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我に返ったヴァルガはとにかく叫び続けた。
『放せ! 貴様、俺をどうするつもりだっ』
かちかちかち、という音とともに、にべもない答えが返ってくる。高速で流れ行く景色が、が今、恐ろしい速度で街を駆け抜けていることを伝える。
の顔面に一撃を入れたところは覚えている。だが、その後は意識が朦朧として記憶にも残っていない。気がつけば、身体の支配をに奪われ、こうして夜の街を駆けていた。
ミリッツは、ナナは、どうなったのか。
『く……!』
彼女らのことを思い出すと胸が痛む。
どうして、あんなことになってしまうのか。
どうして、自分はあのとき何もできなかったのか。
『貴様に何がわかるっ!』
『な、に』
『そ――』
ヴァルガは言葉に詰まった。
思い当たる節があったからだ。
あのとき。ナナがヴァルガの制止を振り切ったとき、確かにナナの強い意志を感じた。問答無用に押さえつけられ、抗うこともできぬまますべての感覚が遮断されたのだ。喋ることも、聞くことも、腕を動かすことさえできなくなった。曇天に遮られた陽光のように、ほんのわずかな切れ目、切れ目でしか外界を感じることができなくなった。
思い出せば思い出すほど、ヴァルガの胸に苦い痛みが甦ってくる。
ナナ……。
ヴァルガが相棒と認めた少女は、確かにヴァルガの気持ちを受け取ったはずだった。彼の切実な願いをナナが無視するなんて考えられない。
けれど、ナナが取った行動は完全にヴァルガの予想を裏切った。感じてしまったのだ。彼女の、はっきりとした拒絶の意思を。
痛みは、次第に哀しみに変わっていく。
ヴァルガがどれほどミリッツに逢いたがっていたか、ナナはよく知っているはずだ。
ヴァルガがどれほどミリッツの言葉に胸を痛めていたか、ナナはよく知っているはずだ。
ヴァルガがどれほど万感の想いを込めてその一言を言おうとしたか、ナナはよく知っているはずだ。
信じていたのに。
ナナという少女を、ヴァルガは信じていたのに。どうして。
『……お前……』
突然、が足を止めた。郊外に設けられた、骨組みばかりの鐘楼の上だ。建設途中で放棄されたのか、見張りの兵すらいない。
その屋根の上に、べしゃりと、不格好に這いつくばる。
「な、何のつもりだ!?」
「!」
言われて、ヴァルガは初めて自分の身体の状態に意識を向けた。
右手の指先を動かす。拳を握る。同様に左手の指先を動かし、拳を握り――
がばり、と上体を起こす。
身体のあちこちを探る。皮膚を直接触る感覚。鎧がない。ナナでもない。
「幻――」
名を叫びかけ、言葉が、自らの口から溢れていることを知る。
長く伸ばした後ろ髪が、風にゆっくりと引かれていく。風の重さを、冷たさを、感じる。
「こ……れは……」
背に、違和感。背骨が皮膚を突き破って外へ伸びているような、おぞましい感覚。
あの、黒髑髏の象徴とも言える漆黒の羽根が四対、大きく開いている。
「………………」
何だって、とヴァルガは顔を上げた。夜のオティタは、予言の時を目前に控え、不気味な熱気に包まれていた。
「貴様……やっぱりそんな……! させるか、絶対!」
「どういう、ことだ」
耳の奥でかちかちかち、という音が聞こえた。鳥肌が立った。
その台詞を皮切りに、ヴァルガの意識が遠のいていく。冷水に浸けられたような寒々しさに、ヴァルガは必死に抗った。しかし抵抗もむなしく、視界は滲んでいく――
蒼。空の蒼が見える。
途切れ途切れに流れる雲。
地面も見える。
頭を垂れた雑草。乾燥でひび割れた地表。うずたかく積み上げられた瓦礫。
――地面に横倒れになったまま、破壊され尽くした村を見ているのだと知る。
滲んでは像を結び、また滲んでは結ぶ視界。自分の身体が自分のものではないような非現実感の中で、ヴァルガはひとつの記憶を呼び起こしていた。
これは、あのときの。
魔獣に村を襲われて、みんな、いなくなってしまったときの。
『使えそうなのはこの子か?』
降ってきた声に、ヴァルガは硬直する。首を巡らそうとして失敗した。動けない。耳も遠くなっている。水の中で無理矢理発声させたように届くその声を、ただ黙って受け入れるしかない。
『さきほど仕込みを終えたところです』
『なるほど。まずは第一段階か』
複数、いる。姿は見えないが、すぐそばに立っている。
誰? いや待て。この声。この声は、どこかで。
突然、世界が大きく動く――仰向けに寝かされたのだとわかった。
逆光の中、人影を捉えた。ひと組の男女。男の方は女の陰に入って顔まではわからない。しかし女の方は――
『魔獣化は……しないね。上手く定着してくれたようだ。これは有望かもしれない』
『保護しますか? かなり変わり種のように見えますが』
『してどうする? どうせ終わるの。それまでは人生を謳歌させよう。私もこの子のことは忘れる』
細い手が眼前に伸びる。指の間から覗いた女の瞳が、ひどく輝いて見えた。それでいて、どこまでもどす黒かった。
『喜べ、少年。君は選ばれた。私と世界のために戦い、そして死ね。苦しみも、恨みも、すぐに感じられなくなるほど強い種を植えてあげたよ。しっかり育てることだ』
『アデル様、そろそろ』
『うん』
影が遠ざかっていく。
大声で叫びたかった。でも、できない。
意識もまた、遠ざかっていく。薄れていく。声どころか、もう考えることすら覚束ない。
全てが暗転するその瞬間――あの声が脳裏を貫いた。
聞こえるか 聞こえるか