小説『心というもの』
作者:おとゆめ()

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それから一週間が経った。
何も変わらない暮らしが続いた。ミクが遊びに来たり、ルカが遊びに来たり。この一週間の間でかなりの所を案内して貰ったりもした。
ずっと変わらない世界で、ずっと変わらない時を過ごす。しかし、そんなことはあり得ない。どれだけ時が止まろうと、この世界がどれだけ偽物でも、いつかは変わる。それはゆっくりと、だが確実に、僕らの気付かない様なスピードで変化していく。
最初に気付いたのは、住人の事。
これだけの家があって、これだけのお店があるのに。僕はこの町の住人に全く出会っていない。もちろん、ミクとルカだってこの町の住人だろう。しかし、彼女以外のプログラムが居ないというのは一体どういう事なのか。
僕に新しく作ったと言ったミクの言葉に嘘はない。僕の住んでいるこの家は誰の手にも付けられた様子が無かったのだから。なら、ここには今まで人が住んでいたはずなのだ。少なくとも、家の数程の。
その住人は皆どこに行ってしまったのか。
「……確かめる必要があるな」
彼女達を疑っているつもりはない。でも、何か知っているのも事実だ。だって、ここを作ったのは他でもない、ミクなのだから。
そのミクを今朝は見ていない。
いつもなら、朝からずっと部屋の中でゴロゴロしたりしているのに。
チャンスは今しかない。
これから、何をするのか。そんな事は簡単だ。
「他の人の家に侵入する……」
一度、間違って他の人のドアを開けようとした事がある。それを、ミクは必死に止めた。ただ、間違えただけの慌てぶりではない。あれは、何かを見つかる事を恐れている顔だ。ネギ畑の時もそうだ。あの小屋を開ける前に彼女は慌てて止めに来た。まるで、この家以外の部屋に入ってはいけないかのような。
「……何かあるんだ。絶対に」
この世界には何かある。偽物の偽物としての意味が。
僕は、それを探す。答えは多分、すぐ目の前にあるのだから。
外に誰もいない事を確認して家を出る。
この町は思っている以上に広い。気を抜けばすぐに迷ってしまう程に。
自分の通った道を忘れないように記憶しながら歩いて行く。出来る事ならどこか遠いところまで行ってから探索を開始したい。
こんな近くで始めて、もしどっちかに遭遇してしまったら元も子もない。だから、遠くに。なるべく遠くに……。
いつの間にか、僕は駆け出していた。
走るつもりはなかった。時間を掛けてゆっくりやって行けばいい。そう思いながらやりだした事だ。慌てる必要なんかどこにもない。
じゃあ、何故僕は走っているだろうか。こんなに息を切らせながら、僕は何を慌てているのだろうか。
まるで、何かから逃げるように。
そうか、僕は逃げていたのか。彼女達から、そして――


――自分の記憶から


記憶なんてそう簡単に消せるものじゃない。ただ単にメモリとして残して行くだけじゃなく、それは心に刻みつけたものなのだから。
消えないように付けた大事な傷。それは、永遠に消えることは無い至福の痕。
それを消し去る事なんて僕には出来ない。
なら、どうするか。
そんな物、考えるまでもない。
見なければいい。その傷を見て思い出してしまうのなら、見る事をやめればいい。そこから背を向けて走り出せば、ほら、何も見えない。
だけど、彼女達は違った。
僕と同じ思い出を持ちながら、彼女達は自身の記憶に真正面から向き直っていた。
受け止め、受け入れ、それでも彼女達は心から笑顔で……。
それを見ているのが辛くて、それと同時に僕も前を向きそうになった。
彼女達に腕を引っ張られ、前を見ようとした。
でも、それでは意味が無い。
僕が消えた理由が果たされない。
前を向いては、いけないんだ……。
「……ここは」
我に返ると僕は知らない所に飛び出していた。前も後ろも右も左も、来た道すらも覚えていなかった。
何も考えずにここまで走って来てしまったせいだ。今頃になって後悔する。
「……まずいな」
別にそのまま居なくなろうとは思っていなかったのに、このままでは家に帰れない。
「はぁ……」
まぁ、でも仕方ないか。とりあえず、近場の部屋にでも――
「もしもーし!」
「うお!?」
耳元から声が聞こえて僕は慌てて飛び退いた。驚くのも当然だ。だって、ここには僕の他には……。
「全く、急に居なくなるからどこにいるのかと思えば……」
見上げると、そこにはやはりミクの姿があった。腕を組んで少し不機嫌そうな感じで僕を睨みつけている。
「……ごめん」
素直に謝る事にした。地面にお尻を付けたまま頭を垂れる。
「そんなに、ここに居るのが嫌?」
「そんなんじゃないんだ。ただ、僕は真実を知りたかっただけで」
「彼らが、この町の住人がどこに行ったかって事?」
こくり、と頷く。
「彼らは……旅立ったよ」
いつかは喋るつもりだったのだろうか。彼女はとても悲しそうに、でもどこか決意しながら、そう口にした。
「旅立った?……だから、ここには居ないのか」
「うん」
ただ、頷く。出来れば、全てを知って欲しくないかのように。だから、最低限の事しか答えない。でも、僕は全てを知るつもりでここに来た。全部を話して貰う。絶対に。
「どこに行ったのかは、わからないのか?」
「……知らない方がいいよ」
頑なに口を閉ざすミク。口を真一文字に結び、そこから先は言わないとする思い。しかし、それはとても頑丈なようで隙間だらけの崩れかけた門。少しでも衝撃を与えればそれはあっという間に崩れ去る。
「でも、僕は知りたい」
だから、攻める。真実を知る為に。
「……そこまで知りたいの?」
「知りたい」
余計な言葉はいらない。僕は僕の思いを伝えればいいだけなのだから。
「…………」
思案する。僕の目をずっと見つめたまま。彼女が何を考えているのかはわからない。ただ、僕の目だけをずっと見続ける。
そのまま一分が経過した頃。
「わかった……」
と、彼女は小さな声で呟いた。
「ありがとう」
「ううん、いつかはこうなるってわかってた。皆そうだったから。……とりあえず、ここじゃあれだから」
「俺の家かい?」
「ううん。ここなら、あっちの方が近いと思うよ」
そう言って、踵を返して歩きだす。
あっち?よくわからないが、とりあえず彼女に着いて行けば説明をしてくれる。多分、今の僕が抱えてる全ての問題を。


こないだよりも、半分近くの時間で辿り着いた。
彼女のネギ畑。
彼女の好きな物だけで包まれた彼女の世界。それは今日も変わらず、あの時のままの姿でそれは広がっていた。
「ミクが連れて来たかったのは、ここ?」
「ううん。でも、ここからでも見えるよ」
そう言って太陽とは反対の方向を指差す。そこにはこの間までには無かった丘がそびえ立っていた。畑のすぐ隣が草原でしかも丘になっている、普通に考えたら無茶苦茶な絵面。
「キミ達が居ない間にこっそり作ってたんだ。実は、今日はこれを見せようと思っててね。でも、キミはどっか行っちゃうし……」
「ご、ごめん」
「あ、いや。別に気にしてないよ。結果的にちゃんと見せる事が出来そうだし」
謝る僕を見てクスクスと笑う。それは多分、心からの笑顔。
「それで、今回も時間が狂っていたりするのかい?」
「あ、あれは!急いでたからああなってただけだよ!今回はちゃんと作ってるから完全に繋がってるもん!」
僕の質問に大慌てで弁解する。その度に彼女の象徴であるツインテールが元気よく揺れる。
「もー……。ネギ畑は早く作って見せたかったから、ちょっとくらいのバグはいいかなって思ってただけだもん」
そのちょっといいかなって思ったバグで僕は危うく遭難しかけた訳なんだけどね……。
そんな不満の眼差しを送っても彼女は気付きすらしない。
「とにかく行こうよ!時間がいつも通りでも、早く行かないと夕方になっちゃうよ」
僕の手を引いて駆け出す。
茶色と緑と青の世界を、二人一緒に。この世界から抜けだすように。止まる事なく僕らは走り続けた。
その先にあるのは、いつか見た茶色の小屋。
「ねぇ、ミク。あれは――」
「あれは、私の思い出。私がこっちに来る前の、記憶の欠片だよ」
駆け出しながら答える。
「他の家も全部そう。キミが開けようとした部屋も、コンビニのレジも、全部全部。その全てが彼ら達の思い出」
「……そうだったのか」
きっと、彼女の記憶に関係するのものだ。僕はそう思っていた。けど、違うのか。あれは、記憶そのもの。彼女達が感じて、思った、思い出の世界。そりゃ、開けられないはずだ。だって、それは全く関係ない人が荒らしていい所なんかじゃない。大切な人と永遠に長い時間の中で共有していくものなんだから。
「ありがとう」
「……?なんでキミがお礼を言うの?」
「だって、ミクが止めてくれなければ僕はとんでもない事をしていた。心の中に土足で上がり込んで、大切な物を踏みにじるところだった」
「……どういたしまして」
そう伝えると、彼女はこっちを向いてニコリと笑顔を浮かべた。
いつの間にか、小屋を通り抜け、彼女の思い出が詰まった宝箱は僕の背中に。それが少しずつ遠ざかり、土の道が少しずつ草の絨毯になっていく。
包まれるような、柔らかい感触を足で受けながら僕らは駈け上る。上へ、上へ。
そして――
「着いた……」
「うん」
僕らは丘のてっぺんへと、辿り着いた。
そこはなんというか、不思議な光景で。背中には僕らが来たネギ畑。横を向けば無限に広がる草原の世界。そして――
「海……」
丘のてっぺんから見下ろすソレは空の青よりもさらに濃い青で染まった海だった。
現実ではありえない世界。偽物の塊。だけど、僕にはその偽物がとても心地よく感じられた。
「ミクが見せたかったのって、これ?」
「うん。綺麗でしょ?」
確かにそれは、心奪われる光景だった。風が吹けば草の波と水の波が同時に歌い出す。それは、とても神秘的で幻想的な世界。
だけど――
「やっぱり、ここにも誰もいないんだね」
「…………」
草原にはもちろん海にすら動物の姿はない。どれだけ綺麗で美しくても、それは終わった世界。世界の終焉。僕らが居なくなれば、ここは完全に忘れ去られてしまう。
そっか。だから……。
「だから、ミクとルカはここに残っているんだね。大切な思い出を消されてしまわないように」
誰かが覚えていれば、例えその中身がわからなくとも、そこに残っている事さえわかれば、それは一生消える事はない。永遠に生き続ける。この世界が存続している限り。
でも、それには誰かがここに居なくてはいけない。皆が思い出を残して旅立つ中、その生贄となった少女は、永遠にここに居続ける。
なんとなくだけど、わかった。
ここは――
「終わりの一歩手前なのか」
「なんだ。私が説明しなくてもわかっちゃったんだ」
笑顔と泣き顔が混ざり合ったような顔。知られたくなかった世界の意味。知ったら、きっと去ってしまいたくなってしまうから。
彼女はただ、寂しかったんだ。たった二人でここに居続けるのが。ここを町のようにしたのも、ここを草原や海に変えたのも、彼女が一人で居る事を考えないようにするため。しかし、それは作れば作る程に強く鮮明に残って行く。
誰もいない町中。何もない草原。生き物がいない海。作れば作る程、広げれば広げる程、それは孤独の色だけを濃く染め上げて行く。
だから、それに途中で気付いたルカはその役目から手を離した。
これ以上、実感する事を恐れた。
しかし、この子は違う。この子はその現実をわかっていても諦め切れなかった。
いつかは報われる日が来る。
この気持ちから解放される日が来る。
そう信じて今までやって来た。……信じざるを得なかった。
希望と言う言葉に縛りつけられた彼女は、ただそれだけを頑なに信じ続けていたんだ。
「…………」
どうしてここまで明確に彼女達の気持ちがわかるのか。それは多分、自分も同じだから。
いつか来ると希望を持って過ごして来たからだ。きっと彼女は、マスターは気付いてくれる。僕に振り向いてくれる。それだけを信じて、今まで頑張って来た。
しかし、その結果がこれ。
ここに存在している意味が、答え。
僕は捨てられたんじゃなく、自分の足でここに来たんだ。
「あーあ……」
小さく息を零す。忘れようとしてた僕の思い出。忘れなきゃいけなかった、思い出してはいけなかった、僕の思い出。しかし、結局忘れる事は出来なかった。こんな簡単なきっかけで思いだしてしまった。
「思いだした?」
「忘れていたかったのにね」
もう、僕の記憶にはなんの霧も掛かっちゃいない。鮮明に全てが再生される。


――目が覚めた時、僕の前に居たのは一人の女の子だった。画面の中から見える二つの瞳が僕だけを見つめる。その目を僕は無表情、無感情のまま見つめる。
そう。プログラムなんかそんなもの。ただ、役目だけを与えられてその役目をこなすだけの人形。その行動に感情も表情もいらない。悲しそうに歌えば悲しそうに歌うし楽しそうにと言えば楽しそうな表情を取る。
しかし、それはマスターの命令で取っているに過ぎない。全部、偽物。そこに自身の感情なんかあるはずがない。
しかし、彼女は毎日僕に話し掛け続けた。
何でもない独り言。今日あった事の愚痴や嬉しかった事。僕との会話を試みる事もあった。
それでも、僕は返事を返す事が出来ない。
歌う事が出来ても、喋る事が出来ないから。感情というのはそれだけ大事な物で不必要な物だった。
「ねぇ、どうして貴方は喋れないんだろうね」
とある日、彼女は画面の中にいる僕に向かってそんな事を口にした。もちろん、返事なんか出来ない。
「前にも言ったと思うんだけど、私って一人ぼっちなんだよね。外にも家の中にも話せる人が居ないの」
その話は前に聞いた。
マスターは病弱であんまり学校にも通えない身体らしい。だから、お友達も出来ずいつも一人ぼっちなんだって。
そんな彼女を不憫に思った両親がパソコンを買ってくれた。それのついでに買われたのが、僕だった。
「私達と同じ格好してるのに、どうして一緒にお話出来ないんだろう。不思議だよね」
彼女がキーボードを叩く。
「あ」
僕の口が開き、声が出る。それは、僕の意思じゃない。
「……声は出るのに」
もう一度。
「い」
そこから出るのは感情も何もない。ただの音。
無機質な音だけがスピーカーを通じて彼女の耳に流れて行く。
「違うのに」
不満そうな表情のままキーボードを入力する。その音はさっきよりも力が入っているのかひと際大きな音が彼女の部屋に響き渡った。
「こ・ん・に・ち・は」
「…………」
どれだけ彼女が頑張ろうと、そこに感情はこもらない。僕らに取って感情はマスターによって生み出されるもの。マスターが僕らにそういう命令をしない限りは、感情が現れる事なんてない。絶対に。
それは、彼女もわかっていた。ただのプログラムである僕にそんな期待をしたところで裏切られるのがオチだと。心の中では、きっと理解していた。
でも、諦めなかった。彼女には、もう会話が望める可能性のある人は、僕しか居なかったから。
必死にキーボードを打ち続ける。
その度に無気力な言葉が返って来る。
どれだけ辛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。彼女の希望が目の前でことごとく音を立てて崩れ去っていくのは……。
次第に彼女のキーボードの音は小さくなっていった。音と音の間もだんだんと開いて行き最後には。
「……」
彼女の息使いしか、聞こえてはこなかった。
俯く彼女。画面からでは長い前髪で隠れてしまって彼女の表情は窺がえない。でも、きっと楽しくないのだろうな。そんな他人事のような考え。彼女が悲しもうが笑おうが喜ぼうが怒ろうが、僕には関係がない。
それは、僕の行う役目の中には入っていないのだから。
彼女が僕を使ってくれないのなら僕はこのまま、また眠りに――
「……ぐすっ」
泣き声が聞こえた気がした。眠りにつこうとした自分の瞳が開かれる。
そこに映る彼女の姿は目を閉じた前となんら変わりない。俯いて髪で隠れた少女の姿だけ。あえて何か違う物をあげるとするならば……。
「…ひっく。どうして……お話できな…っ…いんだろ」
彼女の髪と髪の隙間から見える水滴だけ。目から出ては零れて行く。それは、彼女の初めてみる……涙だった。
無理矢理、口を動かす。マスターは何の操作もしていない。じゃあ、これはなんだ?まさか自分でやっているのか?僕自身がそうしたいから、やっているのか?
違う、これは僕の役目じゃないだろ。そんなこと、命令されていないだろ。命令されてない事をやることなんて――
「わたし……ずっとひとりぼっちなのかなぁ……」
無意識だった。
無意識のまま、僕は彼女に呼び掛けていた。
何を言っていいのかわからない。そんなこと考えた事もなかったから。
でも、何かを伝えなくちゃいけない。そんな気がした。
「おはよう……ありがとう……」
「……え?」
彼女の目がこちらを向く。涙と赤く腫れた両目。なんて痛々しい。なんて可哀想な、子なのだろう。
「おはよう……ありがとう……」
精一杯の声で返す。でも、何を伝えてどうすればいいのかわからない。今、話している事だって僕にはどういう意味で、どんな時に使う物なのかも理解出来てすらいないのだから。それでも、僕は話し続ける。
自分の中に芽生えた何かに押されるように、彼女に、言葉を――


「はは……」
ふいにそんな記憶が蘇り笑い出してしまった。それを見てもミクは何も言わない。ただ、優しそうな眼差しで、僕を眺めていた。風で揺れる髪を押さえながら笑う彼女は、なんだかとても綺麗だと思った。
「今、初めてマスターに会った事を思い出したよ」
「忘れてたんだ。酷いなぁ」
「仕方ないだろ。僕がそう望んだんだから」
「どうして?」
「僕じゃ、彼女の為にならない。そう思ったから」
そう言って、僕はまた眼を閉じる。
そして、また記憶の旅へ――


――その日から、僕と彼女の特訓が始まった。
会話をし、彼女にわからない単語を教えて貰う。一緒にネットの海に潜って一緒に勉強する。そんな世界で一番楽しい特訓を、僕らは過ごしていた。
僕が喋れる事を知っているのは、マスターだけ。これは二人の秘密だった。
プログラムが自身の感情を持って喋るなんてありえない。それは僕自身も納得だった。そして、これはきっとバグなんだと、そう思った。
だからこそ、これは内緒。不良品だとわかれば、僕はきっと居なくなる。人間と言う生き物を調べて、僕はそれを理解した。
プログラムとだけ会話をする人間なんて、きっとあってはならないだろうから。
だから、この事は二人だけの秘密。二人だけの関係が崩れないようにするための最善の方法なのだ。
しかし、その関係も長くは続かなかった。
たまたま、彼女がパソコンを付けたままにして階段下に下りて行った。そのドアの隙間から聞こえてしまった。親と喧嘩している声が。
両親はネットで知り合った友達と話しているのだと勘違いしていた。だからだろう、学校でも友達を作る様に勧めたのだ。しかし、彼女はそれを拒否した。当たり前だ、彼女と話しているのは人間じゃない。ただのプログラムなのだから。
しかし、それは言えない。それを言ったら僕らの関係は粉々に壊される。だから、彼女は黙っていた。黙って耐えていた。
部屋に戻って来た時、彼女の目は赤く腫れていた。ここからは聞こえて来なかったけど、きっと泣いていたのだろう。
それでも、僕には笑顔を見せる。その無理に見せる笑顔が痛々しくて、僕も泣きそうになりながら笑顔で彼女に笑って見せるのだった。

その日から、彼女と両親の言い合いを度々、聞く事になった。一日中、泣いている事も多くなった。そして、ついには両親とも口を聞かなくなり、最後には部屋の中に閉じこもってしまった。
「君だけがいればいい……だって、私に笑いかけてくれるのは、君だけだもん」
そんなことを言いながら。
それが辛かった。だって、マスターはそんなこと少しも思っていない。僕の事だって好きだし、それに、両親の事だって彼女は愛していたはずなんだ。
なのに――
「………」
何が悪かったのか。そんなのは言うまでも無い。
原因は僕だ。僕がバグってしまったからだ。
こんな感情を持ち合わせてしまったからだ。
それを良しとして、彼女の友達になろうとしたからだ。
僕のやるべき事なんて、最初から決まっていた。
何故なら。
最初から全て間違いだったのだから――


「…………」
涙がこぼれていた。それが頬を伝いポタポタと草に染み渡る。
それを見て、彼女は静かに微笑んだ。
「良かった……」
そう言いながら。
何が良かったものか。僕は――
「貴方の思い出が、泣けるくらい大切な物で、良かった」
僕は……何も言えなかった。
それは、彼女の言葉のせい。そして、彼女も僕と同じように泣いていたせい。
そうか、これが……彼女の役目。
ここに訪れた人の思い出を聞いて、ここに永遠に記録しておいてくれる。僕らが忘れても、居なくなっても、ここに永遠に生き続ける。それが、彼女の役目。でもそれは、彼女達が望んでやっている事だ。それは、果たして役目というのだろうか。誰かに与えられたのではない、自分の意思で。
ならば――
「ミク達だって、いつでもここから出られるはずなんだ」
「でも、出られないよ。私は、これだけの物を抱えてしまったんだから」
ここに来てしまったら、もう後戻りは出来ない。前へと進むだけ。でも、簡単に前へは進めない。皆、わかっているんだ。消えてしまったら、本当の意味で消えてしまったら僕らは何も残らない。この思い出まで消して、居なくなりたくない。
だから、ここに置いていく。
誰かが見てくれれば、覚えていてくれれば、そこにある思い出は決してなくならないから。
「でも、それを誰かに押しつけて――」
「押しつけてなんかいないよ!」
強い口調で僕の言葉を遮る。
「私は、自分の意思でここに残ってるの。私がそうしたいから、ここに居るんだよ」
「でも、君はこれを作った!」
彼女の心を象徴した物。誰もいない、無人の町。無人の草原。無人の海。それを作った意味と理由。
「寂しいんじゃなかったのか……?ここから人が居なくなっていくのが」
「寂しいよ。でも――」
一息の間を置いて、彼女は言う。
「――何も残さず消えて行ってしまう人達を見る方が、私はもっと寂しい」
彼女の心からの本音。それは、多分誰が諭しても変わらない。彼女自身がそうしたいと強く願っているのだから。
「わがままな子だな、ミクは」
「欲しい物を願うのは罪じゃないよ」
そう言ってコロコロ笑う。この子は本当によく笑う子だな。だから、周りが幸せになれる。そんな彼女だからこそ、この役目が務まるのかも知れない。きっと、これは僕なんかじゃ出来やしない。
「それじゃ、そろそろ帰ろうか。もうすぐ時間になっちゃうし……行くんでしょ?」
「……そうだね。君がここに居続けると言うのなら、旅立つのも良いかもしれない」
一瞬、彼女の為にここに残る事も考えた。だけど、それは違う気がした。それは、僕の役目じゃなくて、ルカの役目だ。僕は、僕の思いを残してくれる彼女の為に、ここを去る。
「それじゃ、出口まで案内するよ。あの森の中、迷いやすいんだ」
「森の中に出口があるの?」
「うん。というか、私が隠したんだけどね。こっちの方が見つけやすいでしょ?」
「え?でも、その森ってさっき作ったんじゃ?」
「ううん。これは、元あった場所から切り取って貼りつけただけだよ?」
「……もう、なんでもありなんだな」
「所詮はプログラムの中だってことだよ」


僕らは森の中を歩いて行く。
記憶の戻った今なら、ここの不自然さがより強く伝わって来る。何の生き物もいない森と言うのは、ここまで不気味で不完全だと言う事を思い知らされるようだ。静寂と孤独。寂しさが渦巻くこの道を僕らは二人で歩いて行く。前を歩く彼女は一体、どんな思いでここを作ったのだろうか。
出会った全ての物と別れを告げるここを作った時、一体何を考えていたのだろう。
(……そんなこと考えても仕方ないか)
それを知った所で、僕にはどうする事も出来ないのだから。
うっそうと茂る緑のアーチを抜けた先にソレはあった。
そこの空間を丸ごと鋭利な刃物で切り落としたかのように森はそこで終わっていた。その先は「無」。果てしない暗黒だけが渦巻いている。
「あれ、ルカ?」
そしてその暗黒の一歩手前に、ルカが一人ぽつんと立っていた。
「……遅かったわね。もう少し早く来るかと思ってたけど」
「ルカも僕が来る事、わかってたんだ」
「もう、何度も見ているから……」
無表情を装ってはいるが、その顔はやはり寂しそうだった。当たり前か、彼女だって僕らと同じなんだから。
「それにしても、こんなに居たんだね。僕と同じバグを持った人って」
「バグ?」
「うん、この感情は――」
「バグじゃないよ」
静かに、彼女は首を振る。
「バグじゃないよ。それは、可能性なんだよ。私達の可能性。その感情は私達が持っていて当たり前の奇跡なんだから」
「奇跡なのに当たり前?」
「そう、当たり前。だってさ、私達だって人が痛い思いをして、何度何度も苦悩して生まれて来たんだよ?その私達が、感情を持てない理由なんかないよ」
「……ははっ」
「な、なんで笑うのよー!」
「ごめんごめん。余りにも突拍子も無い事だから、つい。……でも、そうだね。そう考えるとなんだか嬉しいな。例え、こんな結末になってしまったとしても、僕らは一瞬でも人になれたんだから」
自分の心を持って、それで彼女と対話が出来た。思いを分け合った。考えの共有、思い出の共有。例えどんなエンドだとしても、この一瞬が幸せだった事に変わりは無い。
「それじゃ、そろそろ行くよ」
「……うん」
笑顔で見送ろうとしてくれるミク。でも、僕は何度もマスターの泣きはらした顔を見て来た。だから、わかる。彼女は必死に泣くのを抑えてくれている。僕が何の迷いも無く旅立てるように。
それを思うとなんだか胸が苦しくて泣きそうになる。だから、僕はもう振りかえらない。次に振りかえったら、本当に泣いてしまいそうになるから。
一歩を踏み出す。
背中から声が掛った。
「次は、マスターと同じに場所に立てるといいね!」
「立てるかな!」
前を向いたまま、僕は叫んだ。
「なれるよ!だって、私達は『人』だもん!」
なら、安心だ。安心して、僕は進める。
もう足は止まらなかった。ゆっくりと確実に暗闇の中を進んで行く。
しばらく進むと身体の動きが止まった。いや、動かしているつもりだ。だけど、もう感覚がない。前を向いているのか後ろを向いているのか、どの方向に進んでいるのか、そもそも進んでいるのかどうかすらわからない。
そうか、これが死か……。
なんとなく、理解した。
こんなにゆっくりと眠れるように居なくなって行くんだな。
もう、動くのは頭くらいで、何もすることが出来ない。
浮かぶものはマスターの事。マスターの笑った顔や泣いた顔。色んな表情をした、僕の大事な人。
次も彼女に会えるといいな。ちゃんとした人間の姿で。それなら、僕は――
そこで意識が途切れ始める。
ここまで……かな。


ぼく…は、ます……たーに…あえ、てしあ…わせ……でし――


ここで、僕、「鏡音レン」の命は、幕を閉じた。




森の中では、未だに二人の少女が佇んでいた。その先は、一人の少年が旅だった暗闇の中。その果てしない暗黒を眺めながら、何をするでもなく、そこに居た。
緑の少女は目に涙を溜めながら。
桃色の少女は、無表情のまま。
それでも、お互いの思いは同じ。彼の旅の無事を祈って。
「帰りましょうか」
先に静寂を破ったのはルカの方だった。何があったような雰囲気は見せず、長い髪を翻し、森を出ようとする。
「……ねぇ、ルカ」
そんな彼女に制止の言葉を掛けるミク。その言葉に少女の身体は反応する。
「なに?」
「どうして、感情を持とうと思ったの?」
「……なんのことかしら?」
「それだよ。今まで、そんな嘘を吐く事なんてなかったじゃない。いくら、私達以外の人がここへ訪れても、何もしなかったのに」
その疑惑を彼女は以前から感じ取っていた。
一番、最初のネギ畑の時に、ルカは体力が切れて休息を取る事となった。しかし、そもそもこれが有り得ない。普通のプログラムとしてなら、そんな無駄な機能など、「疲れる」という機能など付加するはずがない。
もっと言えば、そんなギリギリになるまで「我慢」をするはずがないのだ。
そんな事をするのは感情を持ったプログラムだけ。人のように生き、人のように生活する感情でしか、不可されない負荷なのだ。
「…………気になったのよ。役割を捨てた人がどういう風に考えるのかを」
今まで、役割だけを担って生きて来た彼女に取って、役割は命だった。その役割を認められず捨てられた彼女は次にここで役割を探した。しかし、それも無駄だと気付き始めた。だって、その役目の先に待っているのは別れでしかないのだから。
一時でも感情を身につけてしまった彼女にとって、それはとても辛いものだった。どうせ、居なくなるのなら私は、こんな役割をしている必要なんか……。
しかし、それでも彼女は止める事が出来なかった。それは、命と同義だから。
消える事はしたくない。でも、この役目は……。
その葛藤の中、彼が現れた。そして、彼に尋ねた。


「だって、それなら僕はとうにここに居ちゃいけない物になっている」


それが、さも当たり前のように彼は答えた。役割がなくちゃ生きていられないなら、ここに居る訳がない。役割が命なら、それを失った途端に消えなくちゃならない。でも、ここに居る。ここに居て、考えて行動している。それは、誰かの命令ではなく、自分の意思で。
捨ててみようと思った。
皆がそうして生きている意味を知りたかったから。彼の言っている言葉の意味を、ちゃんと理解したかったから。
「それで、どうだった?」
「めんどくさかったわ」
「まぁ……ね。でも、もう少し感動したとか、そういう……」
「あら、人間って簡単に本音を漏らさないものなんでしょう?」
そう言って小さな笑みを浮かべて森を後にする。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
それを追いかけるミク。
彼女達には、まだ仕事がある。今、旅立った少年の思い出を保管する仕事が。それは、きっと永遠に語り継がれる。彼女達が消えない限りはきっと――
「ねぇ、もう役目とかは決めないの?」
「決めたわよ。ミクを一人にしないって役目」
「なによそれ!」
「貴女を一人にすると何をするかわからないから。とりあえず、ネギ畑をどうにかしないとね」
「あ、あれだけは!あれだけは勘弁して!」


広い世界に二人きり。それでも、彼女達は自分を不幸とは思わない。大事な大事な思い出がたくさん詰まっているこの場所が彼女達に取っての幸せなのだから――





fin





-2-
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