小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 予備校の夏期講習を手伝うというアルバイトがは時給はあまり良くなったが、見つかっただけでもよしとするしかない。八月三十一日までは、月曜から金曜日、九時から五時まで拘束される。
 アルバイトが決まった事でひとまず課題の一つをクリアーしたが、聡美にはもっと考えねばならない事がたくさんあった。自分の気持ちと真っ直ぐに向き合って自分が何を求めているかはっきりさせる事、これから先の長い人生をどうやって生きていくかの方向を見いだす事、この二つにはできるだけの事をしておきたかった。
 試験の打ち上げ以来、玲子とは連絡を取っていなかった。と言っても四日だけだったが。聡美は玲子に電話をしてみた。聡美が
「お久しぶり。なにやってたの」
と、言うと、玲子は
「そうね、なんだかずいぶん会ってない感じがするね。こっちは、今のところ、掃除と洗濯と映画を少しね。試験中は家事をためにためてたから、主婦してる。そっちはどう」
と、答えた。
「こっちも同じ。タオルケットやシーツ洗ったり、布団干したりしてる。それに模様替えまで始めちゃったから、一日があっという間に終わっちゃう。
「すぐにバイト始まるからそれまでに部屋の模様替え終わらせなきゃ。そっちは?」
「私の方は、お父さんに八月から来て手伝えって言われているから、七月の末には帰るつもり」
「帰る前に一回会えないかなあ」
「いいよ。二十三日でいいかな」
「いいよ。時間は?」
「じゃあ、夕方にそっちに行くね」
「うん。分かった。じゃあその時ね」

 玲子と会うまで二日ほどある。玲子と会うまでには、(聡美もがんばってる)と、思ってもらえるような事をしておきたかった。玲子を安心させたいとともに両親にも早く説明できるようにしたかった。そして、自分の中にある後ろめたさも祓ってしまいたい。
 私は、いったい何をしようとし、どこに、向かっているのか。これを自分のために、そして、周りの人達にはっきりとさせたかった。
 聡美は、模様替えや買い物といった日常の中でいろいろと思いを巡らしていたが、それらは、すぐには結論が出ないような気がした。今の自分のどこが嫌なのか。将来、どうしたいのか、そして、それはどうすれば可能になるのか。また、今の自分は何を考え、どういう行動をすればいいのか。
 聡美は漠然とし混沌としている今、何をすればいいのかを考えた。
 今年の四月になってから、自分の中に妙に引っかかる物を感じていた。それは、まず玲子とつき合っている時に感じたのが、きっかけだったと思う。
 自分には玲子にあって、自分にない物がたくさんあるように感じた。玲子は、目的に向かってひたむきな努力を続ける事や、人への気遣い、そして、生活するための様々の知識と技術を持っていた。そして、玲子はそれらの多くを自分に費やしてくれた。自分は、その事に気づいてはいなかった。むしろ気づこうとしていなかったのかも知れない。
 しかし、一度気づいてしまうと、これまで考えてもいなかったような事が、次々と心の中にわいてきた。聡美は自分が生まれてからこれまでの事を一つ一つゆっくりと追体験した。
 これまで、気にもかけなかった事が、間違っていたのかも知れないと、感じた。聡美は子供の頃から、自分で目標を立てていなかった。周りの誰かが達成可能な目標を立て、「聡」に与えていた。そして、もし達成するのに努力が必要な場合は、「聡」はその目標を拒否してきた。そうすれば、誰かが目標を下げてくれた。その目標は「聡」にとって十分に実現可能な範囲だった。自分自身で自分の希望を目標にした事は一度もなかった。それは、将来どうしたいかとか、こうありたいという希望や夢を積極的に考えてきた事はなかった。目標や夢を訊かれた時は、全体の平均値を答えた。それは、誰が見ても特に不満に思わない事だが、おもしろくはなかった。人の役に立つとか、名誉や、精神的な満足感などは自分の目標や夢とは無関係だった。
 その結果が当時の「聡」の状態だった。どこにでもあるような家庭で、ごく普通の少年期を過ごし、公立高校に進学し、そこそこいい成績で、あまり熱心に受験勉強をしないまま大学を受験し入学した。大学には、同程度の学力、経済力の集まりだった。大学は、この社会全体を遠心分離器にかけて、その中程の一片を切り取ったような物だった。
 誰と話しても自分と同じような意見が返ってくる。少しは違う場合もあったが、よく考えてみれば、大差はなかった。もちろん、自分の夢やしっかりとした意見を持っている学生もいたが、彼らはすでに大学を自分の生活の一部とし、大学以外での活動を持っていた。彼らは、専門学校に通い、大学では得られない技術や知識を得たり、ボランティアを通じて広い人間関係を作っていた。しかし「聡」はそのような人たちとは会話を交わさなかった。おそらく、相手にとって聡は話するにも足りない人間に写っていたのだろう。また、「聡」も彼らが見えていなかった。彼らがとても主体的に動き、自分の夢や希望をかなえながら、周りの人たちをも巻き込んで、前に進んでいたとしても、その当時の「聡」には分からなかった。
 しかし「聡」には自分ではどうしようもないような制約が見えてきた。それは、生来の制限だった。どこの家で育ったか、とか、どんな時代に生きるのか、とか、男か女か、とか、金銭的に恵まれているとか、自分の選択でない事柄に縛られる事がいかに多いか。
 人は多くの制約の中で生きている。その制約を少しでもはがしていく事が、その人の人生を大きく変えるのだろう。
 「聡」が「聡美」になるきっかけは、漠然と「男はいやらしく、苦しい。そんな自分は嫌だ」と感じたところから始まっている。この事が、「聡」が「聡美」に憧れるようになったはじまりだった。
 どこまで自分ができるかなんて分からなかったが、少なくとも、自分を男性であるという事にとらわれなければ、男性である事に依る苦しみからは解放される。こう考えた時、「聡」は「聡美」として生きてみようと思った。
 これまでの消極的な生き方を少しは解消して、自分の夢を持って、自分の努力でつかめれば、少しは自分で納得できるだろう。人に自分の行く道を選択してもらうという事は、おそらく安全な道だろうが、自分が何を目指すのか、それを決めたかった。聡美はそのためにもできる限り制約を切り捨てていきたい。少なくとも自分で切り捨てていけるような制約は是非切り捨ててみたいと、思った。
 聡美の目標や夢は、まだ何も決まっていない。そして、聡美は今の自分に満足していなかった。大学で学べる物は、できる限り学んでおきたい。そして、学外でも何かを吸収したい。これまでとは違う人たちと多くの人間関係を持ちたかった。聡美にはそう考えるだけでも、大きな進歩だと思った。

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