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腕を振り上げる仕草が、ひどくゆったりと映る。
姿を見せた陽の光を遮ると、辺り一帯が刹那の影に包まれた。
「……まさ、か」
剣戟(けんげき)の音は止まり、足音は止まり、鳥や風の音すら止まっている。天を突き上げるほど高く高く振り上げられた異形の拳は、無音の圧力を振り払うように降下してきた。
ヴァルガは動けない。上げるべき声を喉の奥に何度もつっかえさせながら、傍らに佇むミリッツを抱き寄せる。
「……せろ」
大気が鳴った。地響きのような重低音を上げ、空間が悲鳴を上げる。次第に大きく、大きく、大きく――
「伏せろぉぉぉぉぉっ!!」
とてつもなく巨大な拳が、大地を荒削った。
逆巻きに吹き上がる風に煽られ、ヴァルガとミリッツの身体が浮き上がる。歯を食いしばりながら、背の翼で姿勢を維持――義妹を抱え込むように地面に伏せた。
首だけで振り返る。
目を剥いた。
いっそ美しいとさえ思える弧を描く異形の腕――その先に、紙くずのようにいくつもの陰が宙を舞っていた。多くの人間が、多くの魔獣が、無慈悲なその『攻撃』を受けて吹き飛ばされ、重力に身体を取られ、そして墜ちていく。その動きもまた、ひどくゆったりで、それゆえにこの上なく残酷に見えた。
ヴァルガにしがみつくミリッツの身体が激しく震えていた。それに気付き、我に返る。
ヴァルガは改めて、戦場に現れた異形に目をやった。
巨大、異形――それ以外に、そいつを形容する言葉をヴァルガは知らない。
人の形を取ってはいる。ただその姿形は、まるで子どもがいたずら書きをしたように単純で、凹凸がない。目鼻もない。嫌悪感を催す黒一色で塗りつぶされ、これまでヴァルガが知りうるどんな建物よりも高い頂きを持っているくせに、とても薄っぺらく、そのくせ失禁しそうなほどの威圧感を辺りにばらまく。
何かに似ている。何だ。何に似ているんだ。
「……影」
「ミリッツ……! 大丈夫か」
「ええ……。兄さんが守ってくれたから。それよりも、問題は今のこの状況だ」
青ざめた表情ではあるがいくぶん張りの戻ったミリッツの瞳を見て安堵しながら、ヴァルガはうなずく。
首を限界まで上に傾(かし)がなければ胸部を見ることすら覚束ない異形の姿。二人の喉が同時に鳴った。
「つまりは、これがアデルの……皇々神姫の見た予言の姿というわけか」
「よく覚えていない……兄さん。黒い光が押し寄せてきた後、一体何が起こったの?」
ヴァルガは口をつぐむ。自分とて全てを見ているわけではない。だが――朦朧とする意識の中でも見えた、アデルと魔王が邂逅する瞬間を思い出すと、結論はひとつしかないように思えた。
「人間を裏切ったんだ。皇々神姫は、初めから魔王と組んでいた。……はっ。勝利を手にする我々ってのは、そういう意味だったのかよ」
「……。では、やはり」
「うん。ここに何人生き残っているかわからないが、止まらないだろうな。全部殺し尽くすまでは。いや……ひょっとするとシュティセア全土の人間を狩り尽くす気なのかも知れない」
ヴァルガの声に呼応するかのように、再び拳を振り上げる異形の影――魔王=皇々神姫。
ミリッツの肩を抱く手に力が入り、そして放す。すかさずミリッツが呼び止めた。
「兄さん、まさか一人で!」
「止めるしかないだろ。それに、俺はもともと戦いを止めるつもりで戻ってきたんだからな」
虚勢を張りながら思う。奴の身体は封印の魂でできている。だから奴の消滅は封印の消滅と同義のはずだ。
全人類を欺き通す大馬鹿野郎が、この世界に他にいるとは到底思えない。だから、これで最後。
もう人間界と鋳魂界を争わせたりはしない。そんな奴は目の前にいる愚か者だけで十分だ。
震える脚を、意志の力で黙らせる。
震える唇を、無理矢理笑ってごまかす。
――いつから俺は、こうまで見栄っ張りになったんだろうな。
「あれを倒せば、きっと戦いは終わる」
終わらせる。必ず終わらせてやる。
『あんな』想いはもうたくさんだ。だから。
「俺は絶対に負けねえ」