小説『鎧ノひと【全77話 完結】』
作者:wanari()

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 視界が、がくん、と一度、大きく上下した。岩よりも硬い拳が、腹にめり込んでいた。崩れ落ちそうな膝を支え、踏ん張る――駄目だった。

 力が、入らない。

 気持ちが空回りする。

 左腕を闇雲に振り回した。当たらない。かちかちかち、という音が嫌に大きく、また小さく聞こえる。超至近距離で、何度も顎を跳ね上げられているのだと知った。泣けてきた。私はこんなにも弱かったのか。

 ヴァルガさんの、声がないと。こんなにも。

 いや。だからこそ、弱いからこそ、彼の声が聞こえないのか。

「ヴァルガさん、ヴァルガさん」

(はっはっはっはっはっはぁっ!)

「ヴァルガさん、う゛ぁるがさ……私、私ぃっ!」

 あなたが、いないと――



 ――礫(つぶて)を砕いたような音が、響いた。



 ナナの瞳が大きく見開かれる。それは次第に、歓喜の色へ。

 今まさに飛びかかろうとした漆黒の頭蓋に、さらに黒く艶やかな籠手がめり込んでいた。ナナの右手が、唯一、彼女の意思から独立したそれが、黒髑髏の眉間を正確に打ち抜いていた。ナナはそれが、明確な彼の意思だと思った。口元に力がこもる。

 行きましょう、ヴァルガさん! 二人でまた、あの人を倒しましょう。私たち二人がいればきっと、どんなことでも乗り越えられます。

 そう、どんなことでも――!

(何と、な)

「え……」

(ここまで健気だと、この私ですら感涙にむせたくなる。そこまでして、守りたいか。相棒よ)

 何を言っているのだ、このひとは――そう、ナナが思ったときである。

 何の前触れも前兆もなく、突然、右腕が力を失った。まるで人形のように、中身のない本物の甲冑に成り下がったかのように、だらり、とナナの体側に垂れる。



「………………………………………………え」



(もはや一刻の猶予もならんな。遊びはここまでだ、娘。相棒を苦しめた業、その身を持って償うが良い)

 黒髑髏が近づいてくる。咄嗟に身構えた彼女の防御姿勢を押しつぶすように、さらに身を乗り出してくる。



 ――その意味を悟ったときには、すでに口蓋が触れていた。

 ――ナナの、唇へと。



 文字通り、思考が吹っ飛んだ。どこまでも冷たく鋭く、なのに触れれば一瞬で蒸発してしまいそうな程激しい感情が、ナナの全身を硬直させる。猛烈な虚脱感が襲いかかってきた。全身が重くなる。同時に、何か物理的な圧が両肩にのしかかる。皮膚がひどく薄っぺらく感じる。穴だらけになった全身から、血のように魂が這い漏れてくる。



 あ……

 あ、あ……

 ああああああぁぁぁぁっ……



(言ったはずである。相棒は返してもらうと)

 膝を突いた。全身から力が抜ける。床が壁となり、視界の中で垂直にそそり立つ。

 ナナは、見た。

 四対の羽根から激しい勢いで吹き出す黒い靄に包まれながら、黒髑髏の頭部が肉に覆われていく様を。やがて人の形となり、遠い目をした『誰か』の顔貌(かお)になっていく様を。

 目が合った。

 笑った気が、した。

 それを認識した瞬間、ナナは生まれて初めて、折れよとばかり奥歯を噛みしめた。激しい感情に身を任せた。けれど、身体は動かない――

「天術隊、保てっ!」

 凛とした声に、『誰か』は顔を逸らした。しかしもう、黒い靄に包まれて表情を判別することができない。ごつん、とナナは床に頭部をぶつけた。その拍子に、何かがこぼれ落ちた。硬い金属の音がした。

「放てぇぇぇっ!」

 轟音と閃光とともに漆黒の冑が宙を舞う姿を、ナナは見た。




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