「ほえ?」
チロルの何気ないつぶやきに、彼女の背に乗ったスラリンが呆けた声を出す。隣にはピエールもいる。
アランがヘンリーと昔話に華を咲かせ、また世話になった人への挨拶回りをしている間、彼女らは席を外しラインハット城の見学に回っていたのだ。変化の石を付けているためか、それともデール王からあらかじめ達しが回っているのか、チロルたちが廊下を歩いていても騒ぎにはならなかった。
「それは城内の空気のことですか」
ピエールの問いかけにチロルは首を振った。
「そういえば、貴女は十年前にあの方と会っていたのでしたね」
「え!? ヘンリーってアランを怒らせたの!?」
十年前を知らないスラリンが驚く。チロルは微笑した。
「そうですね。特に今日のお姿は今までとも違っています。おそらく、婚姻によって彼の意識の中で何かが変わったのでしょう」
「ね、ね。さっきから気になってたんだけど、ケッコンってなに?」
スラリンが飛び跳ねる。と、かつてマーリンから聞いた知識をチロルは教えた。スラリンは不思議そうに目を瞬かせる。
「いっしょになるのって、そんなに特別なことなの?」
「然り。特に人間にとって男女が共に歩むことは、何より重要なことだと聞き及んでいます」
言われてスラリンは「ふーん」と声を出した。
ピエールがチロルに声をかける。
「貴女はどう思いますか」
「アランが結婚することについて、です」
チロルの足が止まる。そこは中庭に面した渡り廊下で、柔らかな大地の匂いと陽光に包まれた場所だった。彼女とてキラーパンサー、獣の一種族である。このような陽気の下で昼寝をすることがどれほど心地良いかを知っている。そしてその心地よさは、間違いなく彼女にとっての幸福のひとつの形だ。
自分たちがつがいを作ることと、人間が結婚して夫婦になることは、おそらく意味合いが微妙に違うのだろう。それぐらいはチロルにもわかる。そうでなければ、アランがあれだけ迷いの表情を浮かべる理由がない。
これまで孤独であることが多かったチロルは、アランと出逢えたことでいくつもの幸福に恵まれた。そのアランが不幸になる道を、チロルは許すつもりはない。
ヘンリーはアランが生涯を共に歩む女性を見つけることが彼の幸せに繋がると言った。だがアランは迷っている。その道が彼にとっての幸福なのか、アラン自身が掴みかねているためだろう。その迷いに、チロルは口を出すことはできない。
「そうですね。私も同感です」
「えー……ふたりとも、それって良くないんじゃないかなあ?」
女の品定めをする、という結論に達した二人に、スラリンが遠慮がちに異を唱える。
「決めるのはアランじゃないかなあ?」
「無論。しかし、あの方に相応しい人間を選ぶ場を整えることは、我々にもできることでしょう」
「だいじょーぶだよう。アランは、悪い人なんかすぐに見抜くもの」
言葉を詰まらせるチロル。するとスラリンは言った。
「それにさっ。アランは優しいから、きっと誰とでも仲良くなれるよ! というか、アランと仲良くなれる人に悪い人はいないと思うな、ボク! アランが選んだのなら、きっとそれが一番いいことなんだよ!」
自信満々のスライムの言葉に、キラーパンサーとスライムナイトは顔を見合わせた。
「どう思われますか。幼少期の主を知る貴女から見て」
「そうですか」
隻腕の手で、ピエールはスラリンの頭を軽く撫でた。
「よもやスライムからそのような重要なことを教えられるとは思いもしませんでしたね」
「そう? 嬉しいな」
苦笑するチロル。何のことかいまいち把握できないスラリンは、その小さなとんがり頭を傾けて「むむぅ?」と唸った。
ラインハット城に一泊したアランたちは、翌日にはヘンリーやマリアたちに別れを告げ、ルーラでルラフェンへと帰還した。
ピエールとチロルは、ラインハットから出た後の主の表情の変化に気づいていた。仲睦まじいヘンリー夫妻、そして平穏を取り戻したラインハットの姿を間近で見て、アランは自らの将来を改めて考え直している――そのようにモンスターたちは感じた。
ルラフェンへと辿り着いたアランたちを、ベネットは大興奮で迎えた。この呪文研究者は古の呪文が完全に復活したことを確認できて大いに喜んでいた。
「折があればまた来るのじゃぞ。人の身でルーラを使うことによる影響も調査したいし、もしかすればその頃には新しい呪文を伝えることができるかもしれんからの!」
研究するか寝るかどちらかしかない老人から熱烈な誘いを受け、アランは「考えておきます」とだけ伝えて苦笑いした。
ルラフェンに残っていたサイモンたちは、すでに馬車の用意を済ませていた。休息もほどほどにアランは出発を指示する。
次はサラボナ。
この街にあるという天空の盾を手に入れるのである。