小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌朝も、目覚まし時計より先に目が覚めた。今朝の空気は乾いた感じして気持ち良かった。ベランダに出ると、今日も朝顔が開いている。日に日にその数が増えている。こんな小さなプランターでも、朝顔達は健気にその花を開く。みずみずしく輝くような朝顔達は、こんな乾いた空気が良く似合う。
 いつものようにコーヒーメーカーをセットして、その間にシリアルと、ミルクとヨーグルトの朝食を用意した。テレビをつけると、昨夜と同じニュースを報じていた。今朝も昨日と同じように朝が来たし、きっと今夜も昨夜と同じように夜が来るのだろう。そして、昨夜のように、自分の事をいろいろと思い悩むのだろう。内乱問題は、とても重要な事のようではあるが、聡美には、なぜ重要なのかがよく分からない。季節は巡り、年を重ねているが、それらは、次から次へと過去に流れ去り常に「今」がある。そして未来は、「今」の延長線上にしかない。これまでと全く別の未来が突然「今」になる事はない。聡美の白く細い中指はリモコンのスイッチを押した。突然の静寂がそこに出現した。聡美はラジオをつけた。交通情報を伝える声を部屋に満たしながら、聡美は身支度を始めた。

 聡美は昨日と同じ電車の同じ車両に乗り込んだ。電車のエアコンは、躰の中心部分を暑いままに残しで、肌の表面だけを冷やしているようで、聡美は好きにはなれなかった。真夏の電車はドアや天井は太陽に熱されて、それ自体、熱くなっているはずだ。窓を閉めきった状態なのに、その中の空気だけが冷やされている。そのアンバランスが気持ちを不安定にする。その上に込んでいると、エアコンの送風口近くは冷えているが、肩から下は、蒸し暑く感じる。聡美はその不自然な蒸し暑さも嫌いだった。
 込んだ電車の中で昨日買ってきた入門書をパラパラとめくっていた。ふと、周りを見渡すと何人かの会社員風の人たちがパソコン雑誌を開いていた。(あの人たちは、趣味がパソコンなのだろうか。それとも仕事?)という疑問が沸いてきた、昨日は家電店にいた客たちを見ても、彼らが何のためにそれらを見ているのか気にもしなかったが、一日置いてから、改めて周りを見渡すと(何のために、パソコンなのだろう)という疑問が沸いてくる。社会がそういう方向に進んでいるのかも知れない。あえて、それに逆らう必要もなく、むしろ積極的に取り入れて、社会的な優位性を確保したいのだろうか。東京という街は、何かを生産して成り立つような都市ではないのかも知れない。情報をできるだけ多く手に入れ、その情報を、やり取りするだけで成り立っているのだろうか。もちろんビッグプロジェクトがいろいろと進められている事は聞いているが、それは物理的な都市という器を準備しているだけで、その中では、多くの人たちが、さまざまの書類の作る事に多くの時間を費やしていて、その結果できる物は、収拾のつかない多くの印刷物をであり、そのほとんどは、限られた数の人の目に触れるだけで、棚の中に保管される。どこかおかしい。もっとするべき事があるような気がする。自分の力ではどうしようもない事ではあるが、大部分の人たちにとっても、同様だろう。
 渋谷から山の手線に乗り換え、代々木に向かう。昨日と同じようにコーヒースタンドでアイスコーヒーと二本の煙草を楽しんでから、ゆっくりと予備校に向かった。予備校の通用口から入りタイムカードを押し、席に着くと昨日と同じように高橋はすでにパソコンに向かっていた。昨日と同じ「おはようございます」と言う聡美の呼びかけに、高橋も昨日と同じように「おはよう、来たね」と返してくれた。
 聡美は
「今日少し相談に乗って欲しいんですけど」
と切りだした。高橋は顔を上げると
「ああ、いいけど、どうしたの。急ぎ?」
と、少し不安げな表情をした。聡美は
「いえ、特に急ぎでもないし、直接、仕事と関係ないと言えばないとも言えるので、空いた時でいいんです」
と、答えた。高橋は
「じゃあ、今日一緒に昼を食べようか」
と、言ってくれた。聡美は
「すいません。じゃ、その時お願いします」
と、言い残すと、昨日の続きに入った。
 学生たちの出す出席票は、それこそ、いろいろな事が書かれていた。聡美の仕事は、出欠の表を作成する事なのでその内容まで踏み込む事はないが、出席票の裏には、さまざまな要望や希望、それに落書きなでがが書かれている。「授業の進み方が遅すぎる」という学生がいるかと思うと、同じ授業でも「もう少し、ゆっくりやってほしい」と全く正反対の要望を書く学生もいる。それを調整し、補足し、少しでも多くの学生に理解してもらうための教員の苦労は、大変な物だろう。
 それだけに、それぞれの授業で使用するプリントは重要な意味を持ってくる事は容易に想像できた。各教員からすれば、今日の疑問点は翌日にはプリントという形で学生達に示す事でその疑問点を共有し、解決し、次のステップに進みたいのだろう。この予備校での自分の仕事の重みや高橋の苛立ちが何となく分かるよう気ががした。

 高橋は、見計らっていたかのように、昼前に
「聡美さん。こっちはいいけど、そっちはどう」
と、声をかけた。何となく分かったような分からないような問いかけだが、暗に(昼休みは時間が取れるかどうか分からない)と、言っているようだった。
「あ、すいません。今で、いいんですか」
と、問い返す聡美に
「今の方がいいなあ」
と、はっきり答えた。聡美はこんな事をこんな時間に訊いてもいいものか測りはかりかねたが、高橋は「じゃあ、食堂に行こう」と立ち上がったのにつられ、聡美も「あ、はい」と立ち上がった。食堂に向かいながら、聡美は「すいません」と何回か繰り返したが、高橋はそのたびに「別にいいよ」と、にこやかに応えた。聡美は、ただでさえ忙しくしている高橋の時間を自分の不勉強で浪費させているようで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「で、どんな事」
「あの、ちょっとパソコンの事なんですけど」
と、言いかけると
「どこか分からない事があったの。じゃあ、教員室の方がよかったかなあ」
と、高橋は聡美の言葉を奪うように言った。聡美は(そんなに人の話の先を急がなくてもいいじゃない)と思ったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「いえ、そうじゃなくて……」
 聡美は昨日からの事を説明した。
「ふうん。要するに自信がないし、自分が持っているのとはバージョンが違ってて勉強もできない・・・と、こういうわけだ。そして、ソフトを買い換えるかどうかまで悩んでいると。」
と、高橋は言った。
「はい」
「まず買い換えるのは絶対に反対」
と、断言した。
聡美は予期しない返事にとまどった。(高橋さんは買うためのアドバイスをしてくれる)と、思いこんでいた。そんな聡美の気持ちを見透かすように高橋は
「誤解されると困るけど、決して新しいソフトはいらないって言ってるわけじゃないよ。ただ、バイトをするために買い換えるのは本末転倒じゃないかなって思うよ」
と、言った。
 聡美の中では(せっかくその気になっているのに出鼻をくじくような事を言わなくったっていいじゃない)という思いと(確かに高い買い物だもの。衝動買いのような買い方はしない方がいいかな)という思いが、同時に沸いた。押し黙ってしまった聡美に高橋は
「じゃあ、僕のパソコンを貸してあげるよ」
と、言った。
「え」

「それで少し勉強してから本当に欲しい物が、はっきりしてから買えば、失敗しないと思うよ」
「え、でも、それっていいんですか」
「ああ、いいよ。明日持ってきてあげる」
 聡美にとってはこの上ない事だが、(本当に、いいの?)と思う。
「本当に気にしなくてもいいからね。来年度までに覚えてもらえばいいんだし、ただ置いておいても仕方ないしね。遅いけど、ゲームしなければ、あまり関係ないよ。インターネットもやるんでしょ。あっ、ついでだから今伝えておくけど連絡用の仕事用のメールアドレスの設定をシステム部に依頼してあるから終わったら教えてもらえるね。貸出用パソコンにも設定しておいてとありがたいけどね。メールアドレスが来たらいろんなファイルはメールで送るし、『遅れます』とか『休みます』もメールでいいからね」
 高橋は、そう言うと、もう終わり、とばかりに、席を立った。聡美はあわてて
「ありがとうございます」
と、言った。高橋は「じゃあ」と、手を上げると、教員室に戻っていった。聡美には、(なぜ?)という疑問だけが残された。もちろん、とてもうれしいが、まだ数日しかたっていないアルバイトに、なぜそんな高価な物を貸し出してくれるのだろう。何か裏があるのだろうか。
 聡美が教員室に戻ると、高橋は次の仕事を聡美に割り振った。プリントの印刷だった。

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