小説『ダーウィンが来た』
作者:市楽()

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ダーウィンが歌っている。囁くように歌っていても、あいつの浮かれた歌はよく聞こえてくる。

だから、縁側から吹き込む風に乗って居間にいるおれまで届く。

あんまり気持ちよさそうに歌っているのでさっき頼んだ割箸の細工をちゃんとしているのか気になって、

ひょいと縁側を覗く。

 ダーウィンは相変わらず耳慣れない浮かれた歌を口ずさみ、ぎこちない手つきで割箸を削っていた。

手つきは危なっかしいのだが、なんだか楽しそうなので「ちょっと貸してみろ。おれが手本を見せてやる」

などと言いつつ寄って行きたくなる。

半歩踏み出したところで、ふいに後ろから誰かの視線がギクリと刺さる。

振り返ると誰あろう嫁さんが立っていた。いそいそとダーウィンの側に行こうとするおれに嫁さんは小首を

かしげて、「あなた何をしているの」と無言で問い質す。時に無言というものは言葉以上に伝える力がある。

嫁さんの気持ちが、言いたい言葉が心に直接刻み込まれたようにグサリと伝わってくる。

だから、おれはゆっくりと嫁さんに向き合うと「そうですね」と無言で頷いて頭を深々と下げた。

無闇に言葉で無言に対抗してはいけない。時にどんな名言も無言には敵わないのだから。

暑さを忘れるような沈黙が数瞬続き、「そう」とだけ呟くと嫁さんは台所に戻って行った。

重たい沈黙から解放されたおれは去って行く嫁さんを黙って見送った。無言を貫いているわけではない。

言いたいことや、言うべきことが言葉に出来ないだけだ。

動き出した時間が凝縮された数瞬分の暑さを一斉に溶かす。体中から汗が噴き出してくる。

しばらく汗が引くまで涼んでいたいのだが、そうもいかない。

さっさと居間に戻ろうと回れ右をすると庭に大きな甲羅が見えた。

縁側にダーウィンがいるのなら、庭にパゴスがいてもおかしくはない。

きっと見られただろうから「しょうがないなぁ」とでも言わんばかりに、笑うように目を細めたパゴスが

こちらを見ている気がした。しかし、それどころではないらしく庭先の日陰で「もう、だめだ」と言わん

ばかりに目を閉じ切ってうなだれていた。あの大きな甲羅もこの暑さには手も足も出ないらしい。

あとで、首だけでも出せるように水でもかけてやるかと思いながら、おれはすごすごと居間に逃げ帰る。

 居間では親父が盆飾りを並べてぶつぶつ言っていた。今日の我が家は盆の準備で色々と慌ただしい。

朝からおはぎ作りに提灯などの飾り付け、それらの作業の合間におれと親父の喧嘩を挟むので落ち着く暇が

ない。落ち着く暇がないので、ダーウィンは誰もいない茶の間を独り占めにしていた。

嬉しそうに広々とした茶の間を満喫しようと冷えた麦茶を飲んでいたダーウィンだったが、すぐに飽きて

しまった。一人でいても茶の間は楽しくないらしい。そのうち慌ただしく動くおれ達を何も言わず、

じ〜っと見つめだした。その視線がおれのシャツの裾をぎゅっと掴んで離さないから、つい

「あ〜、忙しい忙しい。誰か手伝ってくれないかな〜」とその辺に愚痴をこぼしてしまう。

「なにか手伝いましょうか?」と、おれの愚痴をすかさず拾ってダーウィンは嬉しそうにやって来た。

ここは猫とダーウィンどちらが役に立つのかを試すぐらいの気持ちで手を借りることにした。

そんなわけでダーウィンはキュウリの馬とナスビの牛の足をせっせと作っている。

 さて、ダーウィンが割箸の切れ端でキュウリとナスビに命を吹き込む前に飾り付けを終わらせてしまうとし

よう。ぶつぶつとうるさい親父は放って置いておれは飾り付けを始めた。昔は母さんの仕事だったので勝手が

分からずに苦労したが、5回もすれば要領を得るもので今は慣れたものである。慣れた手つきで盆らしく

なっていく仏壇に満足していると、「構図がなっていねぇな〜」と親父が写真家みたいに両手で枠を作り難癖

をつけ始めた。これだけは5回やっても慣れることはできない。

まぁ、過去5回の教訓を活かして気にしなければいい。

しかし、「それもう少し右に置いた方がいいぞ」と言われればおれは左にずらし、「それは左に向けろ」と

言わればおれは右に向ける。どうしても親父に苦労させられた息子の本能が反応してしまう。

そうやって息子のおれが牙を剥けば、親父が爪を砥ぎだすのは分かっているのだが、本能だから仕方ない。

案の定、「さっきからなんなんだよお前は」と親父はおれに爪を振り下ろす。

ならばおれは「親父こそさっきからぶつぶつうるせぇんだよ。くだらねぇことを言ってると終わんないだろ」

と牙で受けて立つ。

「くだらねぇ、とはなんだ。おれは母ちゃんやご先祖様を立派に迎えてぇだけだ。それも分からねぇで、適当

に親とご先祖様を迎えようなんてするから口も出したくなるんだ。この親不孝もんが!」と

親父はおれの無防備な腹を狙って爪を伸ばしてきた。

すんでのところで「親父は口だけじゃねぇか」と言って、おれは親父の牙を躱す。

母さんを持ち出して親父に親不孝呼ばわりされるのは我慢ならない。親父がその気なら、

「また夏祭りのことで母さんに怒られるのが怖いんだろ。夢枕でお説教を喰らうのが嫌なんだったら、

死んでまで迷惑をかけるような真似をするなよ!」とおれは親父の喉笛目掛けて飛びついた。

おれの牙は親父の喉笛に届き、親父はまるで血をふき出したように顔を真っ赤にした。

さて、とどめをどう刺してやろうかと思案していると、数瞬ほど黙り込んでいた親父が

「てめぇ〜、言っていいこと悪いことがあるだろうがぁ!」と叫んだ。

断末魔というには威勢がよすぎる。どうせこの後は「表に出やがれ、この親不孝もんがぁ!」に決まっている

のでとどめにおれが先に言ってやろうとしたが、「表に出やがれ、この親不孝で嫁不孝のロクデナシがぁ!」

と親父の爪が無防備なおれの背中を突き破る。腹から沸々と熱いものが流れ出す。言葉にするのなら、

「嫁さんは関係ねぇだろがぁ!」だったので気が付くとおれはそう叫んでいた。

「表に出やがれ、クソ親父!」とおれが続けると親父も「上等だよ、クソ息子が!」構える。

この余計に暑くなるやり取りも本日3度目なら、嫁さんも止めに来ない。代わりに

「喧嘩はいけませ〜〜〜ん!」と言いながらダーウィンが駆け寄って来た。

その手に握り締められた小刀が鈍く光り、おれと親父の間を『スパッ!』という音とともに切り裂いた。

ついでに、おれの服の袖も切り裂いた。このあいだ歌って喧嘩の仲裁するのは止めろと言ったのはこんな実力

行使をしろという意味ではない。さらにダーウィンはおれと親父に

「どーして、二人はすぐ喧嘩をするんですか〜〜!」と言って小刀を突きつける。

こうなっては喧嘩どころではない。ちらりと親父を見ると、親父もおれをちらりと見ていた。

「どうすんだよ」とおれが無言で聞くと、「どうすんだよ」と親父は答えた。

『う〜ん、どうしよう?』などと困っていると、ダーウィンが「ケガでもしたらどうするんですか!」と

おれ達に言った。「お前にだけは言われたくねぇよ!」というおれと親父の叫び声が家中に響き渡った。

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