妹の記憶を無くしてしまったいる彼は、沈黙に耐えられなかったのか目の前にいる彼女に声をかけた。
「大丈夫か?」
彼女からすれば、その問いに答えるのは兄の恭介のはずだった。
「うん……大丈夫だよ?」
彼女は状況を理解した。そして自分のできる精一杯の笑顔でその問いに答えたのだ。
しかし、彼はまだ彼女のことを心配した。
「……泣いてるのか?」
彼女は自分が泣いてることに気づいていかなかった。
細くて小さな手で頬に触れた。確かに濡れていた。
そのまま人差し指で涙を拭いながら彼女はこう口にした。
「私の名前……は……分かる?」
「……すまない」
「そっか……」
彼女自身、兄が自分の名前を覚えているなんて微塵も思っていなかったが、それでも聞いてみたかったのだ。
「でも……妹なんだろ? きっと」
「うん……友香っていうんだよ」
「そうなのか……すまん、友香」
「……うん」
自分の名前を呼ぶ兄の呼び方はぎこちなかったが、それでも嬉しかった。
しばらく二人は無言で病院の窓から見える外の景色を眺めていた。
下を見下ろすと、ビルがたくさんならんでいてその奥には山々が連なって並んでいた。
山のてっぺんからそのまま上に視点を上げていくと綺麗な青空が見えた。
二人は時々、ふわふわと揺れる雲を見て羨ましいなとまで思っていた。
「俺には妹がいるのか……」
不意に恭介は口を開いた。
「俺って友香に迷惑をかけてばっかりだっただろ?」
「そんなことない……って言いたかったけど、そうだよ。迷惑ばっかりかけてた」
「だよな……」
「だから……今日は説教しに来たの」
「説教?」
「もう……不良なんてやらないでって また事故起こしたら今度は死んじゃうかもしれないんだよって」
「あぁ……そうだな……俺もそのことを考えてたんだ」
「え?」
「俺は……やめるよ……これからはお前のために生きるから」
友香はひどく驚いた。まさかこんなに簡単にやめるといいだすとは思ってもみなかったからだ。
「今までの記憶が無いんなら、また作らなくちゃな? 思い出 」
「そう……だね、お兄ちゃん」
恭介がこんなに素直だったのも、もしかしたら妹の事を覚えてるからなのではないか、と思えるほどだった。
「あたしのことは忘れちゃったけど、……お兄ちゃんが戻ってきてくれた……ありがと……神様」
彼女は病院の帰りに、小さくそう呟いた。