小説『崩壊世界の黙示録』
作者:むぎこ(海辺のバクダンりんご)

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 彼は、震えた瞳で空を見上げていた。視線を辿ろうとすると同時に、空を覆っていた光が希薄になっていく。
 瞬間、天地が真っ二つに裂けたかと思える程の轟音が空気を震撼させた。愛理は思わず耳を塞いだが、頭は軋むような痛みに襲われ、鼓膜は水を吸ったように震えている。
 恐る恐る瞼を開けると、空の雲が渦を巻いていた。
 そんな不快な空の一点で、愛理の視線は凍りつく。

「見てよ団長! 素晴らしい光景だ、絶景だ! 何て素晴らしいんだろう……あぁエニス、愛したげるよぉ」
 背後で恍惚を込めたメンダークスの声が聞こえ、ハッとする。目を擦り、何度もその異形が現実だという事を認識する。
 今きっと、世界中の人間が空を見上げている事だろう。ある者は恐怖に瞠目し、或いは驚愕の余り言葉を失う。何十年にも渡って守ってきた世界の秩序と均衡が、崩れ去っている。

――空に浮かぶのは、いっそ荘厳とさえ言える巨大な城。否、街。円卓上の異形は、中央から末端にかけてなだらかな丘陵を描き、外観は古代の書物に記されていた『神殿』造りにも似ているようだ。
 愛理は、その空中庭園が何なのかを知っていた。“世界の結晶放射”、即ち今やこの世の理と化している一部分を除去してしまう、人類の最終兵器――黙示録、(第十一区画ダアト)
「そんな……アンチコードは成功したのに……何で」
 確かに、アンチコードは唱えた。その証に先刻まで空には一筋の光が伸びていたのだ、見紛うはずはない。
 考えられるのは、誰かが制御装置を停止させたという事だった。しかしアンチコードを射出する制御装置は、夜明け団の英知の結晶だ。機関の人間には簡単に突破出来ると思えないが。
「愛理、あぶねぇっ!」
 不意に玲の慌てた声が聞こえて、愛理は彼に目を向けた。
 途端。
「っわぁ!?」
 衝撃、鈍痛。全身に湿った土を浴びて転倒した愛理が顔を上げると、
「糞野郎……!」
 目に映ったのは、震える玲の背中と、彼の腕から滴り落ちる深紅の液体。長くの間、彼が血を流す光景を見たことがなかったが故、事の重大さを理解するのにそう時間はかからない。
 大きく腕を振りかぶって、自らの腕に“噛み付いた”メンダークスを振り解く玲。どこに余力が残っていたのか、彼女は地面に激突する以前に受け身を取り、地の上を片膝で滑った。
「まさか……メンダークス!」
「あはは、相変わらずの硬さだね、僕の歯を二本ともへし折るなんてさぁ」
 メンダークスは歯を見せて笑うと、口から血と唾液に濡れた二本の歯を吐き出す。更に唇を濡らす玲の血を舐めとると、言葉を続けた。
「けど、化け物の力を手に入れたんだ、きっとエニスも喜んでくれるよ! さぁバグローム、行こう、新たなる世界へ!」
 咄嗟に背後を振り返ると、雑木林で寝ていた筈のバグロームが、独特の無表情を構えたままで立ち尽くしていた。彼の手には大きな肉切り包丁があったが、振るわれる気配は無い。
 それでも警戒を解かず、愛理が見守っている中を、バグロームは堂々と通り過ぎる。彼は最後に玲を一瞥してから、メンダークスと肩を並べた。

 暫しの沈黙。何処からか聞こえてくる愚者の遠吠えは、降臨したダアトを歓迎するためのものか、否定するためのものか。
 巻き起こった風が、針葉樹林全体を大きく揺さぶる。がさがさと葉が擦れ合って音を奏で、心情を形容するかのように世界をざわつかせた。
 静けさの中の騒然を打ち破って響いたのは、メンダークスとバグロームが土を踏む音。彼女らは最後まで意地悪い笑みを浮かべて踵を返し、二人一斉に樹林の中へ消えた。反射的に後を追おうとした玲だったが、
「……待って。ごめんね。でも今追っても、きっと無駄。それだけじゃない、玲だって危険に晒される。だから今は、出来る事だけ考えよう?」

 集落は崩壊し、ダアトが姿を現した。どれを取ってもこれまでに無かった危機なのだ、折り重なれば滅亡にさえ近づく。だからこそ現状の中で無暗に動き回るのは自殺行為であり、更なる絶望を招くだけ。
 今出来ることは、ごく限られているのかもしれない。深淵から姿を現したダアトが空にある限り、人類に自由は無いのだから。
 言葉を受けて、玲は恐らく業腹ながらにも頷く。そんな彼の背に、もう一度「ごめんね」と言ってから、愛理は立ち上がった。

 本当はもう、謝罪なんて意味を成さないのかもしれないけれど。



 遂にダアトが姿を現した。
 崩壊し、血に濡れた集落の中で、エニスは哂う。理想の城が聳える天に手を伸ばし、手のひらの上でダアトを弄ぶ。
 エニスのもう片手には、アンチ・ダアトコードを制御する装置の、操作端末が握られている。“黄金の夜明け団にしか操れない鍵”をくしゃりと握りつぶして、踵を返す。
 そして、ゆっくりと、悦に言った。
「さぁ、ラストゲームだ」



 破滅の象徴を掻き消して降臨した歪な城を眺めて、アシエは目を細める。
 たった今、この場にいる全員が確認したことだ。神話の成就、深淵の城の存在を。
 原因不明の悪寒に撫でられた首筋に、庇うように手を当てる。何だかとても嫌な予感がするのだ、これまでにないくらい。
 隣では、リコスが見たこともないような渋面を浮かべて、複雑な顔をしていた。
 それはきっと、誰しもが感じている事だ。
 神話には、余り語り継がれていない続きがある。以前アシエは機関の書庫で、それを読んだことがあった。
 あの空に浮かぶ城か街には、名前があるのだ。黙示録にも同じ名前が付けられる、深淵の意を持つ大地の名前が。

「深淵の城――黙示録――(第十一区画ダアト)……人類に遺された、最大の希望……」

 けれど、あの浮遊城が希望だと、黙示録により遺された救世の手段だと言うのならば。


 あれはきっと――“崩壊世界の黙示録”なのだろう。

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