小説『副社長 北条明良?出逢い?』
作者:ラベンダー()

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女優の香月(かづき)菜々子は撮影を終え、外へ出た。

(あーー…嫌だった…)

今日のベッドシーンの撮影を思い出すとぞっとする。好きでもない男性に、たとえ演技とはいえ抱かれるのは、やはりいい気分じゃない。

『よかったよー、菜々子ちゃん。」

相手の男優に言われて、菜々子は背中に寒気が走るのを感じた。でも仕事を選べるほど売れてはいない。
女性のマネージャーが車を出して、待っていてくれた。

「お疲れ様です。」
「お疲れ様。ありがとう。」

菜々子はそう言って、車に乗った。

……

菜々子は、車の中から、夜の景色を見ていた。

「明日は久しぶりのお休みですねぇ。」

車を運転しながら、マネージャーが言った。

「ええ。ゆっくり寝れるわ。」
「それがいいです。昼も夜もなかったですもんね。」
「マネージャーもお疲れ様。」
「いえいえ。」

ふと通り過ぎた景色に、見たことのある横顔がさっと目に映った。
橋の上で、川を眺めている。

「マネージャー、止めて!」
「は?あ、はい。」

マネージャーもその人物を見て、車を止めた。
菜々子は車を降りて、外へ出た。思わず気温の低さに肩をすくめた。
何か歌が聞こえたような気がした。

「明良(あきら)さん!」

菜々子は、川を眺めている北条(きたじょう)明良に声をかけた。その瞬間(やだ。どうして下の名前で呼んだのかしら…)と思った。
明良は振り返った。とたんに、驚いた目でしばらく固まったように菜々子を見ていたが、

「…菜々子さん。」

と言って、微笑んだ。
菜々子は、明良に近づきながら言った。

「どうして、こんなところに…。お独りですか?」
「ええ…。」
「こんな寒い日に、どうされたんです?」
「…考え事…ちょっといろいろとありまして。」
「そう…。」

声をかけたものの、どうしてわざわざ明良に声をかけたのか、自分で不思議に思った。

「あの…今、私家に帰るんですが、一緒に車に乗りませんか?家までお送りします。」
「ああ…それはどうも…でも、僕の家はすぐ近くなんですよ。」
「え?ああ、そうでしたか…。」
「お気遣いいただいてすいません。」
「いえ…そんなこと…。」

菜々子はそう言って、その場を去ろうとしたが、やはり明良をここに独りで置いておけないような気がした。

「あの…明良さん、お茶でも一緒にいかがですか?」

明良は目を見開いて菜々子を見た。

……

夜とはいえ、喫茶店は大騒ぎになった。
そりゃそうだ。アイドル(といっても、もう30近いが)の北条明良と女優の香月菜々子がそろって入ってきたのだから。
マネージャーには、悪いが帰ってもらうことにした。しかし彼女も早めに仕事が終わってほっとしただろう。

「うーん…私はミルクティーで。明良さんは?」
「じゃぁ…僕も同じものを。」

2人がそう注文すると、ウェイターは顔を赤くしながら頭を下げて、その場を去った。

「…もう11時過ぎてたんだ…」

明良が時計を見ながら言った。

「そうですね。」

菜々子がそう答えると、明良は眉に皺を寄せて言った。

「こんな時間まで撮影ですか?」
「まだ早い方ですわ。」
「女性をこんな遅くまで働かせるなんて…」

明良がそう言った時、さっきのウェイターがミルクティーを2つ持ってきた。

「ありがとう。」

菜々子がそういうと、ウェイターは真っ赤になった。

……

明良と菜々子はミルクティーをそれぞれ一口飲んだ。

「あー…あったまりますね。」

明良のその言葉に、菜々子はふと思い出した。

「そうそう…明良さん、どうしてあんな寒いところにいたんですか?」

明良は苦笑した。

「家で考え事をすると、悪い方に考えがいっちゃうんですよ…。だからいつも外で考え事をするんです。特に、川の流れを見ながら考えていると…まず気持ちが落ち着くんですよね。」
「…そうなんですか…」
「変な男でしょう?」
「いえ、そんな!…考え事と言うのは悩み事ですか?」
「…ええ…」

明良の顔が少し翳った。菜々子は(だから、なんとなくほっとけなかったんだ)と自分の感に自分で感心した。

「…そのお話お聞きしたいけど…ここでは無理ですね。」

明良はその菜々子の言葉に、ふと辺りを見渡して笑った。

「ええ。ここではちょっとね。」
「あの…女の方から厚かましいとは思いますけど…連絡先…教えていただけます?」
「え?」

明良が驚いた表情をした。菜々子は顔が火照るのを感じた。

「…ごめんなさい。」
「いえ…違うんです。…まさか…大女優さんにそんなこと言ってもらえるとは思わなくて。」
「大女優なんかじゃありません。」
「僕には大女優さんですよ。…そもそもこうしてお茶に誘っていただけただけでも、緊張するのに。」

菜々子は(そんな風には見えないけど)と思ったが、これは口に出さなかった。
結局その日、2人は赤外線通信を使って、連絡先を交換した。

……

翌日、昼過ぎに明良からメールが来ていた。

『昨日は楽しかったです。ありがとう。』

その1行だけだった。

菜々子は「こちらこそ」と件名に入れてから、「私でよければ、昨日の考え事、教えて下さい。」と本文に入れ、返信した。どうしても明良の悩みが気になるのだ。そして、すぐに返信が返ってきた。

『今夜も会いませんか?』

菜々子は胸がはずむのを感じた。

『どこか、ゆっくり話せるところで。…でも、どこがいいかな。』

「そうねぇ…」

菜々子も困惑した。自分の家はいくらなんでも1度しか会っていないのに、招待するわけにもいかないだろう。

『個室があるバーを知っているのですが、そこでいかがですか?』

大胆かなぁと思いながらも、菜々子は返信してみた。するとまたすぐに返事が返ってきた。

『それは是非。』

菜々子は思わず声を上げて喜んだ自分に気がついた。

(やだ、いい年をして…)

そう思いながら、会う時間を打ち合わせた。

「明良さんも、お休みなのかな…」

それならすぐにでも会いたい気分だが、高鳴る気持ちを必死に抑えた。

「そうだ。何を着て行こう!!」

菜々子は、鼻歌を歌いながら、クローゼットを開いた。

……

「北条さんはもうお越しになっていますよ。」

バーのマスターが、菜々子にそっと耳打ちしてくれた。菜々子がよく独りになりたい時に来る場所だった。マスターは口が堅く、安心して飲める場所だった。

「ありがとう。」
「お飲み物は何を持っていきましょうか?」
「明良さんは何を飲んでるの?」
「オレンジジュースです。」
「じゃぁ、私もそれで。」
「わかりました。」

菜々子は個室のカーテンを開いた。

「ごめんなさい。私の方が遅くなってしまって…。」

そう言うと、明良が顔を上げ立ちあがった。スーツを着ていた。ネクタイはなかったが、何か昨日のラフな雰囲気と違ったので、菜々子はどきりとした。

「いえ…。なんだか気持がはやって…早めに着いてしまいました。」
「まぁ、お上手。」
「そんなことはないですよ。」

明良が照れくさそうに言った。2人は座った。
よく考えてみれば、菜々子は明良のことを、テレビや新聞でしか知らなかった。明良もそのはずなのに、どうして昨日は、まるで知り合いに会ったように、お互い名前で呼びかけたのだろう…。

マスターがオレンジジュースを持ってきた。菜々子は「ありがとう」と言った。

「あれ?」

明良が不思議そうな顔をした。

「…それはカクテルですか?」
「いえ…ただのオレンジジュースです。」
「…もしかして…僕が飲めないから?」

菜々子は、ためらいがちにうなずいた。

「それは申し訳ないな。…どうぞ、お好きなの飲んでください。その方が、僕は気が楽です。」
「…すいません。」
「あ、いや…謝ってもらうことは…これは私が飲みますから、どうぞお好きなものを。」

明良にそう言われ、菜々子はマスターにいつもの赤ワインをお願いした。
マスターがうなずいて、カーテンを閉めて出て行った。

すぐにでも明良から話を聞きたいが、マスターがワインを持ってくるまでできない。
いつもより、時間がゆっくり過ぎているような気がした。
明良は、先に来た飲み物すら一切口をつけていなかった。今も一緒にワインを待っている。

「どうぞ、先に飲んでください。」
「いえ。待ちますよ。」
「逆に気を遣います。」
「あはは…やり返されましたね。」

明良が笑った。菜々子は「そんなつもりじゃ」と下を向いた。
その時、ちょうどワインが来た。

「グラスワインなんですか?」

明良が不思議そうに尋ねた。

「すぐなくなっちゃうじゃないですか。」
「ワインは一気に飲むものじゃないので、大丈夫です。」
「あ、なるほど。」

2人は乾杯した。

(どうしよう…)

と菜々子は思った。いきなり悩み事を聞くのもはしたない様な気がする。

「今日は、お仕事お休みだったんですか?」
「ええ。菜々子さんも?」
「はい。久しぶりに。」
「!…そうですか…その久しぶりのお休みの時間を取ってしまって申し訳ない。」
「そんな…いいんです。私もちょっとむしゃくしゃすることがあって。」

菜々子は思わずそう言って「やだ」と言って、下を向いた。

「…先に聞いてもいいですか?」

明良が少し心配そうに言った。

「だめです。今日は明良さんのお話を聞きに来たんですから。」
「じゃぁ、僕から話したら話してもらえますか?」
「ええ…話します。」
「僕のは…大したことじゃないんですよ。」

明良は指でこめかみを掻いて言った。

「お仕事のこと?」
「ええ。…体の限界を感じてて…。」

明良はダンスを主流とした歌手である。最初はアイドルでデビューしたが、どんどん歌唱力をつけ、今はダンスのある曲よりも、バラードの方が多かった。

(そのことで悩んでるのかしら)

菜々子はそう思ったが、明良の次の言葉を待った。

「引退を考えているんです。」
「引退!?」

明良は自分の唇に人差し指をあてて「内緒ですよ」と言った。

「それはもちろん…でも、引退なんて早すぎます。」

明良は首を振った。そしてオレンジジュースを一口飲んだ。

「歌はまだいけそうですが…踊ることはもう…前に自分がテレビで踊っているのを見て、情けなくなりました。」

明良の顔に陰りが帯び始めた。本気で悩んでいるらしい。

「私は明良さんの踊る姿、好きですけど…。」
「僕の踊りを見たことがあるんですか?」
「ありますとも。でも、全て見てるわけではないですけど…。」
「そりゃ、そうですよね。…でも、1度でも見てもらえたなら、うれしいです。」
「逆に1度も見たことがない人の方がいないんじゃありません?」

明良はくすっと笑った。「そう言ってもらえるとうれしいけど」と呟くように言った。

「とにかく引退はまだ早いと思います。個人的な気持ちですけど。」

菜々子がそう言うと、明良は真顔のままオレンジジュースを一口飲んだ。

「…相澤さんでしたっけ?親友の…相談されたんですか?」
「先輩にですか…。まだです。」
「親友でしょう?一番に相談しそうなもんですけど…。」
「そうですね。…でも、こういうことは何故か親友でも言えないんですよ。」
「そうなんですか…。」

菜々子には理解できなかった。そもそも親友などいないが。

「まず相澤さんに相談されてから、もう1度考えたらいかがですか?…私…結局お役に立てなくて申し訳ないですけど…」
「いえ…独りで考え込んでいたから、口に出したことですっきりしたような気がします。」

明良がそう言って微笑んだ。菜々子はどきりとした。さっきの翳りのある顔から笑顔の差が大きい。

「じゃ、今度は菜々子さんのお話。」
「え?もう?」
「ええ、僕はもう解決しましたよ。」
「!」

(なんだか、拍子抜けだわ〜)と思ったが、約束は約束だ。

「…とても言いにくい話なんですけど…」
「…なんでしょう?」
「…昨日、実は撮影でベッドシーンがあって…」
「!…」

明良の目が見開かれた。菜々子は恥ずかしさに顔が赤くなった。

「やっぱり…やめます。」
「いえ、駄目です。…それで?」
「…いえ…ただ、嫌なんです。ああいうの…。女優は皆そう思っていると思いますけど…。好きでもない人に、演技とは言え素肌を触れられるのが…嫌で…」

明良はただ黙って、菜々子を見つめている。さっきよりも機嫌が悪くなったような表情になった。そして腹立たしげに、オレンジジュースを飲んだように見えた。

「ごめんなさい!…こんな話…」
「いえ…菜々子さんが謝ることはないですよ。…僕の悩みなんか…全然比べものにならない…」
「そんなことはありません。」

明良は首を振った。

「ワインがなくなっていますね。どうぞ。」
「あ、すいません…」

菜々子はちょっとほっとして、マスターを呼んだ。マスターはすぐにワインを持ってきてくれた。

菜々子はすぐにワインを飲んだ。何か気まずい。明良は何も言わないで下を向いている。

「ごめんなさい…」

明良がふいに口を開いた。笑顔はない。
菜々子は明良が何を謝ったのか分からず、顔を上げた。

「…僕…女優さんって…仕事を楽しんでおられるのかと思っていました。」
「…え?」
「僕は、歌うのが好きで、踊るのが好きで…この道に入りました。…皆、楽しんで仕事をしているものだと思ってた…。もちろん僕たちだって嫌な事はあるけれど…あなたの今おっしゃったことに比べれば、まだましだ…。」
「明良さん…明良さんがそんなに深く考えなくていいんですよ。…仕方がないんです。仕事だから。」

「彼氏は?」
「え?」

菜々子はぎくりとした。

「彼氏は?なんておっしゃってるんですか?」

(彼氏がいたら、2人で会うわけない…)と思ったが、菜々子は平静を装って答えた。

「いません。」
「え?…うそでしょう?」
「いたら、明良さんと2人で会いません。」

結局口に出してしまった。明良は、はっとしたような顔をした。

「…そういや、そうですね…。」
「明良さんは?彼女は?」

菜々子は聞き返してみた。もしかすると、いるのかもしれない。

「もちろん、いませんが…」
「うそ!」
「いえ、本当です。」

明良が困っているのが分かった。ワインが回ってきたこともあって、菜々子は気が大きくなっていた。

「…本当のことを教えて。」
「本当にいませんよ。…困ったな…」

明良はオレンジジュースを飲んだ。もうグラスが2つとも空になっている。

「ジュースまだいります?」
「え?…ええ…すいません。」

ジュースが来るまで一時休戦状態になった。何故か、菜々子は不機嫌になっていた。自分でもよくわからない。

オレンジジュースが来た。明良はすぐに一口飲んだ。菜々子は下を向いた。…涙が溢れ出てきた。

「!菜々子さん?」
「…ごめんなさい…実は私…泣き上戸なんです。それだけですから…」

本当の話だった。

明良がそっと手を伸ばして、手のひらを上に向けた。

「?」

菜々子がその手を涙越しに見ていると、明良が「手を」と言った。菜々子はそっと手を出し、明良の手に自分の手を乗せた。
明良がそっと握った。
菜々子の目に、再び涙が溢れ出てきた。

「僕は…あなたのその悩みに何もしてやれません。…でも…僕でよかったら、辛い時にこうして会いましょう。会ってお互い嫌な事を話して…。こうして手を握ることくらいしかできないけど…。」
「…充分です。」

菜々子が泣きながら言った。明良がほっとしたように微笑んだ。

……

結局、この店の代金は、明良に押し切られる形で払ってもらった。実は昨日の喫茶店でも払ってもらっている。

「昨日も私から誘ったのに…すいません。」

店を出てから、菜々子は頭を下げた。

「いえ…あなたと会えてよかった。」

明良が笑顔で言った。そして、ポケットから車のキーを取りだした。

「家までお送りしましょう。」
「え?」

考えてみれば、明良はアルコールを飲んでいない。
明良は「あ、いや。」と頭を掻いた。

「家の近くまで…です。家の場所…知られたくないですよね。」
「そんな…別に構いませんけど…じゃぁ、送っていただきます。」

明良が微笑んで、自然に菜々子の背に手を添えた。だが菜々子はびっくりしてしまった。

「あ、そうか…すいません…触られるの嫌でしたね。車の場所があっちなんで…」
「違うんです。…突然だったから…。」

明良は笑って、駐車場に向かった。キーのボタンを押して、車のロックをはずした。
黒っぽい車だが、詳しくない菜々子には車種がわからなかった。

「どうぞ」

助手席のドアを開いて、明良が言った。

「ありがとう。」

菜々子が乗った。
明良はドアを閉めると、さっとあたりを見渡して、運転席に乗った。

……

車では、菜々子の家まで30分程だった。

(もうお別れなんだ。)

少しさびしい気がした。

(ここで、家に誘ったら…はしたないかな…)

菜々子はずっと悩んでいた。このまま帰りたくなかった。

だが、菜々子の気持ちを無視して、時間は過ぎていく。
あっという間に、家についたような気がする。
とりあえず、マンションの地下駐車場の来客用のところに明良の車を止めてもらった。

「どうも…ありがとうございました。」

菜々子が言った。

「いえ…またメールします。」
「ええ…私からも…」
「じゃ、おやすみなさい。」
「…おやすみなさい。」

ためらいがちに車を降りて、そっとドアを閉めた。
すると明良が、運転席から降りた。

「!?」

明良は「マンションに入られるまで見送ります。」と微笑んだ。

「…え?」
「あのドアまで遠いですからね。その間にあなたに何かあったらいけない。」
「…それなら…」

菜々子は意を決して言った。

「…部屋まで、守ってください。」

明良の目が見開かれたが、すぐに微笑んだ。

「…信用して下さっているのなら。」
「もちろん…信用してます。」
「では、お部屋の前まで…。」

明良はそう言って運転席のドアを閉じると、車のロックをかけた。

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