身体が宙に持ち上がるような奇妙な虚脱感に襲われ、同時に、視界が灰色に染まる。泥水が清流に流れ込んだときのように、目の前に広がった薄い膜は不気味な文様を刻みながら蠢いていた。
球状の何かに囚われた――瞬時にそう悟り、ヴァルガは二の研者を睨みつける。怒声を浴びせようとした、そのとき。
「ああ……ああぁぁぁぁああああぁっ!!」
『ナナ!?』
苦悶の声を上げ始めたナナにヴァルガは動揺する。全身を細かく痙攣させ、必死に苦痛から逃れようと胸を抱える彼女に、ヴァルガは為す術もない。
く、苦しい……! これって、これってぇっ!
しっかりしろ、ナナッ! くそ、この妙な囲いのせいかっ!
『おい、貴様っ! 二の研者、どういうつも――が、ふっ!?』
呻く。まるでナナの苦痛が伝播したように、ヴァルガの意識は断続的に鋭い痛みを感じた。無数の手で滅茶苦茶に引っかき回されている、そんなおぞましい感覚だ。
時間にしてもほんのわずか――ヴァルガとナナの言葉にならない悲鳴が重なる。
唐突に、苦痛の時は終わりを告げた。
ヴァルガたちを覆っていた膜は消え去り、ぼやけていた視界が急速に像を結ぶ。荒い息づかいの中、側に寄り添った二の研者の姿を捉える。
「大丈夫かね」
『き、……ま。どういうつもりだっ』
「けほ、けほ……ヴァルガ、さん。待って……落ち着いてください……」
ナナの言葉がなければそのまま右腕でつかみかかっていた。眼前で寸止めされた拳を二の研者はこめかみに汗を滴らせながら見つめた。
「失礼」
二の研者がナナの手から例の細長い棒を回収し、それを観察し始める。ぜぇ……ぜぇ……という喘ぎを吐くヴァルガたちを、何やら意味深な目で見つめる。
「なるほど。とりあえず実験は成功……といったところか。ご苦労だったね、二人とも」
頃合いを見計らい、二の研者が細長い棒から視線を外す。
『実験、だと』
「そう。さきほどの装置はあるものを擬似的に再現する機構を備えている。七の息女君、君はその正体に……気付いているね?」
「はい。あの感じ、すぐにわかりました。……封印、ですね?」
二の研者がうなずく。
「事前説明なしに行ったのはすまないと思っているが、あまり時間もないことだったからね。それに、おかげで良い情報を採取することができたよ。ありがとう。これで私の希望にまた一歩近づいた」
『一人で悦に入るな。まだ聞きたいことは山ほどあるんだ』
ヴァルガが食ってかかると、二の研者はにやり、と笑った。
「聞きたい? 聞きたいんだね私の言葉を。いいだろうもちろん構わないともああそうだ君のような存在にこそ私の説を理解してもらうに相応しい!」
『うわ、やっぱりちょっと待』
「と、言いたいところだが、やめておくよ。また今度、じっくりと話してあげよう」
きょとん、とナナが目を丸くする。
「二の研者さん? どうしたんですか、いつもと様子が」
「はは。ま、私のようなものでも迷うことがあるのだよ。気にしないでくれたまえ。それより、今の実験結果からひとつだけ、君たちに忠告しておこう」
忠告? ヴァルガとナナの声が重なる。荷の研者は人差し指を立て、静かに語った。
「今の君たちの存在は、非常に危うい均衡の上に成立している。繋がっているようで、繋がっていない。ひとつのようでいて、ふたつである。先ほどの実験……ヴァルガ君と七の息女君とで苦痛の感じ方に若干のブレがあっただろう。つまりはそういうことだ。ひとたび均衡が崩れれば、どのような悪影響をもたらすかわからない。とりわけ魂に深い衝撃を与えるものに対しては要注意だ」
「えっと。それってつまり……?」
「いつ分離してもおかしくない。また逆に、いつ融合し消滅してもおかしくない。その危険性を君たちは十二分に認識しておくべきだ」
ヴァルガとナナは黙り込んだ。確かに――言われてみればもっともな話だ。もともと今の状況は二人が意図しないで起きた偶然の産物。原因もいまだ不明ならば、今後起きうる危険についてもまったく未知のままなのだ。
加えてもうすぐ、ヴァルガたちは鋳魂界を離れる。
鋳魂人にとっては猛毒という人間界の空気に、自分たちは耐えられるのか。
「……まあ、それだけ今の君たちは稀少で重要な存在ということだ。なに、心配することはない。私がついている」
「はい……って、え?」『は?』
再び声を揃える。何か信じられない言葉を聞いたような。
その疑念は、当の本人によってあっさり現実となった。
「何だね、聞こえなかったのかい? 私も人間界へついて行くと言ったのだ。だいたい考えてもみたまえ。私が君たちのような素晴らしい被験体をみすみす手放すと思うかい? 危うい均衡とはつまり、あらゆる可能性を内包した小世界とも言えるのだからね!」
あまりの論筋にぽかんとするヴァルガたち。二の研者は胸を張った。
「理想の実現のため、私は君たちとともに生きる。何、心配はいらない。私がついていれば君たちの意識状態も常に監視し、必要なときに必要な処置をすることができる。それに、君たちとて、まさか一生その状態でいるつもりはないだろう? 君たちが私の理想の実現に協力してくれるなら、私も君たちの身体のことについて全力で取り組むと約束しよう!」
「二の研者さんの理想?」
ナナがつぶやく。
二の研者がぐっと顔を近づけてきた。喜色に染まりっぱなしだった彼の顔に、初めて、真摯な光が差した。彼は言った。
「私は他の者のように諦めてはいない。必ず、この世界を救う。そう信じているのだよ」