小説『レポートブック』
作者:鏡アキラ()

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【牧野セリカに関するレポート 耽溺】



まずは内側。
鼓動がいやに大きいことに気づく。
破裂しそうなほど膨らんではぎゅっと縮むのをくりかえしながら、
肋骨と背骨のあいだをドムドムと音を立てて跳ねまわる。
膨張しきった毛細血管は肺をのどを神経を圧迫する。
苦しい、と思った瞬間、
自分を包んでいるのが真っ暗な水であることに気づく。外側だ。
酸素のたりない脳が見せる幻は海。光の届かない深海。
水圧で胸がしめつけられ、押し潰されそうになる。
不安きわまりない浮遊感のなかで底なき底へ否応なしに沈んでゆく。
圧迫感という文字で圧迫される脳、
閉塞感という文字に閉じこめられる視界。
自分の指すら見えない真空の暗闇で泣きだしそうになる、
いや、泣き叫んでいる。
溺れる。
溺れる。
死。
そう、いま、死のにおいがそばにいるのがわかる。
恐怖。
こわくてしんでしまう。しぬのはこわい。こわくてしにそうだ。
最後にたどりつくのは絶望。
泣いてももがいてもいま誰も助けてくれないことを。
死の淵で差しのべられる手が一本もない自分の卑小さを。
嘆いても嘆いても嘆ききれない。

わたしはいま
ひとりでしんでゆく――


――ゆっくりと呼吸することを心がけて、固くつむられた目をこじあける。
空を掻いていた手足を床に下ろし
床の硬さを確かめる。ここは私の家。
まだ生きていた。
そのことに安堵と落胆を半々感じながら
涙でびしょびしょの顔を拭くものを探す。


これが発作の一連の流れだ。この間およそ30分から1時間くらい。
私は不定期的にこの発作をくりかえし
何度も何度も孤独死している。


ゼヒューゼヒューと音を立て
声も出せない私を見て、みんな最初こそ慌てて心配したが、
たとえば心臓や肺の病気ではないと知ったいま
見慣れて心配しなくなったのは仕方ないことだ。
ましてや大学卒業を延期し休学までしている身では。


「ちょっと。今日は?学校行かないの?
 あ、やだ、今はお休みなんだったわね。
 でもさあセリカ、もし出かけるなら『pakira』の今月号買ってきてほしいんだけど。
 またジェシカが載るのよね?あれ来月だっけ?
 あんたが出かけないならママ今日行くとき買うしさ。
 ね、どうすんの?」


ママは返事や相づちがなくても平気で話を続けるほうだ。
質問形で話しかけておいて
なぜ返事がなくても平気なのか私はいまだに理解できない。
いや、本人がいいのならいいんだけど。
妹のジェシカもママに似て一人でぺらぺらまくしたてることが多いのを思い出す。

「……出かけない」

私もそんなに無口なほうというわけではないのだが、
やっと鼻をかんだところで起き上がれもしない状態では
一言絞り出して投げるのでせいいっぱいだ。


ママのマシンガントークは、でも、
パパの露骨な腫れ物扱いよりはまだいい。
私にパニック障害という病名がついたときからパパは
「そういう言い方はよせ」が口癖になり、
私の前でジェシカの話をしなくなった。
たしかにああいう妹をもつと
複雑な気分になることもあるけど、ちがうのだ。
私を病気に突き落としたのは妹なんかじゃない。


私が三年になった春、
サークルの新入生に性別不明の子がいると噂になった。
結城ヒカルと名乗ったその一年生は、
目があった瞬間に、私の何かを動かした。

とてもきれいな子だった。
大きな目、きりりとした眉、
薄すぎず厚すぎず柔らかそうな唇。
華奢な鼻すじにみずみずしい肌。
風が吹いたら透けそうなほどさわやかなのに
ときどきグラッとするほど色気がある。

……結城君はボーイッシュだが女の子だ。
私には高2から続いている長い彼氏がいる。
必死で唱えてきたその呪文を、
「なかなか不毛で素敵な恋してるわねえ。
 え?セリカがヒカルにしてるのが恋でしょ。
 彼氏?えー、そーゆーのって愛なんじゃない?
 夫婦愛。もはや半分家族愛みたいなやつ。ちがう?」
あっさりぶった斬ってくれたのはダキニ先輩だったと思う。

他人に見破られてから呪文は効果をなさなくなった。
『いい先輩』の仮面はズレやすくなり、
ときどき押し込めるのに苦労する。
雪の降り始めるころ私の恋は二人目にバレた。
関口ルネ。結城君と同じくサークルの一年生で、親しい後輩の男の子。

恋をしている者同士は、
視線ひとつで敵のことがわかってしまうものらしい。


やめて、
触らないで!
あの子は畏怖すべき聖なるもの。
むこうが親しげに無邪気に微笑みかけてきても、
私やあなたみたいなただの人は
あの子に気安く触れちゃいけないの。
触れたらきっとなにか恐ろしいことが起きる。狂う。
奪われる。すいこまれる。あの子の魔力で。
触れたらあの子もよごれてしまう!あの子をけがさないで!
たとえば彼氏と私がするような、
いまもどこかのラブホで行われてるような、
俗な男女のふれあいをあの子にしないで!
あの透明な透明な光を!
そんな濁った白で染めないで!
禁忌!
禁忌!
やめて!
お前なんか!
 ねばいいんだ!!


こみ上げる呪詛の言葉が漏れないよう
私は泣きながらも必死に口を押さえたのだけれど、
それでも恋敵同士というものは
まるでテレパシーのようにお互いの心が筒抜けにわかってしまうものらしい。

ルネは苦虫を噛み潰した顔でしばらく私を見下ろして、
何かを言おうとして、やっぱりやめて、
黙って立ち去った。


武士の情けかあるいは呆れて何も言いたくないだけか、
ルネはどうやら誰にも何も話さなかったようだった。
牧野セリカは四年生になる前後から
『原因不明の』体調不良に襲われて布団から起き上がれもしない日が続き、
休学、サークル脱退、留年。ということになった。

パパをはじめ多くの人は、
卒業研究と就職活動の行き詰まりストレスに加えて
首都圏で読者モデルとして活躍する妹への
コンプレックスが積もったせいと判断したらしい。

ごめんよジェシカ。あんたはぜんぜん悪くない。
頑張ってほしいと思ってるんだよ。


私は
独りよがりで子供じみた妄想にとらわれた、
罪なきルネを酷くなじった(伝わったのだから口にしたのと同じだ)、
彼氏を裏切った、
私を病気にした、
無関係な周囲にまで迷惑をかけた、
そこからまだ抜け出せていない、
そして
あれからずいぶんたつのに
夜の海にさしこむ月光のように結城君が微笑んで手をさしのべてくれる夢をまだ見る
未練たらしい自分が
嫌いで
大っ嫌いで
わざわざ殺してやる労力すらもったいないほど憎んでいるだけなの。

                      _■fin

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