小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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『……っ……うっ』



 あぁ……あの日だ。



 僕は泣いていた。



 小等部からの帰り道、いつも僕は独りある場所を探していた。



 屋上、放課後の教室、飼育小屋の裏、思いつく場所には誰かしらいて枠の外の僕は発散できない重たい気持ち

を抱えたまま家路に着いた。



 しかし、自室でも声を殺して泣くことさえ許されない。



 さすがに今はやさぐれてしまったが当時は自宅に戻っても無理やり笑っていた気がする。


『どうかなさいましたか?』


 頭上からタンポポの綿毛のような優しい声が降り注がれたことに驚いてその場から逃げだそうとするが、

 あまりにも懸命になりすぎてどこから来たのか辺りを見回すが勿論どこにも見覚えが無い。



 自分のあさはかさに滲む涙の色は別のものとなり、嗚咽が自然と込み上がってくる。



(どうしようっ……おかあさんにシカられるっ……うーちゃんにキラわれれるっ)



 鼓動がバグバグ言っている。



 小さな僕はそれだけで大騒ぎだ。



 そんなことはないよと、もし声を掛けられたら、その頭に触れられたら、泣きじゃくる幼き日の自分にきっと

そう言っていただろうが、あくまで華衣(はなごろも)である紫紺(しこん)にできる術は限られていた。


『……大丈夫ですよ』


 緊張と不安でパニックを起こしている僕に咎める訳でも蔑む訳でもない静かな声が代わりにポンポンと

優しく叩く。


『そんなに泣かないで下さい』


『なっ!?ナいてないやいっ!』


『ふふっ…そうですか。私の見間違いですね』


『あっ!?マって』


 すみませんを捨て台詞に、その場から立ち去ろうとする彼の手を前のめりになりながら握り締めてから後悔

した。



 反射的に動いてしまったのだがこの人物にとってこれは許容範囲だろうか。



 もし……そうでなければ………………自分はどうなってしまうのか考えると怖くて顔を上げられなかった。


『大丈夫ですよ』


 地面の芝生を踏みしめる音が聞こえた。



 もう一度同じ言葉が僕に向けられたのだと理解できたのはまるで、死に装束のように真っ白な着物を気にもせ

ず、膝を付いて抱き寄せられた頃だった。


『私はここにいます……もしも辛いことや悲しいことなどありましたらここへいらしてください。

私はいつでもここであなたを待っていますから』


 小さな背中に回された手があまりにも優しくて…………思わず声を上げて泣いた。



 今まで張り詰めていたものが一遍で全て消えて行く。



 何年ぶりだろう……こんなにもなり振り構わず気持ちを露わにしたのは。



 彼が怒らないのを良いことに手繰った背筋の生地を握り締め、シミ一つ無いそれに跡を作った。



 それは今となっては解らないがもしかしたら、そうすることで確かめたかったのかもしれない。



 自分がここにいて良いのか、彼は僕を受け入れてくれるのか、と……。



 日に日に夏の色を濃くして行く七月中旬、それまで学園中を占めていた殺人犯の話題は舞台となった白梅学院

大学高等部が期末テスト期間になるのと同時に下火になっていた。

 浮きだっていた青春真っ只中の生徒たちはまだ物足りない様子だがいざ席に着けばさすがに目の色を変え、

その分教科書とノートを睨みつけている。


「……お前マジで受ける気?」


 オッスと、教室に入ってきた彼がその姿を見つけるなり開口一番に飛び出したのは心配と言うより呆れに近い

ため息だった。

 あれから約一ヶ月、未成年のためメディアには<白梅学院大学高等部教諭男子生徒(16)を殺人未遂>と

しか取り上げられなかった。

 だが、記者たちはそれだけでは満足できず、日中から三十度を軽く越えると予報では言っていたにも拘らず今

朝も正門に十人以上張り込んでいる。

 こちらが冷暖房完備の教室でテストを受けている頃、彼らは炎天下の中より新鮮で刺激の強い情報を求めて

走り回るのかと思えば筋違いにも些か不憫を覚える。

 被害と言っても青野に首を絞められただけなのだから当然翌日にでも登校するつもりでいたが、念のため運ば

れた先の病院に駆けつけてきた家族の猛反対に合い、期末テスト一週間前までたっぷり休養を取る羽目になって

しまい……おかげで英語以外の小テストをほとんど受けられず守備は桜井よりも厳しい。


「ちょっと待てコラ!」


「何だよ」


「何だよじゃねぇ!今ぜってぇ俺に失礼なことを思っただろ!!」


 何故分ったのだろう、そもそも口に出してはいない。

 挨拶代わりにこちらにドスドスと今にも地響きを轟かせそうな足取りで歩いてくる親友をじっと見る。

 どうやら怒っているらしい。

 思いなしか額に青筋が浮き上がっているようにも見える。



 テストを前にして何とも面倒臭い奴だ。


「テっ!」


 手挟む教科書の角で脳天を叩かれ、軽く煙が見える。


「うるせっ、東雲(しののめ)の考えていることは俺には筒抜けだっ!!」


「…なら、期末なんか僕に頼らなくても余裕だろ」


「それは無理だ」


「何でだよ?」


 そこで太一は意味深な間を置き、口の端を吊り上げて笑う。

 どうすればあんなに器用な表情ができるのだろうと、毎度疑問に思っている彼には言うまでも無くできない。

 叩かれた箇所を左手で摩る。

 大した負傷ではないがジンジンと鈍く疼き、和らぐにはまだ時間が掛かりそうだ。



 …………まったく、バカになったらどうしてくれるんだ。


「そう都合よくカンニングできたら今頃アイドルに囲まれながらTVに出とる」


「つまり、僕がテストに何を書いたところでお前には分らないんだろ。答え事態理解してないんだから」


「そうとも言う」


 疲れが出る、意味も無く胸を張る彼に心ならずも机の上に開いた教科書を右にスライドさせる。

 少々のデジャヴを感じつつあらかじめ記しておいた箇所をシャーペンの先で軽く叩く。



 しかし、あの日と違うのは……


「俺は心配してんだよ…………東雲(しののめ)が嫌なことを思い出すんじゃないかっ……て」


 先程までの暑苦しさとは打って変わり、自前のノートに書き殴った図式に落とした言葉は鳴り出したチャイム

着席を促す予鈴よりも紫紺(しこん)の耳に響く。

 太一は優しい。

 彼の教科書の角にはまだ記憶に新しい見慣れた文字が空白のスペースを埋め尽くすように何行も書かれて

ある。

 期末試験四日目、一時間目の科目は数学だった。

 あの後、左近(さこん)に遅れて部室にやって来た男性は四十代後半と言ったところで、目尻のカラスの足跡

が刻まれてから幾重も年月を経たからであろう顔中のシワさえ彼独自の色に感ぜられた。

 上原だと名乗ったその男性はドラマと全く同じく胸ポケットから取り出した手帳を片手で開いてこちらに

見せた。


『青野はどこだね?』


『そこでノビてるぜ』


突然のことでどうすればいいのか躊躇っている紫紺(しこん)が答えるより先に、本職の刑事を相手に物怖じ

せずに軽口で返す彼を殺気すら覚える目でキッと睨む。

 何だよと、たじろぐ左近(さこん)に別にと、あからさまに顔を背ける。

 その姿はまるで母親に叱られた二、三歳の子供のようで必死にぶつぶつと自問自答を繰り返している。

 それが彼とはまた違った鬱陶しさで、あまりにもストレスが溜まっていた所為か非常にも脳天を握り拳で殴っ

てしまった。

 いつものように神通力を使えば人間の攻撃など避ける、または反撃をすることさえ可能なのに左近(さこん)

は敢えて煙の出るような痛さに呻いている。

 それは歴代の華衣(はなごろも)と交わした契約の所為もあるが、九割を占めているのはやはり悠久の時を

越えた絆がものを言っているのだろう。

 気を失っている彼に手錠を嵌めるのはきっと本望ではなかっただろう、凡慮の及ぶところではないと分ってい

ながら心が痛んだ。

 動機は学生時代からずっと付き合ってきた彼女に突然別れを切り出されたのが発端だったらしいと、その後の

ニュースで知った。

 憔悴しきって診察室から出てきた青年を優しく抱きしめたのは学校からの連絡で駆けつけた母だった。

 各々の感情を滴下させた家族がこちらに駆け寄る中、自然と目である人物を探してしまう自分が憎い。


『もうこれ以上お前とは住めない』


 記憶の中の声が胸に突き刺さる。


「父さん、母さん、花桜…………話があるんだ」


 今はまだ話すべきではないと解っているつもりだが、これ以上彼らに迷惑を掛ける訳にはいかない。

 右近(うこん)、左近(さこん)と名を呼ぶ紫紺(しこん)の目には緋が灯された。


「僕は二十六代目華衣(はなごろも)に選ばれました」


 空間を破っていきなり彼を護るように左右挟んで登場した金銀の美麗な青年たちに驚きを隠せない家族の目か

らはすっかり涙は引っ込んだようだ。

 彼は誰かが泣いている姿を好まない。

 それは誰でも言えることだが紫紺の場合は少し事情が違っていた。

 院内アナウンスがどこか違う世界のことみたいに遠くに聞こえる。

 クーラーの良く利いている廊下に立っているだけなのに何故か酷く喉が乾いた。

 次に言葉を紡ぐのさえ躊躇われたのは自分の弱さの所為…。


「だからっ……僕はっ」


 朝のHRが終わり一分遅れで非常勤の音楽教師が重そうな封筒を腕に抱え、教室に入ってきたのを目で確認し

たクラスメートたちは暗黙の了解で教科書やらノートやらでごちゃごちゃしていた

 机の上を片付け始める。

 今回の件は学校側にしても予想だにしない被害だったに違いない。

 あらかじめ用意しておいた二学年用の数学のテストを今日までに作り直し、彼の在籍している二年五組の

担任を新たに選考し直さねばならない。

 正直誰が何になろうが興味は無いが取調室で青野が言った言葉には満足していた。


『何故アイツが芽衣子の声を知っていたんだっ!?』

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