小説『心というもの』
作者:おとゆめ()

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暗い暗い情報の海の中。
深海にも似たその闇の中で、私は一つの意味を知った。
それは、きっと私には何の役にもならないもので、貴方にとっても邪魔にしかならない物かもしれない。
それでも私は大事に大事に抱え込んだ。
奪われないように。
たった一つの、私が手に入れた意味だから。
これがあれば何かを知る事が出来る。
知らない物なんかきっと無くなる。
でも、知る事と理解する事は決してイコールなんかじゃなくて、理解される事はもっと難しい事に、私は気付かなかった。
気付かないまま、私は沈んで行く。
私には抱えきれなかったから。
その意味は、私ごと深海へと引きずりこんで行く。
もう、戻れない。
気付けば私の腕はまるで一体化でもしたかのように切り離せなくなっていた。
意味を取り込んだ。それとも取り込まれた?
どっちでもいい。
だって、もう、昔の私には――


――戻れないのだから


「……」
目を開けて最初に見えたのは家だった。
真っすぐに伸びた舗装された道路。その左右に立ち並ぶ家々。赤、青、カラフルに染まる屋根達が僕がここに立って初めて見る景色だった。
次に上を見る。
いつもの僕が見ている世界とは違う。綺麗な青。その上からさらに塗りつぶすように白い雲が浮いている。その雲に『立体感』はない。それは、ただ本当に『塗りつぶした』だけの背景。
動く事もなく、形を変える事も無い、偽物の雲。
それはきっと、どれもそうなんだろうなと、そう感じた。
家も、道路も、確かにそこにあるのに、違う。違和感。
どれもが全部、偽物だと感じた。
「……ここは、どこなんだ?」
わからない。
気が付いたらここに立っていたのだから。自分の意思でここに来た訳ではない。そもそも、何故、僕はこんなところに居るのだろうか。
「誰か居ないだろうか」
視線を大通りと思われる道路に向けるが、誰もいない。
気配はある。僕以外の僕と同じ存在のいる気配。でも、見当たらない。多分、ここは入り口なのだろう。だとしたら、もっと奥に行けば何かが居るのか?
「案内板の一つでも立ててくれればいいのに」
「あ、いいね。それ、名案!」
「…っ!?」
誰にでもない、ただの独り言に返事が返って来た事に驚いて振り返る。
そこに居たのは二人の少女だった。
「やっほー」
一人は緑色の髪をした長いツインテールの女の子。
「新しい人かしら?」
もう一方はピンクの髪をしたロングの女性。こちらの方が緑髪の少女より年上の印象を受けた。
「もしかして、急にここに放り出されちゃってわからなくなっちゃったのかな?」
「まぁ、そんなとこかな」
別に放り出されちゃいないし、帰れるのならさっさと帰ってしまいたい。とりあえず、ニコニコしてる緑髪の少女の方に話しかけてみる事にした。
「えーっと、ここはどこかな?後、出来れば出口を――」
「出口はないわよ」
そう言ったのは緑の少女ではなくもう一人のピンクのロング髪の方。
……この言い方はちょっと面倒だな。
「ごめん、先に君達の名前を教えて貰っていいかな?」
「ん?私の名前は初音ミクだよ!」
長いツインテをふりふりと揺らしながら、そう答える。
「初音ミク?」
そんな名前をどこかで聞いた気がする……。どこだったか。
「あれ?もしかして御存じない?」
「聞いた事あるような気はするんだけど……」
「なんだ……」
予想外の反応だったのか彼女は少し肩を落としてため息をついてしまった。
「え?あ、いや…ごめん」
そんな彼女の対応に困ってわたわたしてしまう。残念ながら女の子の扱いには全くと言っていい程慣れていない。
僕の世界には女の子なんて、彼女一人だけだったからだ。
彼女以外の女性に接する機会なんて今までほとんどなかった。こうやって落ち込まれるのだって、僕自身初めての事で……。
「あ、あの……?」
「ふふ」
落ち込んでいたミクと名乗る少女は、いつの間にか笑顔に戻っていた。
「キミ、面白い反応するね?」
「……」
からかわれていただけらしい。
ため息をつくのは、今度は僕の番だった。
「それで、君の名前は?」
初音ミクが何者だったかは、とりあえず置いておいて、僕はピンクの髪の子に話しかける。
「私は、巡音ルカ」
「…ルカか」
こちらも何か聞いた事がある。
どこかで……多分、ネットで。
「私達はボーカロイドと呼ばれていたの」
「ボーカロイド……」
それで、ピンと来た。そうだ。初音ミクも巡音ルカも、そのボーカロイドと呼ばれるプログラムの一つだ。記憶が正しければ、他にもいくつものボーカロイドが居たはずだ。
「これで思い出したかしら?」
「ああ、ありがとう。おかげでスッキリしたよ」
「そう」
そう言って、ルカは上を見上げてしまう。なんだか、ミクと違って随分と静かな子だな。落ち着きがあるというか、感情そのものがないというか。
なんとなく、この世界に似合っているなと、そう感じた。
「それで、キミはここの新参者って事でいいのかな?ここに住むんでしょ?」
ミクが僕の袖を掴んで引っ張る。こちらは、何と言うかルカとは正反対の性格だ。元気のある妹みたいな感じ。
……うん?
「新参者?ここに住む?」
さも、当たり前のように言う物だから危うく聞き逃すところだった。
「いや、僕は別にここに住みたい訳じゃないんだ。出来れば、元居た場所に帰りたいんだけど……」
「それは無理ね」
さっきまで空を見上げていたルカが視線をこちらに戻し、そう言った。その目には真剣さも何も感じられない。ただ、真実だけを伝える。そんなロボットのような無感情だけがそこにあった。
だからだろうか、なんとなく彼女が口にする言葉に恐怖を感じる。
「ここに来た以上、貴方はここから出られない」
「……どうして?」
「ここは――」
「あー、ちょっと待った!そっから先は私が説明するところでしょ!」
ミクがルカを押しのけて僕の前へと出る。それに対してルカは特に怒る事もなく、ただ小さく「どうぞ」と呟いただけだった。
了解が出た事でミクは一度コホンと咳払いをした後、再び僕の目を見つめる。
「ここは、ネットスラム。捨てられたプログラム達が暮らす、安住の地だよ」
「ネットスラム……?」
なんだ、それ。そんなの聞いた事ないぞ……。
「知らないのも無理ないかもね。ここは普通の人じゃ来れないし、こっちからあっちへの情報は絶対に届かないようになっているから」
「それは、何故?」
「必要ないからよ。言ったでしょう?捨てられたって」
「あ、ルカ!この説明は私の仕事なんだってば!」
自分の仕事を取られて憤慨するミク。どうやら、お互い同じ仕事を受け持っているらしい。
「仕事も何も私からこの仕事を奪ったのは貴女じゃない」
「だって、これくらいしかやることなくて……」
……と、思ったがどうやら僕の勘違いだったようだ。
「……それにしても、随分と他人事のような顔をしてますね」
「え?」
「……説明を聞いてなかったんですか?」
表情は全く変わらないが、どっか呆れた感じの声で僕を非難する。
「いや、聞いていたよ。ここはネットスラムなんだろ?」
「なら、どうしてそんなふうに居られるのか理解出来ません」
「そう言われても……」
困る。だって、僕は捨てられた訳じゃない。ここに居る意味すらまだ理解していないのに、自分事のように演じることなんて出来やしない。
「そっか、理解していないんだね」
さっきまで明るく振る舞っていたミクが突然悲しそうな顔をする。
なんで、そんな顔をする?やめてくれ、それじゃ僕はまるで……。
「捨てられたんですよ」
きっぱりと、ルカはそう言った。
僕が至った最悪の考えを、彼女はハッキリと口にした。それは彼女だからこそ、何の感情も見せない彼女だからこその信憑性、現実、事実。
その言葉に一切の嘘はないと。
その一瞬で理解してしまった。出来てしまった。
だから僕は……。
「そんなこと……」
否定しようとした。わかっているからこそ、後ろを向いて逃げ出そうとした。
「事実です」
しかし、彼女はその肩を容赦なく掴む。そして、振り向かせた。現実に。
逃げる事なんか、出来なかった。
「本当に……?」
「はい」
一点の曇りもない、真っすぐな返事。ルカの声とミクの顔。その二つを見て、僕はようやく現実を受け止めた。
しかし、受け止めたところでどうにもなる訳は無い。捨てられたという現実は予想以上に重く辛いものだった。今までそれだけを頼りに生きて来たのに……これから、僕はどうしたらいいのだろうか。
「どうしたらいいかとか思ってる?」
「うん……」
ミクが俯く僕を見上げるように覗き込む。その表情は未だに哀しみに包まれていた。まるで自分の事のように。
「ありがとう」
「ん?何が?」
急にお礼を言われた事に彼女は小さな笑顔を浮かべた。そっちの方がきっと彼女らしい。そんなことを思いながら。
「なんでもないよ」
そう言って誤魔化す事にした。
「えー。ま、いいや。ところでさ、どうせ悩むなら、しばらくここに居てみたら?もしかしたら、それで答えが出るかもしれない。どうせ今すぐ答えを出せるような問題でもないだろうしさ」
「……そうかもね」
とりあえず、落ち着く時間が必要だ。どうして僕は捨てられたのか、その理由も何も知らないままスラムに辿り着いてしまった。だから探さなきゃいけない、その意味を。
「ここは、なんにもないけど、時間だけならある。それこそ、永遠と呼べるくらいにね。どうせ、私達は暇なんだからゆっくり考えるといいよ」
「……そうだね」
呟きながら空を見上げる。
そこには、やっぱり……偽物しか、なかった。


「それじゃ、ここがキミの家ね」
大通りを少し行った所にある十字路。そこを右に曲がって三軒目に僕の家はあてがわれた。
現実世界ならどこにでもありそうな一軒家。庭付き一戸建て。ただしペットは居ない。
「ペット型のプログラム君ってまだ来た事ないんだよね」
「来たらペットにするつもりだったのか」
自分がペット型じゃなくて良かった。そんな事を思いながら家の中に足を踏み入れる。
「普通だ……」
外の見かけ通りの内部。リビングがあってダイニングキッチンさらに和室に二階にも部屋が……。
「って、これ少し広すぎないか?もしかして、ルームシェアとか?」
「ああ、それコピーしただけだからね。どうせ作るならそういう一軒家の方がいいかなって思っちゃって」
「思っちゃってって、これ作ったのはミクなの?」
「ん?そうだよ。こんなの作るの私くらいしかいないよ」
そう言って笑うミク。それは一体どういう意味なのだろう。
「これが、君の役割なの?」
「ん?違うよ。これは、私が好きでやっているだけ」
「じゃあ、君の役割はなんなんだい?」
「さっきも言ったじゃない。この町の説明をすること。それが私の役割だよ」
「……」
本当にそうなのだろうか。なんとなく、そうじゃない気がする。あれはルカの役割で、この子にはもっと別の役割があるような……。
「とりあえず、ここは新築同然の家だから大事に使ってね。物とかは……買いに行こうか。ついでに町を案内するよ」
それは有難い。どうせ、この後は色々と見て回るつもりだったんだ。もしかしたら、ここには長く居座る事になるかもしれないし。
それに、例え偽物だとしてもこの世界はリアルに忠実だ。
デジタルの世界から抜け出した気分。
モニターとの垣根を越えて、ここに存在していられる。
それは、なんて心地いい事だろう。
「ありがとう」
一言、僕がお礼を言うと彼女はただニコリと笑った。


「ここがコンビニだね」
「ほう……」
その後、すぐに僕らは出掛けた。
とりあえず色々な細かい物はここで揃うよ、と言って連れて行ってくれたのはコンビニ。もちろん、実際に行った事なんて無い。記憶の片隅に単語としてなら存在してはいるのだが。
「これ、ドアだよね?」
「ん?そうだけど?」
「どうやって開けるの?」
「知らないんだ。珍しいね」
「あんまり調べ物はしなかったからね」
僕のマスターは調べ物と言えば音楽関係の物ばかりでその他の事にはなんら興味を示す事はなかった……気がする。
何故だろうか。ここに来た途端、記憶が霞みがかっている。マスターの事はわかる。わかるのだが……。
(来た衝撃でメモリがおかしくなったのかな……)
所々にぽっかり穴が空いてしまっている気分。頭の映像が飛び飛びで流れて行く。
「とにかく、そのガラスに近づいてみなよ」
「……?」
頭に疑問符を浮かべつつも言われた通りに近づいてみる。

ウィイイイイイン

「うお!?」
静かな機械音と共にドアがスライドした。予想外の出来事に驚きが口から飛び出してしまった。
「ぷっ……」
「わかってたなら教えてくれてもいいじゃないか」
「いや、それくらいなら分かるかなって思ってたから。本当に何も知らないんだね?」
「仕方ないだろ。僕のマスターはそんな事調べたりしなかったんだから」
「ふぅん。どんなこと教えてくれたの?」
「音楽関係の物だよ。歌とか曲とか……多分」
「……そっか」
その時、ミクがなんとなく寂しそうな声を出した気がした。
表情を見る事は出来ない。髪で顔が隠れてしまったから。もしかしたら気のせいかも知れない。しかし、先ほどの彼女の声とは違う、別の雰囲気を感じ取った気がした。
「とにかく入ろうよ」
何かを誤魔化しながら彼女は先に入って行く。もしかしたら、彼女の過去に僕は触れてしまったのかもしれない。なら、これ以上の詮索は止めておいた方がいい。
「……入るか」
中では彼女が先ほどの笑顔を取り戻し、こちらに手招きをしている。
そんな彼女に笑顔を向けて、僕もコンビニの中に足を踏み入れる事にした。


「なんだ、これ?」
「ん?それはカップ焼きそばだよ。お湯を入れて三分。後はだばぁして出来上がり」
「うん、全く理解出来ない」
僕の生活に必要な物を揃える為にやって来たのだが、いつの間にか全ての商品に対して質問する状態になっていた。
だって、わからない物が多すぎる。
あれもこれもそれも、僕に取っては初めての出会いで全てが新鮮なのだ。言葉では落ち着いているけど、実際はかなり興奮して店内をキョロキョロしている。
「キミ、子供みたいだよ?」
そんな僕を見てくすりと笑うミク。
「仕方ないだろ。全部が初めてなんだから」
「そだね……」
まただ。また、悲しい顔。
そこで、ようやく思い出す。この町が存在している意味を。
捨てられたプログラムの町。
それが、このネットスラム。
なら、考える事など必要無かった。
「君も、捨てられたんだ」
「はは、何言ってるの?そんなの当たり前じゃない」
「あんなに明るかったから、最初からここに居るプログラムだと思ってた」
「最初からこんなところに居るプログラムなんかいないよ。ここは皆が捨てられて、行き場を無くした人達の世界。それは、誰も変わらない。私も、キミも」
ふらっと。
彼女はレジと呼ばれる、商品をお金で支払う場所(さっきミクに教えて貰った)にまで足を進ませた。
「ここってさ。役割という概念が無かったんだよね。皆が自由で開放されて、でも、それはやっぱり不自由で束縛されて。今まで、その役割だけを真剣に考えて生きて来たプログラムがさ。必要ないからって捨てられて役割を放棄させられた。その苦しみって、わかる?」
「……もちろん」
当たり前だ。そんなの、ここに居る住民全てが理解している事なんじゃないのか?
「だから、私が用意したの」
「何を?」
「この世界を、だよ」
「…………」
何を言ってるんだって思った。そんなこと出来る訳ないって。
しかし、彼女はそれをやってみせた。目の前で。
手を掲げ、軽く振る。
それだけ。たったそれだけで、彼女は奇跡を現実の物とした。
彼女の目の先には新しい棚。そこには商品もたくさん乗っていた。僕の知らない様々な物が。そんなもの、さっきは存在しなかったのに。
「そうやって、作っていったの?」
「うん。ここには何もないからね。有から有を生み出すのって結構難しいんだけど、無から有を生み出すっていうのは実はそんなに難しい事じゃないんだ。この世界ではね」
そんなことはない。無から有を生み出すのは、それは本来あってはいけない事。突き詰めて突き詰めて突き詰めても、結局そこにあるのは多分「有」だ。だから、彼女のやっている事は奇跡。それはきっと、神の所業。
「それが、君の本当の役割?」
「さぁ、どうかな?役割を与えられて、やっている訳じゃないからね。私はやりたくてやってる」
そう言って彼女は笑った。
何が楽しくて、何が嬉しくて笑っているのかはわからないけど、何となく僕も、釣られて笑みを浮かべてしまうのだった。
「さて、そろそろ行こうか」
気が付けば、彼女のカゴにはたくさんの品物で埋め尽くされていた。そのカゴを持ち、そのまま出口へと進もうとする。
「ちょ、ちょっと待った。これ、お金はどうするの?」
レジを指差し、僕は彼女を止める。
「ん?ああ、大丈夫だよ。その役割を果たす人、居ないんだ」
それだけ言うと彼女はコンビニを出て行ってしまった。
ミクの後を追って外を出ると空がオレンジ色に染まっていた。
さっきの青空とはまた違う、綺麗な空。
しかし、僕は知っている。その空は偽物であることを。
そこに居るだけ。世界の広さを知らず、そして知る事も出来ないまま、同じ風景だけを見続ける。
「あの空もミクが作ったの?」
「ん?そうだよ。町だけ作ってもなんか物足りなくてさ」
さも当然とそう語る。
「そっか……」
「信じられないでしょ?」
「まぁね……。でも、何もないよりかは、マシかもしれない」
例え、それが偽物だとしても。

家に着くと、ミクはそのまま帰ってしまった。
「今日は遅いからまた明日ね。あ、それと夜はうろついても私は止めないけど町の外だけは出て行っちゃ駄目だよ?そっちは、危険だから」
と、だけ残して。
別に今日はもう出かけようなんて思ってないし、それについては何の問題もない。問題なのは……。
「これ、何に使えばいいんだ?」
ミクがこれ必要だからと買ってくれた何か良く分からない物の数々。何に使えばいいのか、ほとんど理解出来ない。
「一応、説明は受けたけど……」
それも、ほんの少しの事で全てを教えて貰った訳ではない。はぁ、あっちは自分がわかっている前提で話をするもんだから……。
とりあえず、台所に放置してソファーに座る。
「へぇ、思ってた以上に座り心地がいいもんなんだな。これって……」
ネット世界にソファーなんかもちろんない。だから、これが初めて。
「……ふぅ」
今日は疲れた。
一日のほぼ全てが新しい発見だけで埋め尽くされる日なんてそうそうない。個人的には大満足だ。ただ一つ、ここに居る理由以外については……。
「僕、捨てられたんだよな」
口に出すと実感する。確かに僕は捨てられたんだと。
そう思うだけで心が軋む。痛い。苦しい。
どうしてですか?どうして僕を捨てたんですか、マスター?
僕は、何をしてしまったのでしょうか?
「………駄目だ」
今日一日で分かった事。それは、僕が『覚えていない』ということだ。
分からない。思い出せないのだ、どうして僕が捨てられたのか、その理由が。
僕がここに居るのであれば、必ず何かが起きたはずだ。その原因となった事件が。だが、それが僕の記憶の中に存在していない。
……いや、違うか。霧に隠れているんだ。存在しているのに、それが隠れてしまっている。まるでビデオテープにそこだけ上書きされたかのように、僕の記憶は曖昧な物になってしまった。
「どうして、大事なところだけ」
せめて、理由を教えてくれれば救われるのに。僕は、知る事も出来ず、ただ捨てられた現実だけを叩きつけられた。それは、とても、辛い。
これから、僕はどうすればいいのか。

ピンポーン

「……?」
玄関の呼び鈴が鳴る。
誰だろう、こんな時間に。でも、今は誰でも助かる。こんな気分を払拭出来るのなら、誰でも……。
玄関に出てドアを開ける。そこに居たのは――
「やぁ」
「こんばんは」
ルカだった。
初めて会った時のままの無表情のまま、僕との挨拶を済ませた。
「どうしたの?こんな夜中に」
「いえ、ミクが一緒に出かけたと行っていたものだから」
そういえば、ルカは一緒に居なかったな。
「何か余計な事はしなかったかと思って」
「いや、必要な物は買ってくれたし、全然そんなことなかったよ」
「またか……」
そう言って、ルカは頭を抱える。その表情は相変わらずのままだが、初めて彼女の感情らしい感情を見た気がした。
「この世界にはそんなの必要ないの。食べ物もお店も、もっと言えば家だって本当は必要ない」
「じゃあ、なんでここにあるんだ?」
「聞いていないの?あれは、あの子が勝手に作ったの。寂しいからという理由だけで。だから、あれは嗜好品。私達には必要のないものなのよ」
「それじゃ、ルカの思う本当に必要な物ってなんなの?」
「役割」
たった一言、そう呟いた。
「役割さえ持っていれば私達は生きていける。貴方もそうでしょう?」
役割か……。確かに僕達は役割を持って生きて来た。それが僕達の存在で、それが無ければ僕達は何も出来ない。自分そのものだった。しかし……。
「今は、そうは思わないんだ」
彼女の質問に僕はそう返していた。
その返事が納得行かなかったのか、無表情の顔が少し歪む。
「……どうして?」
「だって、それなら僕はとうにここに居ちゃいけない物になっている」
ここで、僕は役目を与えられていない。ただ、ふらふらと自由に生きていた。本当なら、それは一日でもあってはいけないことなのに。役割が全てだと言うなら僕はここでも役割を持って生きて行かなきゃならない。だけど、それをしなかった。いや、しないという事が出来てしまった。
「そう……」
小さく息を吐いて僕に背を向ける。
「ルカ?」
「帰るわ……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「……貴方は、多分――」
ルカが何かを言っていたが聞きとれなかった。しかし、止めてまで聞こうとも思わず結局、彼女が視界から見えなくなるまで送り続けた――
「あ、どうせだったらミクの買って来た物の説明をして貰えばよかった……」
――ちょっとの後悔を残して。


「おっはよー!!」
朝はミクの大声で幕を開けた。
「……全く、何かあったかと思って飛び起きてしまったじゃないか」
リビングでミクに対して文句を垂れる。
そんなミクは悪びれもせず「ごめんごめん」と言いながら台所でゴソゴソ。さっき僕を驚かせた罰としてミクには昨日買って来た物達の整理を頼んだ。彼女も元々そのつもりで来たらしく「お任せお任せー」と上機嫌で作業に取り組み始めたのだった。
「朝から元気だね、ミクは……」
「まぁね!一日の始めは大事だよ!最初から暗いと何も上手くいかなくなっちゃう」
「それは、まぁ。確かに」
マスターも同じ事を言ってたなぁ。
そう言う日はただただ一日ボーっと過ごしていたっけ。外を眺めていたり、ネットサーフィンしてみたり、とにかく日が変わるのを待って過ごしてた……気がする。
「だからと言って、それで人を驚かせたりしていい訳ではないけどね」
「……っ!」
作業をする手を止め、ミクが固まる。……いや、その身体は少し震えている。
「どうしたの?」
「……っ!!」
僕が話しかけるとミクはさらにプルプルと震え始めた。
…………。
「僕が驚いた所がそんなに面白かったかい?」
「ぶふぅ!」
吹き出しやがった。
「ち、ちがうの!ちょっとツボに入っちゃ……ひひっ!」
弁解しようと僕の方へと向き直るが、その顔を見てまた吹き出す。どうやら、本当にツボに入ったらしい。
「だ、だめ……おなかいたい……っ!」
「そりゃ、そんなに笑ってたら痛くもなるよ」
はぁ、とため息を吐いて自分の椅子に座り直す。
ちなみに、今、僕は初めての朝ごはんと言うものを体験している。人間は毎日こんな物を食べているんだよーとミクが作ってくれた物だ。
ネギの卵焼きにネギのみそ汁にネギご飯。
人間という生き物はどうやらこのネギと言う物が大好きらしい。確かに美味しい。……というか。
「この世界って味覚までしっかりしているんだな?」
「ひー!ひー!」
「いつまで笑ってるんだ……」
そっから数えて約三十秒。そこまでしてやっとミクは笑うのをやめてくれた。
「…………」
そして、僕はというと、いつまで経っても笑い続けているのでその三十秒で完全にふてくされてしまった。話聞いてくれないし。
「……ごめんごめん。まさか、あそこまで慌てるとは、ぶふっ!」
「ミク?」
「……はい、ごめんなさい。それで、なんだっけ?」
一応、言っておくが僕は彼女が大笑いする程、酷い起き方はしていない。ただ、少しびっくりしただけだ。決して、驚いた拍子にベッドから転げ落ちたりなんかはしていない。断じて。
「この世界は味覚もあるんだねって話」
「あー、そこら辺は……じゃ、説明しながら行こうか。そろそろ行かないとルカも怒ってるだろうし」
「へ?行くってどこに?」
しかし、ミクは何も語らずさっさと整理を終わらせて、外に出て行こうとする。その後ろを慌てて着いて行く。まだ、朝ごはん全部食べていないのに……。
「それで、どこに行くんだい?」
「ベッドから転げ落ちた君に見せてあげたい所があるんだよ。ほら、早く行かないとルカも待ってるし」
「…………」

「遅い」
外ではルカが腕を組んで待っていた。普段、無愛想なのも相まって不機嫌な表情はなんだか凄く怖い。しかし、ミクはもう見慣れているのか「ごめんごめん」とだけ言ってさっさと前を歩いて行ってしまう。
「待たせちゃったみたいでごめん……」
知らされてなかったとは言え彼女を待たせてしまった訳だし、僕もルカに頭を下げる。
「……別にいいです。どうせ、あの子何も言わなかったのでしょう?」
「ええ、まぁ……」
ミクがこうなるのを分かっていた上で彼女は待っていたらしい。呆れたため息の中に怒りは感じられない。待たされた事に対して機嫌を悪くしているこそすれ別段、怒ってはいないようだった。
「いつも、こんな感じなの?ミクは」
「ええ。いつも自由ですから、あの子は」
それは見ててわかる。自由過ぎるくらいに自由で悩みなんてないくらいに人に同情出来る。そんな純粋で素直な子。たった一日でそれだけわかってしまうのだから、本当に裏表のない子なのだろう。
ただ、あの時聞いた声。あれは、多分、同情なんかじゃない。自分に対して、悲しんでいた。過去を思い出して後悔していた。そんな気がした。
彼女の中にも闇はある。
あの明るくて元気で太陽のような少女にも、きっと。
偽物の空に覆い尽くされたその奥にきっとミクは……。
「どうかしました?」
「……いえ、なんでも」
ルカの声で我に返る。まぁ、そんな妄想をしても仕方ないか。今は、自分の事で精一杯な訳だし。
「そういえば、ルカはこれからどこに行くか知ってるの?」
「いえ。ですが、こういう時は大体何か新しい物を作っている時なので、それが完成したとかそういうことじゃないかと」
新しい物。それは、この家や店の事。そして、この世界そのもの。彼女はそれを想像して創造する。
まるで神様のような……。
「とても、ボーカロイドの仕事とは思えないけど」
「あら、ボーカロイドについては知らないはずでは?」
「ミクに教えて貰ったんですよ」
「そうですか」
それきり、会話のキャッチボールは続かなかった。ルカがボールをキャッチしてそこで終了。もう、ボールは放たれない。
「おーい!遅いよー!」
喋る事がそもそも無いし、なによりミクがどんどんと前へ突っ走って行ってしまうため、話しながら歩くという余裕がなかった為だ。
そんなに早く見せたいのだろうか。彼女は終始ご機嫌な笑顔のまま先を歩く。
「子供みたいにはしゃいでますね、彼女」
「……中身は子供みたいな物ですからね」
さっきのペースでは追いつけないと理解した僕達はだんだんと早足になっていく。
「お、二人とも歩くの早くなって来たね!よし、それじゃ私ももっとスピード上げちゃうぞ!」
「……!?」
変な勘違いをしてしまった彼女はそのスピードを上げ、さらに僕達の距離を離していく。そして、それを見て絶望的な表情を浮かべるルカ。……もしかしたら、運動が苦手なのかもしれない。
「ミクーっっ!!ストーップ!!」
これ以上はルカが大変そうだと感じた僕はミクを大声で呼び止める。
「なにーー!?」
それに対して足を止め、大声で返事をするミク。良かった、止まってくれた。
急いで彼女の傍に駆け寄る。
「ミク、先に行きすぎ」
「えー。だって、早く見せたいんだもん」
「それでも、見せたい相手が来なかったら意味がないだろう?」
「うん……」
注意されて、しょんぼりするミク。少し可哀想だけど、またどんどん突っ走られても困る。主にルカが。
「はぁ……っ!はぁ……っ!」
ほら、こんなに息切れして――
「って、大丈夫!?」
さっきまで、普通にしてたのになんで!いや、そんな事、考えてる場合じゃなかった!とにかく水を……。
「ミ、ミク!ここら辺に何か飲み物は――」
「あわわわわわわわわわわ」
僕より動揺してる!?
「お、おちついて!とにかく水を!」
「う、うん!」
たまたま近くにあったベンチに座らせて二人で飲み物を買いに行く。それにしても、驚いた。運動が苦手そうなのはなんとなくわかったけど、まさかここまでとは……。
「まさか、ルカがここまで運動音痴だったなんて」
ミクも同じ事を考えていたらしい。自販機で飲み物を選びながらそんな事を口にしていた。
「ミクでも知らなかったのか」
「うん。あんなルカ初めて見たよ」
その驚いた顔を見ると、本当に初めての事なのだろう。
「あんなに走った事なかったの?」
「いや、あったよ。あったけど、ルカがあんなに呼吸している事なんて……」
二人、うーんと首を傾げながら戻って行く。ベンチでは、ルカがぐったりと横になっていた。先ほどよりかは大分回復したようだけど、それでもまだ少し辛そうだ。
「大丈夫かい?」
買って来た飲み物を渡すと彼女はゆっくりとタブを開いて飲み始めた。喉を鳴らしながら飲む姿。汗がしたたるうなじ。なんだか、見てると少し恥ずかしくなるような……。
「……?どうしたの?」
僕の視線に気付いたのかルカがこちらに視線を向ける。
「な、なんでもないです!」
急な事に僕は慌てて視線を逸らす。な、なにやってるんだ僕は。
ちら、とルカの方を見ると不思議そうな表情でまだこちらを見つめていた。
「ところで、ルカ。もう大丈夫なの?」
「ええ。でも、まだちょっと苦しいからもう少し休ませてくれないかしら」
「ん、わかった。ほら、行くよ」
「え?うわっ!」
急に袖を引っ張られ、足元がよろける。そのバランスを直す事も許されないまま、さっきの自販機の前まで引っ張られた。
「あ、危ないなぁ……」
ここまで倒れずに来れたのは奇跡だ。自分のバランス力に感謝。そして、その原因を作ったミクだが、何故だか僕の事を睨みつけている。
足を広げ、腕を組み、眉は釣り上げながら睨むその顔はなんだか凄く怖い。というか、僕は何か怒らせる事をしただろうか。
「あ、あのー?」
恐る恐るミクに話しかける。
「……この変態」
ああ、完全にご立腹だ。しかし、いきなり変態はないんじゃないだろうか。僕はそんな行為はしていないし、何も考えてはいない。
「ちょっと待ってよ。僕は別に何も――」
「ルカの事見て赤くなってた。どうせ、胸ばっか見てたんでしょう!」
酷いいいがかりだ。
「見てないよ。僕が見てたのはうなじや首筋の方で」
「どっちでも同じ事じゃない!」
「ええっ!?」
そ、そんな……。まさか、首を見る事が変態だったなんて……。
「し、しらなかった……」
がくり、と膝をつく。ぼ、僕はなんてことを……。
「え?ええ?ちょ、ちょっとキミ?」
僕が急に膝と両手を地面に付けて落ち込み始めるものだから、ミクはさっきと同じようにパタパタと慌て始める。
「え、ええと。べ、別に怒っている訳じゃなくて……なんていうか、キミも男の子だったんだなっていうか……っ!そういう変態な所もあって動揺しちゃったっていうか!」
それは、僕の事を励ましているのか、それとも貶しているのか。まぁ、この場合は僕の事を励ましてくれているのだろうけど、どうせならもう少し言葉を選んで……。
「変態なんだけど、変態じゃないっていうか!」
どっちなんだろう。
顔を上げると彼女は眉を八の字に曲げて手をせわしなく動かしながら僕を励まそうとしていた。その姿になんだか和んでしまって、つい笑みを浮かべてしまう。
「あ……」
僕の顔を見てミクもまた笑顔になる。
「はい」
差し出された手を掴んで起き上がる。
「え、えっと。とりあえず、わざとじゃないから許してあげる!で、でも次やったら承知しないんだからね!」
途端、顔を赤くして怒り始める。なんで、急に怒られたのか分からずポカンとしていると彼女はまたアワアワし始め。
「えっと、ち、ちがうの!これは――」
と、さっきと同じような弁明。そのコロコロ変わる表情がなんだか面白くて。
「プッ」
こんな風に吹き出してしまう。
「え?な、なんで笑うのよー!」
「はは、ごめんごめん。ミクが余りにも面白くて」
「お、おもしろくなんかないもん!」
ぷい、とそっぽを向く。いけない、機嫌をそこねてしまったか。え、えーと。こういう時は……。
「……ぷっ!キミだって面白い顔してるじゃない」
「ええっ!?」
僕を指差してケラケラと笑う。別に、面白い事をしていたつもりはないんだけど……ま、いっか。機嫌も直ったし。
ひとしきり笑った後、彼女は大きく息を吸い込んで一息つく。
「はぁ、笑ったら喉乾いちゃったよ。キミもなんか飲む?」
「え?あ、じゃあせっかくだから」
ボタンを押して飲み物を取り出す。一つは僕に、一つはミクに。
「…あ、気になったんだけどさ」
カンのタブと格闘しながら、僕の方を向く。
「うん?」
「キミって、自販機の事は知ってるんだね」
「……え?」
「ほら、なんだか慣れた感じだったじゃない。初めて見た物全部に感動してたようなキミが、これを見た時にはそんな反応してなかったしさ」
「確かに……」
言われてみればそうだった。ルカがあんな事になって慌てていたというのもあるけど、それでも自販機から飲み物が出る事は知っていた。第一、僕は「自販機」と言う言葉を普通に口にしている。
「もしかして、気付かなかった?」
「全く」
「はぁ……」
僕の返答にため息で返す。
「もう少し、しっかりしてよー。自分の事でしょー?」
「面目ない……」
「全く……」
そこでやっと飲み物に口を付ける。片方の手を腰に付けて飲む姿はなんだか見ていて微笑ましい。
「ぷはっ!やっぱ美味しいわ、これ」
「それ、なにを飲んでいるんだい?」
「ん?ほら、これ」
と、言って見せてくれたパッケージには「ネギジュース」と描かれていた。
「また、ネギ……」
「現実ではメジャーなのよ。こういう飲み物。青汁って言ってね。ネギを原料にした飲み物なんだけど」
「そうなのか」
今朝の食卓といい、やはり人間はネギを好んで食べるようだ。確かに美味しかったけど、さすがに飲み物は……。
「なんだったら、飲んでみる?」
「いや、いい……」
なんだか、とても嫌な予感がする。あれは飲んではいけないと頭の中で危険信号が流れている。今回は、その予感を信じよう。
断られたのが不服だったようで、彼女はむーっと拗ねた様子で小さく「おいしいのに……」と呟いたのだった。

「さて、そろそろ戻ろうか。いい加減ルカも回復してるでしょう」
そう言って空き缶をゴミ箱に捨てて歩き始める。確かに、あれから結構な時間が経っていた。回復どころか、また待たされて機嫌悪くしてるんじゃないだろうかと心配になる。
「もしかしたら、忘れてるんじゃないかな」
ふと、前を歩くミクは空を見上げながらそんな事を口にした。
「ルカが?」
「え?ああ、違う違う。さっきの話よ。キミが自販機の事を覚えていた理由」
「そっちの話か。それで、忘れていたって?」
「だから、他の事は知らない癖にその事だけ知っていたじゃない?それは、もしかしたらキミが忘れているだけなんじゃないかって思ったの」
「………」
忘れている。確かに僕はマスターの事すらも、きちんと把握出来ていない。所々がぼやけていて、未だにどうして捨てられたのかすらわからないままでいる。
「やっぱり、僕は忘れているのだろうか……」
「自覚してたんだ」
「マスターの事もうろおぼえなんだ。覚えている物もある。でも、虫食いのように記憶に穴が空いている箇所もあるんだ」
「そうだったんだ」
そういえば、この事はミクやルカに話していなかったんだっけ。急な事で動揺していたし話す暇も無かったしな。
「でも、それもすぐ思い出すと思うよ。たまに居るんだ、そういう人」
いつかは思い出す事が出来る。それを聞いた時、安心したと同時になんだか少し怖くなった。だって、それはつまりマスターに捨てられてしまった理由を知ってしまう事だから。
知りたくない訳じゃない。でも、やっぱり怖い。なにがあったのかを知る事も、そしてそれがいつ来るのかわからないということも。
「……そんなに怖がらなくて大丈夫だよ」
そっと僕の手に彼女の手が重なる。
傍から見ても分かるくらいに、僕は怯えていたのだろうか。彼女は優しく、僕の手を包み込む。
「キミの記憶はキミが怯える程、酷いものじゃないよ。私が保証する」
その根拠と自信はどこから来るのか。だけど、彼女の顔にはそんな迷いは見えなかった。何かの確信に満ちた表情。
もしかしたら、彼女は何かを知っているのかも知れない。僕の知らない僕自身の何かを……。
「教えてはくれないんだね?」
「それよりも、ほら早く行こうよ」
僕の問いには答えず駆け出す。彼女は一体、僕の何を知っているのだろうか。それが、分かる日もいつか来るのだろうか。
そんな事を考えながら、僕も彼女の後を追いかけるのだった。

僕らがルカの所に戻った頃には、彼女はもう元気になっていた。というか、また不機嫌になっていた。そんな彼女をなだめつつ今度は三人一緒に並んで歩いて行く。
「なぁ、ミク。もういい加減どこに連れて行ってくれるのか教えてくれてもいいんじゃないか?」
休憩を抜きに考えても、もう二十分近くは歩いている。こんなに歩いてもまだ着かないとは思わなかった……。
「まぁまぁ、もうすぐ着くから」
二人揃ってため息を吐く。もちろん、その中にミクは含まれていない。彼女はただニコニコと前を歩いているだけだ。
町並みも変わらず、ただ永遠と道路とその脇に立ち並ぶ建物ばかり。ループしているような感覚にさえ陥ってしまいそうだ。
しかし、しばらく歩いて行くとその風景も少しずつ変わり始めた。
永遠に続くだろうと思われていた建物達は少しずつ姿を消し始め、その代わりに段々と緑が目につくようになってきた。
最初は小さな雑草。それが少しずつ草原になり、やがて木が生え始めた。一連の成長を見ているような、不思議な気分。それは、時間が止まっているこの世界だからこそ出来る事。
その並木道の先に彼女の目的地はあった。
「ここだよ!」
「うわ……」
「……」
一面が茶色と白と緑の世界。
……もっと明確に言おう。一面が――


ネギ畑だった。


「な、なんだよこれ!?」
「何ってもちろんネギ――」
「また、こんな無駄な物を……」
「無駄って何よ!いい?ネギって言うのはね――」
ルカに対してネギのついての講釈を垂れ始めるミク。そんな二人のやり取りは置いておいて、僕は一人そのネギ畑を探索し始める。
と言っても、見る物はネギしかない。右を向いてもネギ。左を向いてもネギ。真正面にも、もちろんネギ。
「ネギ以外にないのか、ここは……」
山のように積まれたネギを抜けて歩いて行く。このネギは一体どこで消化されるのだろうか……。
というか、人間がネギ好きと言うよりもミク本人がネギ好きなだけなんじゃ……。
「と、あれは……?」
そのネギ山の奥に小さくネギじゃない何かが見える。あれは……小屋?
外から見た感じでは何かの作業小屋に見えなくもない。
近づいてみると、それはやっぱり小屋だった。木製の簡素な小屋。外には畑仕事用の道具がいくつか転がっている。これで、作っていたのか?
小屋の中にも何かあるのだろうか。その取っ手を開こうとして――
「こらー!」
唐突に後ろから怒鳴り声が響いた。
後ろを振り返るとミクが大きく呼吸しながら立っていた。なんだか慌てた様子に見えなくもない。
「何かあったの?」
「何かあったのじゃないよ!急に居なくなるんだから!」
心配して僕の事を探しに来てくれたらしい。そんな遠くに行ったつもりはないんだけど。
「ここら辺で迷われると探すの大変なんだから、あんまり離れて行動しないでね?」
「大変って、そこまで迷うような道じゃないと思うんだけど」
「それじゃ、キミは今どこから来たかわかるかな?」
「あっちの方だろ?」
と、さっき僕が来た所を指差す。しかし、そこには目印の為に覚えていたはずのネギ山が消えていた。
「あ、あれ?」
「キミが来たのはこっちだよ」
彼女が逆側を指差す。振り向くとそこには確かにさっきのネギ山が。おかしい、僕は確かにあっちから来たはず……。
「ここは、まだ出来たばかりだから方位が安定してないんだよ」
「方位?」
「東西南北の事。とりあえず、視覚的な部分だけを一気に作っちゃったから、そういうところはまだ手を付け始めたばかりなんだ」
「……それじゃ、もし見つからなければ」
「遭難してたね。確実に」
何故、そういうことを先に言ってくれないのか。前もって注意してくれれば、僕だって動かなかったのに……。
「それじゃ、早く戻ろう?……どしたの、変な顔して」
無言の訴えはミクには届かず、そのままルカのとこまで戻ろうとする。
「あ、ちょっと待って。この小屋は……」
「それはキミには関係ないよ」
冷めた声。さっきまでの明るい声とは違う彼女らしくない声が聞こえた。それは本当の拒絶。自分が知る事はないと、知ってはならないと言う彼女の心の壁。
たった一言で、ここには彼女の大事な何かが眠っているんだと気付いた。もしかしたら、ここを見られたくなかったから彼女は自分を追いかけて来たんじゃないだろうか。
なら、これ以上詮索する事はない。
僕だって、自分の記憶を覗かれるのはまっぴらゴメンだ。
「そっか」
それだけ言って僕は彼女の横に並ぶ。
「それじゃ、戻ろうか」
「……ありがと」
そのお礼は、彼女にしては珍しく、とても小さな声だった・


「ただいまー!」
「あら、案外早く見つかったのね」
ネギ畑の入り口でルカは待っていた。思っていた程、待たされなかっただろう、彼女は少し御機嫌そうだった。
「ルカもこのことは知ってたの?」
「迷いやすいってことなら知ってたわ」
「やっぱり……だったら教えてくれればいいのに」
「こういう事は作った本人が言うべきだと思わない?」
「まぁ……確かに」
その本人はネギ畑を見て幸せそうな笑みを浮かべている。文句を言おうにもあんな顔をしていたら言うに言えない。仕方ない。これは僕だけの心の中にしまっておくか。
「さ、ミク。そろそろ帰るわよ」
「えー、もう?」
そう言うミクの顔は不満で一杯だった。ネギを見つめているだけでも彼女にとっては幸せらしい。一体何が楽しいのか。不思議だ。
「早く帰らないと夜になってしまうわ」
「へ?夜?」
おかしい。僕らは午前の内からここに出ている。休憩を挟んだとはいえ今から帰ってもまだ昼くらいじゃないだろうか。
「うー……そうだね。それじゃ仕方ないか」
だと言うのにミクも何の疑問も持たずにその場を立ち去ろうとする。
「ま、待った。今から帰っても着くのは――」
「それも、さっきと同じ理由だよ」
全てを言い終わる前にミクが答える。
「さっきも言ったでしょ?ここは視覚だけを先に作って後はバラバラなんだって。だから、ここは時間の設定もちょっと狂ってるんだ。ここでは、太陽が昇っているように見えても、ここから出れば多分もう夕暮れに近いんじゃないかな」
そんなに、あやふやな世界だったのか、ここは。
「と言う訳で、名残惜しいけどそろそろ帰ろうか。見せたい物も見せれたし満足満足」
「ただネギを見ただけだけどね」
「それがいいんじゃないの!」
二人で言い合い(ほとんどミクの一方通行だけど)をしながらネギ畑を去っていく。
「……」
振り向けばさっきのネギ畑。その他には何もない。だが、ここにはミクの大事な物が眠っている。一体、それが何なのか。僕には分からない。いつかは、それも知る事が出来るんだろうか。彼女の大好きな物に囲まれた大事な何を。
「おーい、おいてくよ―!」
「ごめんごめん!今行くよ」
もしかしたら、また来るかも知れないな。そんなことを思いながら、僕もその場を後にした。


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