武器を捨て、膝を突き、ヨシュアは深く深く頭を下げた。細かく震えるその肩を、マリアの手が撫でる。彼女はまた泣き出していた。
「でも、お兄様……私たちが逃げてしまえば、お兄様は」
「心配するなマリア。私は大丈夫だ。私はここで、他の奴隷たちの行く末を見守らねばならん。それが彼らを虐げてきた私の責務だ」
「ヨシュアさん」
一緒に逃げましょうと口を開きかけたアランは、彼の決意の前に沈黙するしかなかった。目を閉じ、静かに己の覚悟を決めていく。
「ヘンリー。マリア。行こう」
「アラン」
「アランさん……」
「ヨシュアさんの想いを無駄にするわけにはいかないよ。それにきっと、時間もない」
アランは言う。ヨシュアはゆっくりと顔を上げた。松明に照らされた顔は、一気に年老いたように見えた。
「君ならばそう言ってくれると信じていたよ、アラン。それからヘンリー……妹を、頼む」
「…………ひとつ条件があるぜ」
ヘンリーが口を開く。怪訝そうにする兄妹に対し、彼はにかっと強気の笑みを見せた。
「俺たちは生き残る。だからあなたも生き残ってくれ。それが条件だ」
「……確約はできんが、それでマリアが助かるなら。いつまでもしぶとく生き残ってやろう」
「よし、決まりだ」
親友の姿に、アランは微笑んだ。
それからヨシュアはアランたちを連れ、さらに洞穴の奥へと進んだ。饐(す)えた臭いはいっそう強くなり、軽く目眩がするほどになる。
――水音が聞こえてきた。
やがて視線の先に灯りが見え始める。小部屋風に整えられたその空間には何本かの松明が弱々しく灯っている。光に照らされた地面に視線を落としたアランたちは、そろって声を詰まらせた。
一面、赤黒く染まっていた。血である。
何人もの血が、長い時間をかけて染みつかないとこうはならないという光景に、マリアは両手で口を押さえた。彼女の様子を見たアランは、同じく呆然としているヘンリーに小声で声をかける。
「ヘンリー、マリアさんの手を握ってあげるんだ」
「……アラン」
「これからのことは、きっと彼女にとっても辛いことだろう。だから、君が支えになってあげないと」
「ああ、そうだな。すまん」
我に返り、うなずくヘンリー。マリアと二人で寄り添う姿を見届け、アランはヨシュアに向き直った。
「ここは死んだ奴隷たちを海に捨てる場所だ」
ヨシュアは言う。さすがに彼も表情を強張らせている。
「お前たちも知っているとおり、奴隷たちの命は長くない。一日に大勢死ぬこともある。そういう連中全員を土に返し、墓を建てるなどという気の利いたことはここでは無理だ。だから遺体を切り刻んでまとめて大きな樽に入れ、ここから海へと廃棄する」
「何という……むごいことを……」
「それがここの現実なのだ、マリア」
ヨシュアは小部屋の奥にある鉄格子に取り付いた。錠を開ける。水音は鉄格子の奥から聞こえていた。
ヨシュアに促され鉄格子を越えると、緩やかに流れる地下水路に出た。岸にはすでに巨大な樽が係留され、ゆらゆらと揺れている。
「これは我ら奴隷監視人に使われるものだ。遺体を五体満足に横たえたまま流せるように、樽には工夫がしてある。少しは楽に移動できるだろう」
「なるほど。たとえ奴隷監視人といえど死んだらゴミ同然に廃棄、ってか」
「……そういうことだ。すでに必要な食料、水等については可能な限り用意して積んである。少ないが金も入れた。だが……正直なところ三人が過ごすとなると、かなり厳しいと思う。どうかそこは耐えて欲しい。それから、もうひとつ」
ヨシュアは険しい表情を崩さない。
「確かにこの水路は外へと通じている。だがここは峻厳な山の頂だ。今は緩やかな流れでも、この先がどうなっているかはわからん。心の備えだけは、しておいてくれ」
「最悪、激流に呑まれて木っ端微塵になる可能性もあるってことかい……」
ヘンリーの言葉にマリアが青ざめる。
アランはヨシュアの前に立ち、手を差し出した。
「必ず生きてここを出ます。マリアも外の世界へ連れて行くと約束します」
「……神に祈っている。お前たちならば、神のご加護をきっと授かるはずだと」
堅く握手を交わした。
離別の時が来る。
再び大粒の涙を流し始めたマリアを宥め、アランたちは樽に乗り込んだ。その様子を確認したヨシュアは目を瞑り、大きく息をついた。
――そして祈りを込めて、係留している綱を切り離した。