小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌日は朝から、暑かった。まったく風が吹かず、駅まで道のりを数分歩いただけで、背中に汗をかいていた。目深にかぶった黒の野球帽が熱を持ってしまって、帽子が熱く感じる。サングラスを通しても目の中が熱くなる気がした。電車に乗ると、冷房が汗を冷やして、気持ちが悪い。込み合った電車の中は冷房の嫌な冷気と、人込みの熱気が交錯し、とても疲れる。サラリーマンが汗をかきながらもネクタイをして、スーツを着ているのを見ると、自分とはとても遠い存在に感じられた。聡美は(あれは私の将来の姿じゃないなあ)と感じた。彼らも今の私と同じように試験でいい点を取ろうとした時期があったのだろう。何のために試験勉強をしたのだろう。いい成績でいい会社に就職するためだったのだろうか。それとも何か別のためなのだろうか。今の自分は何のために授業に出席し夜遅くまで試験勉強をしているのだろう。少なくともいい会社に入るためじゃない事は確かなようだ。今の自分を認めるような会社がそれほど多くあるとは思えない。聡美はもちろんいい成績を取りたいと思ってはいたが、その目的がはっきりしていない。取り合えず、いろいろな物を吸収したいという好奇心のような物しかなかった。

 一時限目の民法は、意外にも欠席者が多かった。早い時間の試験はどうしても避けたくなるし、民法は出席率を重視する教授だったから、あきらめた学生が多いのだろう。しかし逆に真面目にやっていればAがとれる教科だった。聡美は解答を埋めるのにそれほど時間はかからなかった。解答できる問題とできない問題がはっきりと分かれた。分からない問題は考えても解答できる訳ではないので、適当な解答を書きさっさと退室して、冷房のきいている図書館に向かった。館内はまだ空いていた。経済原論の教科書に一通り目を通した頃に、一時限目の終了のベルが鳴った。経済原論の試験は大教室で行われた。試験問題は四ページに渡るかなりの量があった。聡美は、試験開始と同時に、全ての問題を一通り読み通した。
 全く手が出ない問題はなかった事で、聡美は、(うまく行けばAかな)と、思った。最初の問題から順番に解答を埋めていくが時間との競争になってきた。大教室にも冷房はなく、汗がじっとりを吹き出してくる。腕にも汗が浮いてきて、答案用紙が張りついてしまう。時間が過ぎるに連れ、暑さのせいかまたは疲れのせいか、解答を書くペースが落ちてきた。次第に頭の後ろがじんじんと、しびれるような気がした。係官の「後十分」の声に教室全体から「えー」と失望にも似たどよめきが漏れた。聡美は何とか全ての解答を埋めたが、見直す時間がほとんどなく、内容は自信がなかった。試験が終わると(まあBでいいか)と、いう気になっていた。
 昼休みの構内は多くの学生でいっぱいだった。学食も込んでいてとてもゆっくり食事できそうになかった。聡美はコンビニでサンドイッチとミルクを買い、近くの公園のベンチで、軽い昼食を取った。構内からあぶれた学生があちらこちらでたむろしていた。幸せそうなカップルや、気の合う友人同士が、小さな固まりを作り、皆、笑顔で話していた。大きな笑い声や、歓声を時々風が運んできた。聡美は(私だけが違う世界に住んでいる)と強く感じた。孤独だとは思わなかったが、(私の世界がここにはない)と感じた。
 経済原論ではラスト五分でかなりばたばたとしてしまった。少し疲れていたが、簡単な昼食でも何か食べると、少しは気持ちも落ちついた。ふと両親や奈津美の顔が浮かんできて(これからどうしよう)という思いが頭をよぎったが、それを振り切るように頭を振りながら(全ては試験が終わってから考えよう)と思った。
 午後の試験まではまだ時間があったが、教室に向かった。多くの学生の間を縫うように本館の教室へ向かった。本館は古いレンガ作りで建物の中はひんやりと心地よかった。
 教室では、さっきの公園とは全く違う雰囲気があった。机に伏せて寝ている人、文庫本を読んでいる人、音楽を聴いている人、ノートを開き試験に備える人、それぞれが自分の世界を作っていた。聡美も空いている窓際の席に座り、ノートを開いたが、頭の中には公園での自分の記憶が浮かんできた。これからどうしよう。今考えても仕方のない事だとは分かるが、つい考えてしまう。窓の外では、真夏のまぶしい光の中で、多くの学生が笑顔を見せていた。聡美は(ついこの間まで私もあの中にいたのだ)と、思うと、今の自分がしている事が本当に自分にあっているかどうか疑問に感じた。別にこれまで通りに普通にしていればいいじゃないか、何か問題があったのか。聡美の頭の中をいろいろな思いがめぐっていた。

 聡美は二時半ちょうどに五号館前に着いた。回りを見回すと、まだ玲子の姿はなかった。ベンチは陽に熱されていて、触れる事もできない。五号館前の欅もあまり日除けの役を果たしているとは言えなかった。聡美は鞄の中からサングラスを取り出し、鼻に乗せた。聡美はここ数日は黒の野球帽にサングラス、ポロシャツにキュロットにスニーカーという恰好をしていた。聡美が野球帽もキュロットを買った事を玲子は知らない。玲子はこういう姿の聡美を見た事がないはずだから、聡美の方が玲子を見つけないと、玲子には分からないだろう。数分は太陽の光を浴びていたが、あまりの暑さに、聡美は五号館の中に入って待つ事にした。熱気は変わらないが、日向にいるよりはずっと楽だった。聡美の視線はサングラスの中でじっとベンチを見つめていた。日陰からベンチを見るとハレーションを起こしているように、灰色に輝く後ろのコンクリートの塀に溶けているような気がした。
 不意に後ろから玲子の「お待たせ」という声がした。振り向くとすぐ後ろに玲子の笑顔があった。聡美はとまどいながら「うん」とだけ応えた。
 並んで歩きながら聡美は玲子に「すぐ私だって分かった?」と聞いた。「そりゃ長い付き合いだもんわかるよ」という玲子の答えに(長い付き合いだとどんな服装をしていても分かるんだ)と、少しがっかりした。自分が考えているよりも、変わっていないのかも知れない。
「どこに行こうか?」「どこでもいいよ」といういつものやり取りの後、いつもの喫茶店に入った。そして、なぜかここは空いている。

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