信用してはいない。こころに保険を掛けて生きることは中国人の性だ。改革解放の小平ですら天安門広場での民主化運動を武力で圧殺した。頭から信用すれば命に関わる。うつろいやすい政治により運命を翻弄され続けてきた中国人にとっては、今という時がどんなに希望に満ちて平和に見えようとそれは時の流れの中の、仮の宿に過ぎない。中国には未だに正史すら無い。麗蓮は内藤に寝物語でそんな中国の体制のことや訊ねられるままに国務院内部の腐敗や通訳を通じて知り合った官僚達のことを語ったという。外国要人との非公式の会談のことも。北朝鮮のことや軍内部の動きも。内藤は眼を剥いたり驚きの声を挙げて聞いたが、どこかそんなことは既に知っていることだともいうような印象を麗蓮は受けた。内藤はそういう男だった。興味があるのは中国人民のことであり官僚の腐敗や政治の暗躍はどこの国でも同じだとでも言いたげだったという。
日本の水産加工メーカーの視察団と台湾海峡に接した泉州を訪れたとき、内藤は海を見つめながらこの向こうにもう一つの中国があるといった。台湾のことだった。その夜内藤が酔ってホテルに帰って来たのは夜中2時を回っていた。そんなに遅くなるのは滅多にないことだった。県長官宅で麻雀につきあっていたと言い、明日はドライブに行かないかと麗蓮を誘った。視察団は一日観光だし、ガイドに頼んである。この辺は懐かしい感じがするんだと。
 翌日県の差し回した車で町を抜け亜熱帯植物が生い茂る海岸縁の道を走り、途中、小さな町の屋台で昼食を取った。内藤は幼い頃沖縄にいたと言った。基地のある町を転々としていたんだと。滅多に自分のことを語らない男だったが、そのときは郷愁に駆られたためか、海風と青島ビールのせいか、多くを語ったという。母子家庭で幼い頃は自堕落な母親を憎んでいたことも。それでも沖縄にいるときはまだ良かったと言った。内藤は風に揺れるパームツリーを眺めながら、母親が死んだのは東北で内藤が12才の時だったと言った。文化住宅と言えば聞こえがいいがと内藤は続けた。その頃母親と二人で住んでいたところは河川脇の棟割り長屋の一階で湿気が酷く、彼の母親は何時も関節が痛いと嘆いていたと。まだ40才にもならないのに最後は痩せ衰え老女のようだったと内藤は言った。
「癌でね。野辺の送りって知ってるかい?」と内藤が言った。中国の葬式は派手だから同じ野辺送りでも想像もつかないだろうがと前置きして今ではそんな風習も廃れてきたが昔は日本でも葬列を作って死者を墓地に送っていた。鳴り物と言えば小さな鐘だけだ。静かに死者を送る。その辺りではその頃でも野辺送りするのが普通だったんだと内藤は言った。でも「それも出来なくてね。」と内藤は続けた。家の前に台を置き、線香を立て、鐘を置いて長屋の人にそれを鳴らしてもらい、オート三輪に棺を乗せて焼き場に持って行ったという。その後内藤はある人に養子縁組させられたと言った。「僕が今こうしていられるのはその人のおかげだ」と。
午後からは海岸線を離れ、山道を行き、標高1856mの戴雲山を遠くに見ながら、山々を取り巻くような峡谷に眼を見張り、霞の掛かった遙か下の川面を竹で組んだ筏でゆっくりと荷を運ぶ人の様子を夢のように眺めた。麗蓮は幸せだった。この時間を永遠のものにしたいと思い始めていた。
 展望台のようなところで二人はその奇観を背景に写真を撮った。内藤はカメラが趣味でそのときも様々なレンズを収納したバックを持って来ていた。所々で車を止め、内藤は写真を撮った。麗蓮を撮る時もあったし景観を撮るときもあった。一度だけ内藤は三脚を立て超望遠レンズを使った。鳥や花を撮る。麗蓮には見慣れた姿だった。山を下り、町に向かう途中で人民解放軍の兵士に車を止められ、身分証明書の提示を求められた。
麗蓮は県長官の許可証と内藤の身分を証明する国務院発行の許可証を提示した。見ると脇道の鬱蒼としたジャングルの向こうに海に向かって大きなパラボラアンテナを設置した軍の施設が見えた。兵士は許可証を確認すると車の中を点検する事もなく通過を許可した。
 
 2ヶ月後、内藤が予定の日に来なかった日、麗蓮は待ち合わせのホテルで逮捕された。公安部の一室で麗蓮は内藤が国民党特務に通じていたことを聞かされた。
台湾のスパイである。麗蓮は無実を訴えたが聞き入れられなかった。事実、外交書類のコピーを渡したこともあったし、軍図書部への立ち入りに協力したこともあったがすべて上長の許可を得てのことだった。そこにいた人間も一人や二人ではない。しかし上長はじめ誰もが麗蓮一人でやったことだ何も知らないと口を揃えた。決定的だったのは泉州においての内藤の行動を当局に報告していなかったことだった。あれから数日後にレーダーサイトの暗号コードが何者かに持ち出された形跡があるという。麗蓮と内藤の行動はすべて調べ尽くされていた。若いキャリアは侮蔑の目を向けただけだったが、中年の取り調べ担当官は酷薄だった。取り調べと称し拷問を加え、複数の兵士に麗蓮を犯させた。上司である若いキャリアもそれを黙認した。スパイに人権が無いのはどの国においても当たり前である。特に中国では。日本政府との折り合いがどう決着したのかはついに解らず仕舞いだったが、事件の真相は闇の中に葬られ、麗蓮だけが汚辱の中にいた。麗蓮は子供のことだけを想った。ただ会いたいと。しかしそれすら絶望的な望みに思えた。スパイの嫌疑を掛けられれば社会的には抹殺されたも同然だ。裁判も行われず処分保留のまま瞬く間に2年が過ぎ、初めて面会が許された。やって来たのは京明だった。僅か2年で京明はすっかり面立ちを変えていた。2年前はどちらかと言えば色白でふっくらとした楽天的な面立ちだったのが目の前にいる京明は頬は痩け、眉に険しさ含み、肌の色まで変わったようだったと麗蓮は言った。京明は子供は弟夫婦に貰われたと言った。その経緯は聞かずとも麗蓮には解っていた。京明は麗蓮の釈放の為にあらゆる手だてを求めたと言った。ここから出られる方法は一つだけだ。しかしここを出ても自由があるわけではないと京明は言った。三合会を通じて一つだけ道がある。
「君に興味を示している人がいてね」と京明は言った。三合会とは香港の犯罪組織だ。それがどういう意味かおぼろげながらも麗蓮にも解った。私はあなたを裏切ったのよ言った。京明は「愛している。今でも変わらず」と暗い表情で言った。
それから2ヶ月後に麗蓮は処分保留のまま解放された。京明と黒塗りの車が出迎えに来ていた。麗蓮にはどこに行く宛もなかった。一族が麗蓮の受け入れを拒否していることも知っていた。子供にすら会いに来てくれるなと手紙を受け取っていた。そこには一族が社会的迫害を受けた恨み辛みしかなかった。その矛先は京明にも向けられていた。親戚中から金を借りて行方知れずだという。工作資金に使ったのだろうと麗蓮は思った。黒塗り車の中には初老の男がいた。あなたの住むところは私が用意したと男は言った。男は中国のやくざ組織の男だった。その日から麗蓮は男の妾になった。 妾とは高級な売春婦のことだ。商売の駆け引きに使われる。寝ろと言われれば誰とでも寝る。なかには日本の官僚もいた。知っている顔もいた。向こうはそれを喜んだ。しかし誰も内藤のその後は知らなかったし、日本ではそんな事件は無かったかのようだったという。
 京明が会いに来ることを男は許した。残酷とも言える優しさだった。客と一緒に同席させたこともあったという。京明は自分を失いゆっくりと狂って行った。会うたびに麗蓮を虐待しそんな自分に苦しんだ。それでも麗蓮は京明の来る日をこころから待ち望んだ。しかし麗蓮はこれ以上京明が苦しみ狂って行くのを見ていられなくなった。麗蓮は密かに密航組織である蛇頭に通じ日本に逃げた。4年前のことである。
京明が麗蓮を見つけたのは新宿だった。麗蓮は小さな中国料理店に潜り込み下働きとして働いていた。2年前の事である。生活には慣れたが不法残留者として始終怯えて暮らしている事に変わりはなかったし、明日の希望もなかった。京明が店と通りを隔てた歩道にしゃがみ込んで、膝に片肘をつき、にこにこと笑いながらおどけて手を振っているのを見たときは本当にうれしかったと麗蓮は言った。相変わらず痩せてはいたが苦しげな眼差しは消えていた。
京明は君さえよければ日本で君を支えたい。いつか中国も変わる。今までがそうだったようにと言った。二人は百人町にアパートを借り、京明はビザを申請仕直し、知り合いの漢方医のところに職を得た。不法残留者という爆弾を抱えながらの小さな生活だったが麗蓮は幸せだった。隠れ住んで、先が見えなくともただ京明が側にいるというだけで良かった。京明を通じて子供のために中国に送金する事も出来た。そのために身を削ることは何物にも代え難い喜びだったという。半年ほどしたある日、京明が訊いた。君は何故日本に来たんだ?と。馴染みがあったからよと台所に立っていた麗蓮は何気なく答え、はっとして、1年間留学していたものと振り返った。そのとき京明の暗い眼が一瞬過ぎった。京明はその眼をごまかすように背後から麗蓮の首筋に顔を埋め、愛おしむように優しく抱きしめた。
 京明が荒れだしたとき麗蓮は為すすべがなかったという。京明は麗蓮のどんな言葉も信じ、信じようとするが故に引き裂かれた。麗蓮の京明の為を思うすべてが次の日には京明の苦しみに変じていた。京明は穏やかに笑い、愛の言葉を囁き、苛まれた。彼は薬に逃げた。そのときだけ心から麗蓮を愛することが出来た。しかし次第に京明は麗蓮の愛を憎み出すようになった。「日本に逃げ出す前と同じ」と麗蓮は言った。京明は幼いときに両親が比闘大会の満座の前で縛り上げられ、罵倒され、殴られ、蹴り倒された辛い思いでのなかに麗蓮を置いた。麗蓮の苦しみを苦しむことでしか彼女を愛することが出来なくなっていた。
「京明のところには?」
「仕事の帰りに朝、」
「今でも?」
 麗蓮は小さくうなづいた
「一日中日の射さない部屋……なぜ、逃げる。私が怖いのかって、あのとき……」
「彼が逃げる?」
「うん」と麗蓮がおかしそうに微笑んだ。
 寺山が飲み干した缶をビニール袋の中に放り込むと、麗蓮は話の間、指で弄んでいたビールの栓を開け、寺山に渡した。
「内藤を捜したのか?」
 麗蓮は海の向こうに目をやり、
「京明が」と言い、
「何処に?」と訊くと、麗蓮は答えず、
「アイランドの仕事を探してきたのも彼。この町住むように手配したのも彼」と言った。
「──君はそれで良いのか」
 麗蓮はわずかに微笑んで言った。
「それでいい」



田舎で変わった飲み屋でもやってみるよと故郷に帰った吉田だが、一月もしないうちに一緒に福島の田舎に行ったはずの女を渋谷で見かけた。いや見かけたというのは中たっていない。そこは渋谷の健二のマンションの近くにある地下のクラブである。凄まじい音でレイブミュージックが鳴り響いていた。真っ暗な中に強烈な光が明滅しコマ落としのフイルムを見るように男と女が蠢くのが見える。スカイウオーカーのサングラスをかけた
男と男が床に跪き切なげに抱き合っている。寺山はその脇を通り奥に向かった。客のほとんどは東南アジア系で中国、マレー、フィリピン、タイと雑多である。白人が入ってくるとほとんどは首をすくめて帰る。声は耳元で叫ばなければ聞こえない。健二の行きつけである。
 ダンスフロアの周りの壁際にテーブル席が不規則に並ぶ。迷路のような階段状のテーブル席を腰くらいの高さの銀色のパイプが席を分け、ダンスフロアの周りにもそのパイプが張りめぐらされている。フロアの中の人間は踊るというよりもふらついているという感じだ。そしてそのパイプに寄りかかりほとんどリズムだけの大音響の中でもつれ合っている。
ケンジは一番奥の席に居た。明滅する光の中で健二は女と居た。テーブルにはハーゲンダッツの空カップ。寺山はその肩を叩いた。ケンジはゆらっと顔を上げ、見知らぬ者を見るように寺山を見た。完全にキマッている。寺山は舌打ちし、その隣に腰を下ろした。
ケンジの濡れたような髪を女の手がかき上げる。寺山は女を見て、「あ!」と声を上げた。女がなにか囁きかけるとケンジが肩を振るわせる。笑っているのかもしれないが声は聞こえない。哄笑してもこの音の中では耳に届くはずもない。耳をつんざくような音で単調なリズムが繰り返される。その強制的な集中と光の明滅が夢を誘う。女が健二の膝の上で猫のように身をくねらせた。ボーイが来た。寺山は強い酒を頼んだ。
その店を出て、腹ごしらえをしようとまた例の台湾屋台料理屋に行った。女はとてもあんな田舎には住めないと言った。
「吉田は?」と寺山が訊くと「まだ居るんじゃない」とさらりと答えた。女主人が「今日は担仔麺がサービス。一腕10円」とメニューを手にやってきた。健二がメニューを引き受けクスリの後遺症でクネクネしながら女主人を笑わせ、じゃあそれと海老チリとピリ辛なんとかとこれとこれとと適当に注文し、「吉田は馬鹿だから、帰ってくるんじゃない。おめおめと。なっ、」と女の腰に手を回し言った。店の中央一段高くなったセンターキッチンでは長いコック帽を頭に乗せた女調理人が湯気と戦いながら、まるで奇妙な木偶人形が機械仕掛けで動いているように同じ動作を繰り返し、担仔麺の腕を煉瓦の台の上に大量生産していた。その腕を黒いTシャツのウエイターが次々とさらっていく。寺山は女にビールを勧め、「どうして健二と?」と訊いた。「街で転がっていたのを拾ったのさ」と健二が代わりに応えた。女は健二にしなだれかかり、楽しげにその顔を見上げた。「吉田の癖は知ってるからさ、ちょっとまねしたら、こんなんなっちゃった」と健二は女の頭をなで回した。「あきれたやつだな」と寺山が苦笑すると、健二は「大丈夫。預かっているだけさ。あいつは解るよ」と笑った。

その帰り、住宅街の小さな駐車場の片隅で女が吐いた。妊娠しているという。どうするんだと訊くと自分で育てると苦しげな息の下から言った。


 アイランドのマスター、陳が倉庫にやって来たの10月に入ってからだ。熱帯低気圧がその年何度目かのが台風に代わり篠突く雨の中、ヘッドライトの光がぎらつく向こうから傘をさして現れ、トラックヤードで作業をしていた寺山を見つけ手をあげた。屋根の下に入り傘を畳み、作業場から下りた寺山に「麗蓮が死んだ」と告げた。「え?」「あなたは友達みたいだからな、知らせておくよ。京明と一緒に首を吊った。」それだけ言うと陳は雨を払うように勢い良く傘を開きゲートの方に歩き去った。
 寺山は作業をアルバイトに指示し公衆電話から健二の携帯に電話をした。電話に出た健二はそれまでに何度か麗蓮を伴って飲んだこともあったために絶句したが、今はそれどころじゃないと言う。赤ん坊が生まれそうだ。おまえも来てくれと泣きそうな声で言った。寺山は陳のくれた大久保の中国系キリスト教会の住所を書いたメモをポケットに押し込み、検品の山岸のところに行き、課長が出てきたら早退したと伝えてくれと言い残し駅に向かった。
 そこは今時こんな産院がと思うような路地裏の年期の入った建物で、どうせ健二の知り合いのつてで捜してきた産院であるから、待合いに張り出してある妊産婦の心得を書いたポスターも数年前のもの、小豆色の長椅子の表にはガムテープの補修、およそ生命の誕生を賀するに似合わず、露の命の方が縁が深そうである。看護婦も五十を越えたのが一人いるっきりだ。だが健二はこの看護婦をいたく気に入っている。女の出産はまるで手作り出産で、4,5ヶ月を越えた辺りから身の回りの品々の相談から、食事のこと、旦那の心得等、健二は神の言葉のように神妙にこの看護婦の言葉を受け入れ、産院が休みの日など不安でたまらず、自宅の電話番号まで聞き出したくらいだ。吉田にも逐一連絡を入れていると言うが「あいつは馬鹿だから」と、吉田が意に介さないのを健二もまた意に介さない。ただ母子手帳を作る為に吉田の認知はいただいたと健二は言った。産院着くと健二が廊下をうろうろとしている。予定より早いからまだ何も用意していないんだ。赤ん坊の着る物も必要だろうし、オムツやミルクもいる。おまえ何かその辺で買って来てくれないかと訳の判らないことを言う。「落ち着けよ」と椅子に座らせても直ぐにびっくりしたように立ち上がり、「名前だ名前、いくらなんでも名前くらいあいつにつけさせなくちゃな。悔しいけれどしょうがない」と携帯の番号をせわしなく押す。「そんなもの後だっていいんだよ、男か女かも判らないじゃないか」と言っても、既に「だって、そのくらいおまえ、責任じゃないか」と電話に向かってわめいている。ついに例の看護婦が分娩室からバタバタと出てきて、「静かに!」と一喝。今たいへんなのは奥さん。あなたがそんなんじゃ奥さん気が気じゃなくて集中できないでしょう。男だったらどっしりと落ち着いて、安心させて上げなさいとの言葉にやっと椅子に腰を落ち着けた健二が、
「それで?」とたずねた。
「ん?」
「麗蓮さ」と健二はそれまでの自分を棚に上げて、何をぼんやりしているんだと言わんばかりに、いらだたしげに訊いた。
 寺山はポケットからメモを取りだし、
「今日行ってみるよ」と健二に差し出した。
「ここはいいよ。もう大丈夫だ」
 寺山は玄関のガラス窓に映る雨に濡れた街路灯の明かりに目をやり「いや、急ぐことは無いんだ」と言った。


9月、吉田が女に会いに来たとき、たった一つ吉田の財産として残ったクルーザーに麗蓮を誘った。寺山と麗蓮は買い出しを担当した。その頃には麗蓮も京明と会うことも少なくなっていたはずだった。ジョギングの途中でベンチでお茶を飲むことも日課のようになっていた。健二にも紹介し、寺山が麗蓮の部屋から会社に向かうことも少なくはなかった。ただ、麗蓮は時々一人であの海を見に行く。寺山はその後を追い、トンネルの中程から海を見つめる麗蓮の後ろ姿を見ていた。麗蓮は長い時間そうしていた。寺山もまた声をかけることなく見守った。
 アイランドの仕事は実際のところ麗蓮は客を取ることは無かった。女達の通訳をしたり、彼女達の細々とした日本語の書類関係を手伝ったり、日本語を教えていただけだった。寺山に応じたのは「気まぐれ」と麗蓮は笑った。本当かどうかは判らない。二人で街に出ると必ず洋書屋を覗いた。新刊のミステリーを買う。その頃にはコンタクトではなく縁なしの眼鏡になっていた。いつもはそうなのだという。浅草に行って電気ブランを飲みその強さに驚き、江戸博物館に行って近代の展示物の一々に中国では今でも使っている言い、帰り道のついでに靖国神社に誘うと「かまわないけれど、中国人の気持ちが解るか」と寺山の意見を聞く。寺山が最初に感じていた何処か内に隠した思いのようなものも薄れ、生活を楽しむように感じられてきた。体の傷もその頃には滅多に見られなくなっていた。クルーザーのキッチンを説明すると買い出しもわざわざアメ横まで足を運んだ。「料理はプロだからまかせて」と麗蓮は張り切った。中華料理の食材を売る店では母国語で厳しく価格交渉をする。寺山に持たせるものもどんどん増える。干し貝柱に中国ハムにニンニク、鶏肉、豚肉、芝海老、春雨、アサリ、烏賊にクラゲに何に使うのか魚の浮き袋。その他各種調味料に野菜に老酒。乾燥なまこは「戻すのたいへんだからやめた」ということである。両手に荷物を抱えた寺山が「もういいよ」と音を上げても「もう少し」と店を覗くことを諦めない。
 クルージング当日、新木場のマリーナには腹の大きくなった女と吉田と健二が既に着いていて吉田は点検のためエンジンルームに潜り込み、健二は給水のホースと格闘していた。40Feet越えの艇だから調整や仕込みも一仕事である。寺山は麗蓮を女の居るクラブハウスにやり、エンジンルームにいる吉田のところに行った。吉田はスエーデン製のエンジンのオイルを見ながら「こいつともこれでおさらばだな」と寂しげに言った。
係留その他で年間200万は掛かるという。「なんだ、落ち込むなよ。自由になって子供まで出来るんだ」「ああ、それが問題だ。というか全然そんな気がないんだな。父親になるって。健二の方が俄然張り切っている。あいついったい何考えてんだか、父親は俺なんだけれどな」「直ぐに飽きるさ」と寺山は笑い、「あの女だって大したもんだ。健二は利用されるのを喜んでいるんだからそれでいいじゃないか。母は強しだよ」とからかうように吉田の肩を2,3度軽く叩いた。
出航は3時。ビールその他飲み物を積んで艀を離れた。東京湾を周遊して横浜の夜景を見ながらのサンセットクルージングである。寺山がデッキにでた麗蓮に「船は大丈夫か」と訊くと、「慣れてる」と麗蓮は笑った。レインボウブリッジをくぐり、富津岬を左に過ぎた頃、吉田が時間があるから大島辺りまで行ってみるかと言った。浦賀水道辺りからとたんに波が高くなる。30ノット以上で舳先が波の上を滑るように走る。州崎の灯台が遠くに見えると後は大海原だ。デッキでは「日本よさらば!」とか健二が叫んでいた。
伊豆沖に夕日が沈むのを見ながら船は大島に背を向け、数ノットの自動操縦に切り替わった。吉田がコックピットから下りてきて、ギャレーに居る麗蓮の手元をのぞき込み、「うまそうだなあ」と眉を上げると、「お疲れさま」と麗蓮が貝柱を箸でひとつつまみ「味見」と吉田の口に運んだ。貝柱を口にした吉田はうっとりと反り返り「だめだ、ビール」と麗蓮の足下の冷蔵庫を開けビールを取り出し、「もう一つ」と手を伸ばし麗蓮に叱られた。
デッキには椅子とテーブルがセットされ、健二が白い布をバッと広げ、寺山がワインクーラーをその上に置いた。それを見た健二が「良いね、気恥ずかしいくらいだ」と真顔で言った。ビールを片手にデッキに出てきた吉田が椅子に腰掛けた女の横に跪き、腹に耳をあてた。「聞こえるか?」と手すりにもたれた健二が言った。
「ああ、活きがいい」「嘘つけ。」
テーブルの上に料理が並べられ健二がシャンパンを抜いた。太陽が水平線に近づき海が金色に輝いていた。シャンペンが空き、ワインが2,3本空いた頃、西の空一面に奇跡のような夕焼けが広がった。女が、酔っぱらって大騒ぎしている男達を離れ麗蓮を誘った。
 麗蓮が女の腹をかばい、手を引いた。女はデッキの最後尾の手すりにもたれ全身を陽に染め、「綺麗……」と呟いた。
 麗蓮は愛おしむような眼差しを女に注いでいたが、女の視線を追い、オレンジ色の空に眼を瞠ると「うん」とどこか寂しげに微笑んだ。


 大久保駅から新宿方面に向かい細かい路地を抜けるとどうやらそこらしい3階建てのビルがあった。寺山は傘を畳み、テナントのプレートを見た。3階に中国キリスト教協会新宿教会とある。既に幾人かが上って行ったのであろう、雨が階段の汚れを滲ませていた。3階に上りドアを開けるとビロードの黒い布が右に通路を造っている。その布の向こうから食器を洗うような音と中国語が聞こえた。寺山は透き間の空いた傘立てに傘を入れ、
奥に向かった。黒い布の通路を抜けると左手正面の壁に大きな十字架が掛かっていて、その手前に聖書を乗せた飾花台があった。飾花台の隅に小さな写真立てが置いてあり、その続きの壁際に折り畳み椅子が並べられ、陳がそこにいた。「先ほどは」と寺山が言うと陳がわずかにうなずいた。写真立てを見ると例の写真だった。「麗蓮のところから?」と訊くと「いや、京明の部屋にあったものだ」と陳が言った。寺山は聖書の前で手を合わせ、陳の横に腰を下ろした。通路の方からアイランドで見かけた女が盆に茶を乗せて来て、「あなたが来たらこれをって」と笑顔で言った。薄紅色の茶だった。「麗蓮が?」と女に訊くと、「ええ」と言い、「ごゆっくり」と下がった。寺山は茶の色を見つめながら陳に訊いた。「遺体は?」陳は「警察だ」と簡単に答えた。寺山は茶を口に含んだ。変わらぬ香りが広がる。「今時のアパートだ」と陳が口を開いた。「首を吊るところなどありゃしない。天上を破って梁に紐を掛けていた。楽しかったろうな。細い梁だ。二人で何度も試したに違いない」
寺山はタバコを取り出し「吸って良いか」と訊き、タバコをくわえ、胸ポケットに仕舞いかけた箱を写真立ての前に置いた。「親戚には?」と寺山が訊くと陳は疲れた顔で、「彼女は天涯孤独だ」と言った。「子供がいる」と言うと「4年前に死んだ。」と言った。

 帰り際、彼が韻を踏んだ。教会に似合わない朗々とした力強い声だった。魯迅の絶句だという。



 ──タバコを吸おうとしてポケットに手をやり麗蓮の前に置いてきたことを思い出した。職安通りを渡ったところの自動販売機でタバコを買い、駅に向かった。いつの間にか雨が上がっていた。暖かい風が吹いた。微かに甘い匂いがする。見ると店先に果物を並べた店がある。湿った風は海風のようだった。街路樹の梢がライトアップされ金色に揺れていた。異国の文字が看板のその店では飲み物も一緒に売られていて、金色の輝きから眼を逸らすと、麗蓮がビールを手にやって来るのが見えた。蒼い瓶だ。ガラス張りの冷蔵庫は水滴で濡れて真っ白なのにちっとも冷えていない。「こんなものよ」と麗蓮が笑った。冷蔵庫から探り出すようにビールを出してくれた老婦がうたた寝する傍らのラジオから中国語の歌が聞こえた。目を転じるととエメラルドグリーンの海が広がっていた。パームツリーが風に揺れている。
 道化師の歌だと麗蓮が言った。笑いを売る仕事だがたまにはその裏には切ないことだってある。少しだけ解って欲しい。という内容だと麗蓮が言った。男と女が掛け合う可愛らしい曲だった。どこかで聴いた曲だった。寺山は名も知らぬ果物を手に取り、年老いた店の主人に「この曲は?」は訊いた。主人は店のテントを指さした。見ると「鬼瞼娃娃」とある。店の名前にしているらしい。麗蓮が教えてくれたのだ。アイランドの部屋でだったろうか、それとも麗蓮の部屋で。「しかめっ面。かわいいしかめっ面ね」と。楽しく切ない歌だと。老婦が微かに船をこいでいる。強い日差しに生ぬるいビールがよく似合った。
 麗蓮は老婦に向かって「マーア」と二三度呼びかけ、起こすのを諦め、店の奥から貝を黒く炒めたものを山盛り持ってきた。「こんなに食べたら腹をこわすよ」と言うと「そんな腹じゃ中国では通用しない」言った。麦藁帽子を浅くかぶり、道に迷った寺山の背中を両手で押した。「早く、早く」と急かし、笑う。 煙草屋の店先に電話を見つけ、寺山が「電話を掛けてくる」と言うと、麗蓮は気だるそうに小首をかしげ微笑み、「待ってる」と言った。
 タバコを買った釣り銭をポケットから探り出し、健二の携帯の番号を押した。
 健二は「生まれた」と言った。寺山は確かめるように振り返った。
 健二に替わって女が、麗蓮が船の上で手を握っていてくれたことを話した。残念だと言った。
 吉田が高速を下りたみたいだと健二が言った。
「おまえも来るだろ」と訊かれ、寺山は病院に至る坂を思い返し、上れるかなという言葉を飲み込み、
「ああ」と露に濡れ始めた果物をガラスの上に置いた。

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