小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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『待って下さいっ!』


「待って下さいっ!」


「ええいっ!五月蝿いっ」


 ざあああ―――。

 辺りにはノイズが響く。

 どうやら雨を降らしているらしいが、本物と比べると幼子の玩具のようだ。

 上下共に光に照らされているこちらとしては些か伏目がちになってしまうが、それが余計に観客たちの心を

掴んでいるとは当の本人は露程も知らないだろう。

 目の前にはドラマや歴史物の番組でしか見たことのない鎧を身に付けた青年が険しい顔でこちらを見据える。

 その瞳に映っているであろう自分の姿に憤りを感じながらグッと堪えて次の指示を待つ。


『あれは私の弟。血こそ繋がっておりませんが姉弟同然、共に育ってきました』


「あれは私の弟。血こそ繋がっておりませんが姉弟同然、共に育ってきました」


『なのに…何故戦わなくてはならないのですかっ!』


「なのに…何故戦わなくてはならないのですかっ!」


 インカムから流れてくる台詞に合わせて相手をキッと睨む目の端にはうっすらと涙が光っていた。

 その姿に数名の観客が各々のハンカチを握り締めている一方、紫紺(しこん)は別のことを考えていた。



(何で僕がこんな目につ!)



 先程舞台袖に捌けた時、あのお得意の人を食ったような笑みの青年に差された目薬が強力すぎて沁みるのと

自分の情けなさが相俟って余計に涙が出る。

 床を流れるように伸びる見事な黒髪、生まれて初めて日焼け止め以外を塗りたくられた顔、そしてきわやかな

色彩が初々しさを漂わせる唐衣を模倣した着物が今の彼を包んでいる。


「それを望んだのはそなたの弟よ。私はそれを叶えたのみ」


『ですがっ…』


「ですがっ…」


 尚も冷たく言い放つ半(はした)にそれでも食いつく勢いで見上げる。

 どちらのものか判らない涙が頬を伝うと、それを然も愛しげに指の腹で拭うと、優しく抱きしめられた。



(ぎゃああああああっ!!)



 何だ、このすっぽりサイズはっ。



 確かに自分は一般の男子高校生より小柄だ、それは認める。




 だが、だからと言って同性などに微塵も興味を抱いたことがない……それは悲しき事かな、異性にも言えた。


「なあ、頼むよ」


「断るっ!」


 それは昨日、千歳を皆で送った直後に鳴った携帯電話から紫紺(しこん)の苦悩は始まった。

 その場の静まり返った雰囲気がそれの発する着メロで一掃されたのは言うまでもない。


「誰だよっ、こんな時に……映画館のCMか何かか」


 もらい泣きこそはしていないが、それでも場にそぐわない効果音に眉を顰める彼は恰も何もなかったような

仕草でねんねこの袂からまだ五月蝿く鳴り響く携帯電話を探り当て、通話ボタンを押した人物に余計にそれを

深くした。


「もしもし?……ん、……ん、……えっ?それは大変だね」


 言葉とは裏腹に全然焦っているようには見えない聴(ゆるし)に呆れながら見ていると、一瞬目が合う。

 しかし、それは直ぐ解かれ、数分間視線を宙に泳がせて泣きじゃくる幼い少年の頭を優しく撫でる京輔の上に

降り注せると、あのお得意の笑みを浮かべてこう言った。


「仕方ないね。今こっちに代役にピッタリな人材がいるから何とか頼んでみることにするよ。……ああ、解って

いるよ。じゃあ…」


 そう最後にピッと、終話ボタンを押して一息を吐く。


「何かあったのか?」


 そう尋ねたのは道着の胸元から青いチェックのハンカチを取り出すと、ようやく泣き止んで鼻を啜る

青磁(せいじ)に差し出す彼だった。


「ああ……。今年の演劇部の出し物に民芸部が関与しているのは知っているだろう?」


「……ああ。確か、昔話を客ウケを狙って恋愛ものに改良したとか言う…アレか?」


「そう。だけど、レギュラーキャラの部員がレポートの提出日が今日だったってことをすっかり忘れていてさ。

何とか明日までに延ばしてもらったんだけど、当然明日の公演には間に合わない」


 そこで君たちにお願いしたいんだと、肩を叩かれた紫紺(しこん)は頭の中が真っ白になる。

 記憶にある限りでは脇役の脇役…コーラスくらいしか参加したことがない自分がいきなり主要キャラだ。

 しかも、練習もリハーサルもすっ飛ばしていきなり本番だ。

 驚かない方がどうかしている。


「だからと言って俺たちは素人だ。いきなりそう言われてOKする訳はないだろうが」


「それなら大丈夫。今日、ファッションショーをやっていた手芸部からインカム借りているから。それで俺が

台本見ながら二人に指示出すから問題はない」


「インカムって……お前、いつの間に」


 アイドルみたいで面白いだろと、笑う聴(ゆるし)を一度じっと睨み、息を吐く。

 こんな提案、厭きれて当然だ………………。


「解った。で、俺は何をすればいいんだ?」



(はあっ!?)



 自分と同じくあんなに乗り気ではなかったのに、一息でそう簡単に変わるものなのだろうか。

 ……いや、京輔(きょうすけ)の場合は根っからのお人好しなのだ。

 きっと、こういう展開には慣れているのだろう。


「半(はした)ならそう言ってくれると思っていたよ。で、君はどうかな?東雲紫紺(しののめ しこん)

くん?」


「うっ…」


 あの含みのある声でそう訊ねる青年と目が合い、思わず言葉に詰まった。

 それにはやはりお得意の笑みが宿っており、この場で断ると何だか逆に癪に障る気がした。

 言っておくが、決して紫紺(しこん)は勝気ではない。

 寧ろ安逸を第一に考えるのだが、何故こうも簡単にそれが一瞬にして胸に灯ってしまうのか理解できない。


「解りました。演劇でも何でもやってやりますっ」


「ありがとう。じゃあ、早速だけど、これに軽く目を通しておいてくれ」


 そう渡されたのは………………電話帳……とまではいかないが、まだ記憶に新しい高等部の入学式で配られた

カリキュラムくらいの見事な厚みがある台本だった。


「インカムで台詞は教えるけど、話の内容を少しでも把握してくれないと動きが不自然になるだろう」


 それはそうだけどと、渡されたそれを1ページ捲った所でまたもや思考は停止した。

『緋の刻印』と題されたそれには登場人物名と軽い設定が書いてあり、これ見よがしにピンクのマーカーで印を付けられてある役名に彼の視線は釘付けになってしまったからだ。


「……緋褪(ひさめ)


 それはあの夜、狐の面を被った男がうわ言のように呼んだ名だ。

 それが何を指していたのかは今となっては確認の取り様がないが、こうして人物名で表れてもさほど驚かな

かった。

 それが何故なのかは解らないが、とても懐かしい気がする。


「それが君の役だよ」


「ふっ、ふーん…」


 そう返してみるが内心ではどんな人物なのか気になりつい、数ページパラパラと捲ってしまう。

 彼を追いかけるようにマーカーで彩られたそれも一緒に動く。

 さすが主要キャラだけあり、台詞も相当なものだ。

 その内容を見る前にその数が目に付いてしまい、今更になって安請け合いをしてしまったのかと少しの不安が

胸を過ぎった。


「大丈夫だ」


「うわっ…」


 今まで黙々と台本に目を通していた青年が紫紺(しこん)に気づいて頭をポンポンと優しく叩く。


「校倉(あぜくら)は性格にかなり問題があるが、出来ない人間にやれとは言わない奴だ。少なくともお前が

適役だと踏んだからには何かしらの勝算があるはずだ。そんなに思い詰めなくても大丈夫だ」



 どうやら彼は自分が勢いで引き受けてしまったことに後悔していると 勘違いしているらしい。



 …まあ、強ち的外れではないが。



「「性格にかなり問題がある」は酷いなあ」


「ご愁傷様だな。その歳になっても無自覚とは」


「んや、ある」


 どっち何だよと、呆れ顔で窘める京輔(きょうすけ)に聴(ゆるし)はやはり笑うだけだった。

 一体、この二人は何時からの付き合いなのだろうか、そう尋ねようとして言葉を生唾と一緒に飲み込む。

 自分たちのように小等部からの付き合いならまだしも、大学の入学式で偶々席が隣だったなど極めて最近だと

返答されては立つ瀬がない気がしたからだ。

 人間なんて醜いだけだ、平気で嘘を尽くし、目の前にあるものは何であろうと汚したくなる生物だ。

 だが、一番許せないのは紫紺(しこん)自身がその一人で、無意識にそれを選んでしまっていることだ。

 太一(たいち)はどうしてこんな自分の傍にいつもいてくれるのだろう。

 そんな答えの出ない疑問だけが夕暮れの秋風のように寂しく彼の心に吹いた。

 『緋の刻印』は平安時代を舞台にしたおとぎ話を恋愛ものにリメイクした四時間にも渡る長編ものである。

 その手の話なんて大抵は『ある男が女と出会い、恋に落ちる』だ……などと高を括ていたが、それだけで

終わらないのが如何にも彼らしい。


「泣くな。そなたに泣かれると私は弱い」


『頼光(よりみつ)様っ』


「頼光(よりみつ)様っ」


 着物の上からも感じ取れるその厳しい鎧の硬さがとても懐かしくて思わず本当に涙が零れてしまいそうに

なる。



 ……行かないで欲しかった。



 争いなど……止めて欲しかった。



 ………………これは一体、誰の記憶なのだろう?



 昨夜、軽く彼らと読み合わせをしていたから感情移入でもしているのだろうか。

 彼が台詞を読む間、終始左近(さこん)が腹を抱えて笑っていたのを思い出し、今にも滴下してしまいそう

だった東雲紫紺(しののめ しこん)としての感情を引っ込める。



(……覚えていろよ)



 そんなことを思いながらも心の片隅ではあの月を宿す青年に感謝した。

 彼女に飲み込まれてはいけないと、どこかで拒んでいる自分がいた。

 それが何故なのか解らないまま第一幕は終了した。


「いや、よかったよ。二人ともっ!やっぱり君たちに頼んで正解だったなあ」


「何が「正解」だ、白々しい。最初から俺たちにやらそうと企んでいたんだろうが」


「えっ!?」


「バレたか」


 完全に降りたのを確認してから舞台袖に捌けると、聴(ゆるし)があのお得意の笑顔で待ち伏せをしていた。


「何年一緒にいると思っているんだ。それくらい当然だ」


 やれやれと言った風に兜の緒を解く青年にわざとらしく指を折りながらにやける彼に思わず視線が行って

しまう。


「十三年…かしら?」


「そんなにっ?……貴方たちは、一体…」


「ん?許婚」


「………………シバくぞ」

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