小説『がんばって短編『光』『殺人鬼の…』『この道は…』』
作者:maruzhiye(aaa)

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『石膏』



 今から十五年も前の暑い夏のこと、若草山の麓、ちょうど東大寺の裏手になります、そこに一人の若者の死体が転がっていました。一人の刑事が現場に到着したとき、凄まじいまでの雨が降り始めていたそうです。刑事は誰かが争った跡と一つの靴跡を発見しました。靴跡が雨水で掻き消されないように慌てて傘を立てかけ、自分の着ていた背広で靴跡のまわりに壁を作りました。その刑事は正しいことをしたのです。その靴跡というのが犯人のものでもあり、そしてわたしの夫のものでもありましたから。
 考えて見れば、夫が車椅子に乗るようになったのはその頃からでした。頭から水を被ったようにびしょ濡れで、震えながら帰ってきた夫は風呂に入らぬまま眠ってしまい、次の朝には熱にうなされて寝込んでしまったのです。熱が下がっても仕事に出ようとしない夫を無理やり蒲団から出そうとしました、すると夫が言うのです。
「足が立たない……。足の中の糸が切れたようだ。足が、動かないんだよ……。」
 お医者様が言うには夫の足に異常はなく、何か精神的なものだろうとのことでした。はじめはすぐに治るものと思っていたわたしは、夫に笑い話を語って聞かせたり、車椅子に夫を乗せて散歩に出かけたりしました。それでも夫の気分が晴れることはありませんでした。
 夫の足をマッサージしているわたしに目を向けず、いつも窓越しに見える空をじっと夫は見つめている。いつの頃からかわたしは夫に声を掛けなくなり、夫と言葉を交わすこともほとんどなくなりました。
 夫の胸のうちにはわたしが立ち入ることのできないような何かが確かにあったのです。夫はそれが何であるのかわたしに話そうとせず、ただこう言いました。
「放っておいてくれないか、どうしようもないんだ。きっと時間が解決してくれるはずだから……。」
 わたしはそれ以上何も言わない夫に腹を立て、憎しみさえ感じるようになっていました。

 石膏でかたどった靴跡を、あの刑事は十五年ものあいだ眺めつづけていました。事件が迷宮入りとなっても刑事はその靴跡を手放さずこう言っていたそうです。
「夢を見るんだよ。雨が降っていて、俺はずぶ濡れになったまま立っている。ちょうど俺が靴跡を見つけたところだ。そこから、そこに倒れている仏さんを見つめている。そんな夢をあの日からずっと……。晴れの日もあったし雪の日もあった、毎日じゃないが、ことあるごとにそんな夢を見るんだよ」

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