小説『崩壊世界の黙示録』
作者:むぎこ(海辺のバクダンりんご)

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「とっとと走れよ愛理!」
「分かってる! けど、こんなの……!」
 背後を振り返っても追手は付いていなかったが、それはつまり未だ玉砕覚悟で、機関の足止めをしてくれている同士が居るという事だ。他の同士を逃がす為に。
 悔しかった。けれど、振り返れば彼らの決死を無駄に伏す事に成りかねない。今は悔恨も怒りも閉じ込めて、黙って玲に引かれる手のまま、駆け抜けるだけ。
 普段なら暖かさと自然の香りに満ちている風も、今は何所か冷たく鋭い。片や風に靡かれる入道雲が、集落の混沌と重なって見えた。

 たった今から夜明け団が取る避難経路は、第六区画ホドから第八区画マルクトへの道筋、普段王国と呼ばれるマルクトと繋げられている、一本の長い峠道。両隣は針葉樹林に囲まれていて、標高およそ一千メートル以上に位置する夜明け団集落から地上に栄える王国への徒歩避難に掛かる日数は、最低でも一週。例のマルクト襲撃騒ぎから一週以上の日数経過を見れば、今回エニス達がやってきた時期にも頷ける。
 裏を返せば、警戒しておくべきだったわけだ――たった今みたいに、こうして。
「……玲、止まって!」
 耳朶を打つ奇怪な音。きっと常人の聴覚では捉えられない様な小さな、だが異質な音。
 異常発達した聴覚だけに捉えられたのは、森の中の枯葉を踏み荒らす、二つの足音。どちらも加速度的に疾駆、距離を詰めてきている。
「どうした?」
 足を止めて振り返る彼の顔を見て、思わず逡巡する。先には多数の同士が道を行っているが、彼らの足も止めるべきか否か。
 だが幸いともいうべきか、二つの足音は真っ直ぐに此方へ向かっていた。ならば他の足を止めることもない、玲が居れば大抵の敵はおそるるに足りないのだから。
「九時の方向、二人。足の速さが常軌を逸してる、多分夜明け団の抜け人ね。……私達だけでどうにかしよう」
 愛理は懐から拳銃を取り出すと、神経を尖らせた。
「抜け人だぁ? エニスに金で釣られたか? いや、何でもいいか……イライラを解消させてくれるってんなら、どんな化けモンでもかまわねぇぜ」
 そう言って本当の化け物である彼は拳を鳴らす。先刻の鬱憤が溜まっているのか、どうにも落ち着かない様子だ。
 彼はともかく、愛理は唾液を含んだ舌で唇の渇きを取り、尖らせて口笛を吹き鳴らした。甲高い音が周囲に拡散し、様々な物体に跳ね返って残響を奏でる。
 聴覚に優れるというのは一見地味な特色だと思われがちだが、愛理はその異色を利用する術を複数案所持していた。例えば森の中だと効き目は薄いが、音が跳ね返ってくる時間等で物体の位置、即ち敵の位置を探ることが出来るのも利点の一つ。海なんかに生息する哺乳類が、この方法を用いて狩りをしているという。
 今二人の敵は森林の中を必死に駆けているので効果は薄かったが、期待通り発した口笛が僅かな間を置き、跳ね返って鼓膜を揺らす。距離にして二百、いや百五十か。
 伝わった情報を元に、長年の私生活で鍛えた頭脳をフル稼働させ、計算式を浮上させる。距離、速度、風の抵抗――。

「一人目と会敵するまで、後十一秒。二人目が一秒後に続いて来る。方角は九時で構わないと思う、臨戦態勢を」
 じゃり、という無言の靴音は、緊張の応えを示していた。精神を統一した途端、肌に張り付く空気が急に煩わしさを増して皮膚を刺す。

 残八秒。一人目が枯れ木を踏み折った。
 残六秒。二人目が水溜りを蹴とばした。
 四、
 三、
 二、
 一、敵影が目と鼻の先に迫る。

 ゼロ。
 唐突な会敵。襲ってきたナイフによる薙ぎをひらりと躱して、半歩後退。空気がきゅい、と悲鳴を上げて切り裂かれ、流れ出す風の奔流が前髪を擽った。
 隙を逃さず、鋭角に銃口を向け、躊躇いなく引き金を引く。鋭いブローバックだったが、当たった確信はない。
 続けて繰り出された刺突を片手で受け止め、利き腕で反対側から再び銃身を滑り込ませて射撃。
 揺れ動く影の向こうで、雨を吸った渇きかけの土が爆ぜた。
「長老は相変わらず早漏だなぁ、なんつってぇっ! あはは!」
 無邪気な笑い声が頭に来て、衝動的に目標を蹴とばす。
「老いぼれては無いわよ、それとその……そ、早漏は酷いよね、メンダークス!」
 同時に突き出された顎を見て、愛理は咄嗟に飛び退った。鼻頭一寸遠くで鋭く尖った牙が空しい音を立て、粘着質な舌が獲物を求めてうねりと光る。
 逃した獲物を気色悪い視線でねめつけて、“彼女”メンダークスは口角を吊り上げた。さぞ嬉しそうに、だ。

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