水の中から浮かび上がるような感覚。
朦朧とする意識が、瞼の外から差しこむ光を感じる。
「おや。目が覚めましたか」
聞き覚えがある声に、アランは一気に覚醒した。ゲマを睨み、そして立ち上がろうとして激痛に呻く。体が言うことを聞かなかった。
「ほっほ。大人しくしていなさい。今いいところなのですから」
眉をしかめる。同時に、自らの首元に巨大な鎌の刃が伸びていることに気づいた。
「ぐおっ……!」
「!」
耳に届いたパパスの声に、アランは振り向いた。
そして目にする。
二体のモンスターによって嬲(なぶ)りものにされ、裂傷と打撃による血傷で全身を真っ赤に染めたパパスが、今まさに膝をつき前のめりに倒れる瞬間を――
あの父が。
どんなモンスターでも一瞬の内に屠ってきた父が。
強く、逞しく、優しく、ゆえにアランの目標であった、あの父が。
「お……お父さん……、お父さん! お父さんッ!」
叫ぶ。その度に激痛が全身に走り、アランは顔を歪めた。
ジャミ達がゲマの前で恭しく礼を取る。
「ゲマ様。終わりました」
「ご苦労でした。なかなか手こずったようですが、まあ、終わってしまえば他愛ないですね」
「……許せない……よくも、お父さんを……ッ!」
痛みを完全に無視し、アランは徒手空拳のままゲマに立ち向かう。
が、片手で頭を鷲づかみにされると、再び地面に叩き付けられる。目の前で閃光が散った。怒りと悔しさが体を焦がし、気を失うことだけは防ぐ。
「よいことを教えてあげましょう」
ゲマが耳元で囁いた。
「あの男は一切反撃せぬまま死にました。なぜだと思います? これですよ、これ」
視界に大鎌の刃が映る。
「あなたの命が惜しくないなら、戦え……この言葉をあの男は忠実に守りました。わかりますか? あなたのせいで、あの男は死んだのです」
「……………………!」
アランは全身の動きを止めた。
雪の女王に氷漬けにされたように、まったく、指一本、まばたきひとつ、することができない。
何も口にできないアランの姿を、ゲマは満足そうに見つめた。
「とてもよい顔です。ご褒美に、これで仕置きを終えてあげましょう。ゴンズ、ジャミ、そろそろ我々も退散を――」
「ま……て……」
パパスの声。アランの瞳に生気が蘇った。
父は剣を杖の代わりとして立ち上がっていた。左手足が奇妙な方向に折れ曲がっている。頭から流れた血が彼の両目を塞いでいる。
だがそれでも、パパスは立っていた。
「はあ……はあ……我が子は……やらせん……」
「ふう。まったく呆れた生命力ですね、あなたは。美しき親子愛とやらですか」
ゲマはパパスに向き直る。左手を頭上高く掲げた。
「ですが……あいにく私にとっては、あなたの姿は単なる木偶、見苦しく汚らしい人形も同然。目障りです。これで跡形もなく消えなさい」
瞬間。
ゲマの掌から巨大な火炎球が出現する。先ほどのメラミの比ではない。この辺り一帯をすべて飲み込み蒸発させてしまうほどの、炎の暴力。焼けただれた空気が気流となってアランたちの髪をなびかせる。
ごうごうと空気が悲鳴を上げる中、パパスは叫んだ。
「アランよ! 我が息子よ! お前はひとりではない! お前の母は、今もどこかで生きている! たとえ我が体が朽ち果てようとも、希望を捨てるな! 私にかわって、妻を、お前の母を――」
「ほーほほほほほっ、死ねぇぇぇっ!」
――叫び返す暇さえ、なかった。
巨大な火炎球は無慈悲に放たれ、アランの眼前で、過たず父を飲み込んだ。
「――――――――!」
断末魔の声がぶっつりと途切れる。
喉が、体が、瞬時に焼き尽くされたのだとわかった。だがアランの耳には、なおもパパスの声が幾重にも谺した。幻聴か、それとも父の最期の力なのか――
ぬおおおおおおぉぉぉっ、アラン、迷わず、進むのだぁぁぁぁぁっ――
その声を、言葉を、アランは確かに胸に刻み込んだ。
通路の半分が黒ずんだ姿で、広間は静寂を取り戻す。
人の姿はなくなっていた。文字通り、パパスの体は消し炭と化した――
唯一残るのは、彼が最期まで手に握っていた長剣。名のある職人の手によるものなのか、主を失った今でも地面に突き刺さったままだった。
まるで墓標のように。
「……この子は気絶しましたか」
ゲマが言う。彼の視線の先では地面に突っ伏したアランの姿があった。少年はぴくりとも動かない。
「ほほ。なかなか面白い見物でしたよ。だが安心なさい。あなたは我らが教祖様の奴隷として一生幸せに暮らすことになるのです。父上も、さぞ愉快な顔をしてあなたを眺めることでしょう……ほほ、ほっほっほっ」
高笑いをする。そのときふと、ゲマはあるものを見つけた。アランの道具袋の中、わずかにのぞく金色の宝玉。ゲマはその細長い指でそれを拾い上げた。金色の宝玉は無機質に輝いている。
「これはまさか……いえ、考えすぎですか」
アランの道具袋に返すことなく、ゲマは宝玉を握りしめる。
「いずれにせよ、こうしておくとしましょう」
牙を剥き出しにしてゲマが念じると、宝玉は甲高い音を立て木っ端微塵に砕け散った。
ゲマは配下に告げる。
「ゴンズ、ジャミ! この子らを連れて帰還しますよ」
「ゲマ様、あのキラーパンサーの子はいかがしましょう?」
ジャミが示す先に、いまだぐったりとしているチロルの姿があった。動けないようだが、生きてはいるようだ。
ゲマは言った。
「捨て置きなさい。しばらくすれば、また魔物の本性を取り戻すでしょう」
「はっ」
ジャミとゴンズが頭を垂れる。ゲマはうなずくと、呪文を唱え始めた。アランとヘンリーを含め、周囲に巨大な魔方陣が現れる。
「さあ、いきましょうか」
次の瞬間、尾を引く光を残してゲマたちの姿は消えた。古(いにしえ)から伝わる転移呪文を発動させたのだ。
誰もいなくなった空間に、ゲマの笑い声がいつまでも残響していた。
静寂を取り戻した神殿内――
よろよろと歩くキラーパンサーの子の姿があった。
黒ずんだ石畳にそびえる長剣の匂いを嗅ぐ。そこから振り返ると、廊下の中央にかつて彼女の主が所持していた道具袋の一部が捨て置かれていた。
懸命に、その中を探る。
彼女は二つの優しい匂いを探していた。ひとつは彼女にとって唯一無二の主である少年のもの。そしてもうひとつは、自らの首に巻かれたリボンと同じ匂いのもの。彼女の持つリボンと同じものを主も持っていたことを、彼女は知っているのだ。
だが、それは見つからなかった。どんなに探しても見つからなかった。
彼女は鳴く。誰もいない広間の中で、何度も何度も、その姿を求めて鳴き続けた。
「なぁお……なぁお……なぁお………………」
パパスは死んだ。
ゲマによって連れ去られる道すがら、アランは朦朧とする意識の中で、父が最期に残した言葉を何度も思い返していた。
『お前はひとりではない! お前の母は、今もどこかで生きている!』
だから希望は、捨てない――奥歯を噛みしめ、アランは強く、強く決意した。
しかし。
彼を待ち受けていたのは希望ではなく、辛く苦しい奴隷としての日々だった――