小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 月曜日の朝、高橋は聡美を見つけると
「メールありがとう。返事読んだ?」
と、言った。
「はい、読みました。土曜日は出てたんですね」
「ああ、じゃあ、昨日の分は読んでないね」
「え、昨日のですか。高橋さん、日曜日も仕事だったんですか」
「うん、昨日はちょっとだけだけどね。どうしても今日に間に合わせるのがあったから」
「私にできる事があったら言って下さいね。やりますから」
「ははは、そんな事を言うと後悔しちゃうよ」
「そんなに大変なんですか」
「いや、大変というか、やる事が多いんだよね。うん、多すぎるんだよ」
 高橋は笑いながら言った。
「毎日何時頃までやってるんですか」
「遅いと終電かな。今はまだ泊まり込む事はないけど、十二月を過ぎると泊まりになっちゃう事が多いね」
「休みもなしですか」
「そんな事ないよ。昨日はたまたま出てたけど、割と日曜日は休めるから」
「少しくらいならお手伝いしますよ」
 聡美は、高橋がそんなに多くの仕事を抱えているとは思わなかった。昼間のペースで終電まで仕事をしているとしたら、高橋はとてもタフだと、思った。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて少しやって貰おうかな。何時頃までなら大丈夫なの。かわいいお嬢さんだから、あまり夜遅くなるとまずいよね」
 聡美は「お嬢さん」と言うのにぴくっと反応してしまったが、高橋はそれに気づいた様子はなかった。遅くなるのは夜遅くまで出歩いている事も度々あるので構わなかったが、自分の体力の方が心配だった。身体が疲れるのではなくて精神的に疲れる。聡美は、ここは正直に
「遅くなるのはいいんですけど、それよりも、私が、もつかどうかですね」
と、少し笑いながら言った。高橋は
「じゃあ、最長で九時までにしよう。九時までがいい」
と、笑い返した。聡美は(今日から帰りは九時ね)と、覚悟した。

 聡美がプリントの山を抱えて机に戻ろうとすると、高橋と教員のひとりとやり合っていた。高橋の
「この間も言ったけどプリントの最終確認は各教員の責任でしょ」
と言う大きな声がした。聡美はびくっとして、その場に立ちつくしてしまった。教員も
「何のためにバイトいれたんですか。こっちもこんなミスがあるなんて思ってないからそんなチェックしませんよ」
と、言い返していたが、教員は時計を一瞥すると
「お願いしますよ」
と、言い残して自分の机に向かっていった。高橋は、聡美がぼうっと立っているのを見つけると、笑いながら
「まあ、いろいろあるよ」
と、言ったが、さすがにその笑顔は少しひきつっていた。
「あの、私、何かミスしましたか」
と、聡美がおそるおそる訊いた。
「プリントの部数が足りなかったんだよ。ちょうど十部だから完全に数え間違いだね」
「あ、すいません」
 聡美は、あわてて頭を下げた。すると高橋は
「いいの、いいの、別に。そんなのはしょっちゅうあるんだから気にしてたらやっていけないよ」
と、言いながら煙草に火を点けた。高橋が自分の机で煙草を吸うのは初めて見る。
「あの人ねえ、今大変なんだよ」
 聡美は、刷り上がったプリントを机に置いて高橋をじっと見つめた。高橋はため息と一緒に大きく煙を吐いた。
「ここの教員も競争が大変なんだよ。受け持った生徒の学力がどれくらい伸びたかとか学生の人気とかで、給料が違うんだ。あまり実績を上げられない教員は地方校に転勤させらるしね。看板になっている教員なんて、ほんの一握りで、そういう教員だと、授業内容が地方校にテレビ講習で流されるんだけど、なかなかそううまく行かないね」
 高橋は缶コーヒーを一口飲んでから続けた。
「教員って、みんなまだ若いでしょ。それだけ、長くは続けられないんだよ。プレッシャーもきついし、体力も落ちるからね。それに設備もそうだよ。東京校で使ったのを、地方で使い回すんだ。パソコンや印刷機も地方で使っているのは、東京校のお下がりなんだよ。教員だって設備と一緒さ。生徒数が全然違いすぎちゃうから、どうしても東京校が中心になるんだ。地方校は東京校と同じ内容の授業をする事くらいしかアピールできないんだ」
 高橋は煙草を灰皿に押しつけた。
「さっきの教員はその競争の真っ直中にいるんだよ。ミスしたくないし自分ができる事以上の事をしようとする。だから小さなミスにも目くじら立ててるって事。気にする必要ないよ」
 聡美は気にしなくていいと言われても、気にしないではいられなかった。原因は自分にあるという事も気にかかったが、それ以上に高橋やそれぞれの教員の置かれている立場の厳しさを間近で見た事に怯えた。そしてそんな厳しさに対して自分のいい加減さを知らされたような気がした。

 聡美がアパートにたどり着いたのは十時近かった。今日はとても疲れた。四時間多く仕事をしたせいもあるが、それよりも気持ちが萎えていた。昼間の熱気を残したベッドに腰掛けると、ふくらはぎが火照っているのが分かった。エアコンもすぐには効いてこない。聡美はのろのろとシャワーを浴びて、濡れた髪にドライヤーをかけると汗がじわっとにじんでくる気がした。
 聡美は部屋の明かりを落として、スタンドだけを点けて缶ビールを開けた。パソコンを立ち上げて昨日着いているはずの高橋のメールを開いた。
   ◆
  高橋です。
  約一週間が過ぎましたね。何だかずいぶんと昔から一緒に仕事を
  しているような気がします。
  聡美さんの仕事ぶりはずっと感心して見ています。
  私をよく助けてくれてありがたく思ってます。
  最初はいろいろ戸惑っていたみたいだけど、今ではもう慣れて
  きたようですね。
  安心してまかせていますよ。
  責任感が強いんですかね。
  ともかくがんばっている様子に好感がもてます。
  まだ先は長いからいろいろあるだろうけど、息切れしないで下さいよ。
   ◆
 高橋からのメールは今の聡美には皮肉のように感じた。高橋は気にしなくて良いと言うが、自分の気持ちとしてはそうはいかない。確かに少しは仕事に慣れたかも知れないが、ミスをしたのは自分であり、そのミスで高橋に迷惑をかけた事に間違いない。この社会の中で生きていくという事は多かれ少なかれ競争の中に身を置く事であり、自分自身が競争にさらされると同時に誰かの競争の邪魔をするような事はタブーなのだろう。会社などのきちんとした組織に組み込まれれば、その競争社会のルールも教育されるのだろう。今の聡美のしようとしている事はルールを知る事以前に組織にとって受け入れられるような事ではないだろう。もし聡美が組織に組み込まれるとすれば自分の心をだまし続けなければいけない事は必至である。どこかで折り合わなければならないのだが、それがどこなのか想像もできない。これから先、自分はどうしようとしているのだろう。自分の居場所はどこにあるのだろうか。いつもの疑問が聡美の中に居座り続けた。
   ◆
  今日は本当に申し訳ありませんでした。
  これからは気をつけます。
  お手伝いをしているんだか、足を引っ張っているんだかわからないですね。
  本当に申し訳ないです。それにあの教員の方にも申し訳なく思ってます。
  みなさん大変な中で私がいい加減な仕事をしたのでは邪魔なばかりですね。
  できるだけ仕事をまかせていただけるようにがんばりますが、あまり自信はあり
  ません。
  それに私はそれほど責任感が強い訳ではありません。
  本当にすいませんでした。
             今井 聡美
   ◆
 聡美は時計を見て十二時を回っている事を確認してからメールを送信した。この時間ならもう高橋も帰っているだろう。もし、仕事をしている最中にこんなメールを貰ったらやる気がなくなってしまうだろう。しかし、メールを送信してから、(朝一番でこんなメールを見る方が嫌かも知れない)と、思い、メールを出してしまった事を後悔した。聡美のさんざんな一日はベッドに入る直前までさんざんな思いで終わった。

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