小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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 鬱々とした目には眩しすぎる八月初旬の朝焼けの下、紫紺(しこん)は一本の樹を見上げていた。

 華宵殿(はなよいでん)の裏にあるここには他にも同じ種が自生しているが、この幹も枝ぶりも立派なこの

樹に気がつけば逢いに来ていた。


「………………」


 夏を孕む日中とは違い、冴え冴えとした大気はまるで鬱積した涙を集めたようで、寝起きで火照った体を冷や

すのにそう時間は掛からなかった。

 朝焼けによって染められた瞳には憂いが波紋を寄せ、頬を伝っては地へと滴下させる。

 もう、何度泣き腫らしたことだろう。

 だが、渇きを知らない涙腺は後から後から新しく頬を濡らした。


「……また此処に来ていたのか」


「ほっといてくれ」


 間髪を入れずに背後にふっと現われた存在に吐き捨てるように言う彼の声もまた濡れていた。

 夏休みを利用して華宵殿(はなよいでん)で過ごし始めてから約二週間、記憶の中で真倖が身に纏っていた

死に装束…基、由来でもある華衣(はなごろも)を譲り受けて私服の七部丈のTシャツとチノパンの上から袖を

通す姿は三人にとって追憶の面影を重ねさせた。

 彼もちゃんと食べているのかと疑り深くなるほど細身だったが、それに負けず劣らず華奢な体に育った十年

後の自分を当の本人は苦笑しているだろうか。

 再び目の前の樹を見上げる。

 嵐が近づいているのか、萌える葉を過ぎる風が先程よりもどこか冷たく感ぜられた。


『行きなさい』


『あなたっ!?』


 あの日、病院に駆けつけた家族を説得しようと次の言葉を紡ぎあぐねていた紫紺(しこん)に父親はそれ

以上の説明を求めなかった。

 五十歳手前で愛用し始め、今では立派な老眼紳士の彼は元々口数が多い方ではなかったが特別家族に無関心で

はなく、どちらかと言えば放任主義に近いのが逆にありがたかった。


『でも、危ないんじゃないかしら……噂じゃ公には一切干渉せず裏社会に通じているらしいし

…………そんな所にこの子を行かせるなんて私はっ………………反対です』


 夫の提案に賛成でき兼ねない母親の極めて珍しく食い下がろうとする姿に意表を突かれ、情けなくも中学三年

の割りには発育の遅い妹に腕を掴まれるまで呆けた顔で見ていたなんて違う意味で死んでしまいたくなる。


『ちょっとっ!しぃ兄ってば!』


『……何?』


 こちらの明後日な落ち込みを知る由もない彼女はその返答がお気に召さなかったのかムッとした表情でこちら

を睨んでくる。

 幼い時はしぃちゃんしぃちゃんと言い、後を追いかけてきたりして結構可愛らしい所もあったのだが、小等

部高学年にもなるとやはり男女差が広がり今ではこうやってしがみつく事さえ減少の域である。


『何、その態度っ!?人がせっかく来てやったのに』


『あぁ、ありがと……なんていうと思ってるのか?』


『なっ!?……ムカつく』


『二人ともやめなさいっ!』


 火花を散らすかの如くこちらを睨んでくる花桜(かおう)にこれ以上相手にするものかと背を向け、不器用に

左の拳で涙を拭う。



 ……泣いて損をした。



 最近、兄弟仲のことで彼女に怒られることが日に日に増えている。



 以前はそんなことは年に数回あるかないかだったのに……全く…………これ以上自分の株が下落したら

どうしてくれるんだ。


『………………そんなに無理やり擦ると跡に残る。こっちを向け』


 その様子を見兼ねた右近はいいよと逃げ回る彼を半ば強引に腰に腕を回し、滑らかな指で顎を固定し身動き

できないことを確認してから自らの袖にそれを含ませる。

 その尋常ではない様子に何故かまた不機嫌120%を越えそうな目で睨まれた。

 何故だと疑問に思う前に彼女はまるで今まで胸に畳んでいた不満を爆発させるように強く結んでいた口を

大きく開け、一気に毒を撒き散らかす。


『何よっ!いつも紫紺(しこん)紫紺(しこん)ってバカじゃないっ。本当の兄妹でもないのに兄貴ヅラしない

でよっ……!?』


 怒りのあまり捲くし立てる花桜(かおう)を襲ったのは今にも手を上げそうな母ではなく、年季のあるごつ

ごつとした男性の掌だった。

 病院の冷たい廊下には何人かの看護師や寝巻き姿で歩いたり車椅子に腰掛けている入院患者や診察を終えた患

者たちがその乾いた音に驚いてこちらに振り返ったがその瞬間は凍てつき、家族の誰も動こうとはしない。


『紫紺(しこん)は何があっても私の息子であり、お前の兄に変わりない。それを覆す権利はお前にはない』


 頬を押さえる手の甲が震えているのはきっと叩かれた時に生じた痛みだけではないだろう。

 瞳からは次第に溢れ出した雨垂れが顎に溜まり、煌めいて廊下に落ちる。

 娘の両肩に腕を回して抱き寄せる彼女の顔もどこか厳しそうに見えるのがとても複雑に思えた。

 きっと、言われた自分より言ってしまった花桜(かおう)の方が辛いはずだ。

 この言い回しは好きではないが、今は信じてみてもいい気がした。

 両手を握り締め二人の顔を見上げる。


『父さん、母さん。…………やっぱり僕は家を出ようと思います』


 視線が痛い、家族以外にこんなに見られて良く芸能人は平気でいられるなと感心してしまう。


『でも、僕はこの夏休みを通してそれを本当に実行できるかどうか自分を試してみようと思います』



 そんなの解りきっていた。



 彼らが本当の両親でないことは東雲(しののめ)の家に引き取られる前から知っていたことなのに、そんな訳

ないと、言われた気がして体が思うように動かない。

 彼女がまた異議を唱えるが今の彼には何も聞こえないし……何も届かなかった。

 終業式はまるでスローモーションのように過ぎる時間が長く感じた。

 あの日から妹とは一言も口を利いていない。

 幼い頃のものは数え切れないが、少なくとも一週間以内には何らかの方法で解決したが今はあの頃とは違う。

 ようやく終業式を迎えた翌日、まだ明けない内にスポーツバッグに着替えと日用品などを軽く詰め、十年以上

世話になった東雲(しののめ)家を後にした。

 風が先程よりも強くなり周囲の木々がざわめく。

 緑で萌えた葉が一斉に擦れるとまるで、責められているように聞こえてくる。


『………………………………死………………………………んで………………っ!!』



 ……やめろ。



『二度と…………ちゃんと…………』



 やめてくれっ!



 鼓動が長距離を完走した時よりもバグバグと強く脈打って胸が痛い。


「大丈夫か!?」


 足跡一つもない雪原に容赦なく爪を立て、いつかのように胸元をギュっと掴む。

 荒くなる呼吸が徐々に体力を奪ってゆく。

 そんな紫紺(しこん)を嘲笑う膝にまともに立って入られなくなり、二人には悪いが地べたに座ろうとした。


「やっぱり具合が悪いんじゃねぇか。待ってろ、すぐ華宵殿(はなよいでん)まで飛ばす」


「い、いいっ………………それよりっしばらくこうして置いてくれないか……気分が落ち着くまで」


 崩れそうになる寸前、腰に腕を回され、抱きとめられた。

 右近(うこん)も左近(さこん)も感が良いと言おうかとても気を配る。

 きっと二人が人間だったら何の職もそつなくこなすだろう。

 頬を寄せた薄い胸はひんやりとしていて実に心地が良い。

 追憶の彼方にもこうしてもらったことが何度かある。

 背中に回された手が切なげに摩る。

 きっとこいつは誤解をしている、彼の鼻を抓ってやりたいがあいにくの体制に加えた身長差がものを言い、

実行に移せないのに逆に腹が立った。


「いいからもう離せっ!」


 草履を履いた足を振り上げ、思い切りの力で脛を蹴る。

 弁慶の泣き所とはよく言ったもので、左近(さこん)は早急に彼を開放するなりその場で飛び跳ねている。


「何すんだっ!!」


「それはこっちの台詞だ」


 無理もない、華宵殿(はなよいでん)のちょうど裏にあるここは墓所だ。

 本質を知らない者にとっては毎年美しい花を咲かせる梅の隠れた穴場にしか見えないだろう。

 ……ここには歴代の華衣(はなごろも)が眠っている。

 その最期を、その苦しみを今も尚覚えている左近(さこん)だからこその行動だと解っている。


「今はまだその時ではない……勘違いするな、バカ」


 だからこそ、自分が元気な姿を一秒よりも早く彼に見せたかった。

 その月を宿した銀の瞳に憂いが満ちる前に。


「……?」


 背を向け、華宵殿(はなよいでん)に一歩足を進めるのとそれが耳を掠めたのはほぼ同時だった。


「どうした」


「……判らない……でも、何か音がする?」


「音?」


 痛さを乗り越えた彼が両耳の後ろに掌を宛がい、目を瞑ったのに時間は掛からなかった。


「本当だ……何かの笛か?」


 訝しがる青年を後に、それが聞こえてくるであろう道へとよろよろと歩みを進める。


「おいっ、紫紺(しこん)」


 左近(さこん)が遅れて後から着いてくるのが気配で知れた。

 荒れた風を切って歩くとそれに乗って聞こえてくる音も広がり、本質を正確に覚えていなければその源に

たどり着くことは困難だが、彼にそれは通じない。

 華衣(はなごろも)には五感を使った特殊能力があり、今の紫紺(しこん)は犬の何倍もの聴覚がその先へと

導いていた。

 梅林を出て丘陵の頂上の目指すとやはりと言おうか、木製の背凭れのないベンチが一台設置されてある。

 最近のものなのかまだ新しいが頻繁に使用されている形跡はない。

 よくは覚えていないが以前はただのアスファルトが敷き詰められた道だった気がする。


「……いた」


 それは格子状に絡んだ天蓋を左右で支える石柱に背凭れる人影を見つけた時だった。


『………………やっと見つけた!』


 疾風に絡め取られた音色は止まり、あと数歩で自分の頭より少し上にある肩に手を伸ばそうとした彼の心に

直接響く。


「何すか?」


 その声の主を追憶の彼方から手繰り寄せる前に、筋肉質のあるそれを掴んでいた。

 意外と落ち着いた声色が返ってきて逆にこちらが驚いてしまう。

 体ごと振り向いたのは同性から見ても惚れ惚れするような爽やかな…けれど、どこか反抗的な印象を持つ

俗に言うイケメンだった。

 右手に握ったものをまるで隠すようにズボンのポケットの中へ押し込むが吹き口の出っ張った部分が引っかか

り、材質の特徴でもある艶が主の本意を知らず、または無視してこちらに自己主張をしている。


「キミの音色だったんだな」


「だったら何だって言うんすか!ヘタクソな演奏を聴かされてわざわざ文句でも言いに来たんすか!!」


「……」



 自分は彼に何かしてしまっただろうか?



 何をどうすればこうも明後日な誤解をして感情を剥き出しにこちらを詰ろうとするのかと、また他人事の

ように考えてしまうのが悪い癖だ。


「別に悪いとは言ってねーだろうが。…ったく、これだからガキは嫌なんだよ」


「ガキって言うなっ!それにこれでも中三だ!!」



 ……?



 紫紺(しこん)の思考が止まった。



 今……なんて言った?



「中坊だろーが高坊だろーがガキはガキだ。そー直ぐに熱くなる所がガキだって言うんだよ」


 どうやら今まで後で控えていた左近(さこん)が割って入り、低レベルな気風を喧嘩上等と言わんばかりの

形相で買ってしまったようだが、今の彼にはそれを瞬時に止める余裕はなかった。



 ………………中三って言ったよな?



 年下にも抜かされていることを間接的には知っていたが、こうも男前の同性が自分よりも高いと分かると

やはり押し寄せてくる感情も半端ではない。


「ガキをガキって言って何が悪……」


「いい加減にしろっ!!」


 躾のなっていない飼い犬の如くキャンキャン騒ぐ二人に叫ぶ声と誰かを殴る音が梅林の裏で大きく響き、その

上を飛んでいた鳥たちが甲高く鳴いては慌てた様子で逃げていった。

 同時刻、東雲(しののめ)家の食卓には出張で家を空けている父親に代わりに自宅に戻ってきた者がいた。

 偶に帰って来るとは言えその数は年々少なくなり、今ではこうして不在な時にしかその姿を見せることはな

く、我が家の割にはどこにも見覚えがない所為かお膳を目の前にしてもその視線は自然と宙を彷徨っていた。


「………………紫紺(しこん)が家を出た?」


「そうなの。別に家出なくてもいいと思わない?」


「……………………出掛けてくる」


「ちょっとっ。どこ行くの、お兄ちゃん?」


「連れ戻してくる」


「止しなさい、卯月」


席を立とうと腰を浮かす彼に口調は優しいが温度のない声に名を呼ばれ、出来の悪いロボットの如くゆっくり

とした動作で振り向く。


「………………母さん」


 そこには人数分のお椀をお盆に乗せたまま立つあの日泣いて反対していた人がいた。

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