小説『泡沫候補っていうな!』
作者:しょむ研 水野松太朗(しょむ系政治勢力研究会)

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 1993年衆院選で、小選挙区制反対を理由に支持母体の労組「連合」から推薦を外され、得票が伸びず落選。その後社会党を離党し、「護憲新党あかつき」を結成、代表に就任。1995年都知事選には「無党派の代表」と称して出馬。同年参院選にはスポーツ平和党共同代表として比例区より出馬し、落選している。「スポ平」からの出馬について、「『あかつき』とスポ平は合併した。党名は『スポーツ平和党・あかつき』とするはずだったが、今回の選挙では変更手続きが間に合わなかった」と説明している。1998年参院選には自由連合に公認を申請するも却下され、無所属で出馬。2000年衆院選では「社会党」を結成し、委員長として比例区東京ブロックより出馬。2001年参院選には「老人と若者の連帯」を訴え無所属で出馬。98年以降の選挙では、ポスターに大きく「怒」の文字を書き、首相官邸に抗議の電話をかける「十円玉運動」を提唱していた。なお、93年以降出馬した選挙には全て落選している。

 2001年参院選を最後に選挙への出馬は無かったが、なだいなだ(作家、精神科医)の提唱する「老人党」へ参加し、また「社団法人マスコミ世論研究所」理事長として雑誌「月刊マスコミ市民」編集やネットTV「世論力TV」運営に携わっていた。

 「社会党」は自由連合の得票を上回るなど健闘した。しかし、社民党からは「似たような党名で票をかすめ取った」と猛烈に非難された。また、90年代半ばより革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)主催の政治集会の弁士となるなど、革マル派と接近していたことから、95年都知事選で青島幸男を支援する中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)から「ファシストカクマル系候補者の上田を絶対当選させるな」と批判されていた。

 度重なる選挙出馬のため生活が困窮し、自宅や車などの私財を投げ打ち、近年は体調も崩しぎみだったが、入院中でも平和集会に移動ベッドで参加するなど、政治への強い思いは衰えていなかった。2008年12月17日死去。

 なお、「あかつき」は岐阜県本部が残っており、県知事選挙で共産党などと共に革新系候補の擁立を行なっている。

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