小説『売店のおばちゃんとチョコレート・改稿版』
作者:STAYFREE()

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 一週間前、私は風邪をひいて体調を崩してしまった。朝起きて、体温を測ると熱は三八度一分。何でもない普通の日であれば、仕事を休ませてもらうところだったが、その日は大事な会議があり、休むわけにはいかなかった。
 しかも、その会議は彼がリーダーで、社運のかかった……とまではいかなくてもとても重要なプロジェクトの会議だった。
 わたしは無理を押して出社をし、会議にのぞんだ。意識は朦朧としていたが、会社の為に……、いや、好きな人の為にすこしでも力になるのだと、頭がい骨の中心から頭の中を四方八方に広がる痛みに耐え、胃からせり上げってくる、無情で非情な吐き気と闘いながら必死に会議室の椅子にへばりついていた。
 会議が始まり、十五分が経過した。では、資材調達のコストとその実用性について、斉藤のほうから説明させていただきます。
 名前を呼ばれ、立ち上がったその時だった。必死に闘っていた、無情で非情な生理現象にわたしは屈してしまった。会議室の机の上に液体が滴りおちる。会議室の中に酸性の嫌なにおいが立ち込める。
「斉藤さん! 大丈夫ですか? 体調、悪いんですね? すぐに医務室に行きましょう」
 ざわつく重役たちの視線を遮るように彼はわたしの横に立ち、わたしの腕を優しくつかみ、会議室から出て医務室へ連れて行ってくれた。
「ちょっと、顔が赤いなあとは思っていたんですけど、気づかなくて本当にすみません」
 わたしのような人間にこんなにやさしい言葉をかけてくれた男性が今までにいただろうか?
 わたしは彼に恋をしてしまった。でも、それは叶わぬ恋だった。

 彼が皆の前でわたしの同期の女性と結婚をすると報告をした。大事なプロジェクトの途中でこんな報告もどうかと思ったのだけどと彼は言っていたが、同僚は皆、びっくりした顔で二人のことを祝福した。二人が結婚するような関係であったことにわたしはもちろん、誰一人として気づいていなかった。わたしは彼への思いが叶うなどとは夢にも思っていなかったが、やはりショックだった。わたしがひそかに思いを寄せていたことなど、彼は知る由もなかっただろう――。
 わたしは失恋した。これが今日チョコレートを買った理由。
 電車に乗る前にチョコレートのパッケージを開けて一粒、口の中に入れた。甘い。ただ、甘いという味覚しかない。その“甘い”は自分が持っているどの感情とも結びつかなかった。
 ホームに電車が到着する。いつもはたくさんの人が降りてくるのに、なぜか今日はあまり人が降りてこない。
 電車に乗り込んだ。でも、なかなか電車は発車しない。どうやらひとつ先の駅で、何かトラブルがあったようだ。
 二粒目のチョコレートを口に入れる。何も感じない。三粒目、四粒目、甘いはずのチョコレート、美味しいはずのチョコレートなのに……。わたしは自棄になって、残っているチョコレートをすべて口の中に放り込んだ。
 まわりの乗客がちらりちらりとわたしを見る。わたしの口の中はチョコレートでいっぱいになり、頬は限界まで膨らみ、やがて目にはうっすらと涙が浮かんでくる。
 わたしは電車から降り、ホームにある水飲み場の排水溝に口の中に残っているチョコレートをすべて吐き出した。さっき、チョコレートを買った売店のおばちゃんがわたしのもとに来て背中をさすってくれた。おばちゃんは何も言わずにただ、私の背中をさすってくれた。
 でも、わたしはチョコレートをすべて吐き出しても涙が止まらなかった。

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