「悔いなき人生を」 XIII
零れ落ちる涙に俺らしくないが妻にハンカチを渡した。妻はコクリと頭を下げ、ゆっくりと話はじめた。
「お互いに離れていて気づくことがあるのね。私も一人になって沢山気づくことがあったわ。いくら貴方と別れよう
としても貴方と歩いた30数年の歴史は簡単に消えないものなのね。孝之の結婚は私と貴方が居なければ、多分
こんな話し合いをする機会もなかっでしょう。子供は鎹(かすがい)と言えますけど本当ですね。孝之もそして香織
も立派になったわ。私よりも貴方の背中を見て育ったかも知れないわ」
「いや俺は消そうに消せない過ちを犯した。現実にはもう一人息子が居る。お前には耐え難い恥辱だろう。でも
俺の責任でその子が成人して一人前になるまでは育てなくてはならないんだ」
「もうその事はいいわ。その子には何も罪もないもの。貴方には責任があるわね。でも悔しいけど褒めてあげる
中には責任逃れする人もいるけど」
「こればっかりは褒められてもなぁ。ともかくお前に長年辛い思いをさせた事は詫びる。それと夫婦っていいなと
思ったのは幸造さん夫婦を見ていて特に感じたよ。
話は若干逸れたが妻は合わせて来た。
「そうかぁ光江さんは幸せなんだ。学生の頃は一番仲のいい友達だったのよ」
「うん本当に仲の良い夫婦だったよ。羨ましいほどにね」
俺達は二人で一緒に居た時に、こんな会話を交わした事があっただろうか
まるで離婚していたのが嘘のように会話が弾んだ。
「処で君はまだ一人で居るのか」
「何を言ってるのよ。当たり前でしょ。だってまだ離婚届は箪笥に閉まったままだもの」
「なんだって? どうして出さないんだ。君は自由になりたかったんじゃないのか」
「自由になったわ。数ヶ月だけど。でもこんなおばさんが今更自由を手にしても、どう羽ばたくって言うの?」
「そりゃあ、お洒落をしたり友達と遊んだり……」
「じゃあ貴方は一人になって羽ばたけたの?」
「いや一人になって、幸造さん夫婦みたいになりたいなと思った」
「それって何? 再婚したいって言うの?」
「再婚ではないが君が戻ってくれたら、やり直せるかなと思って……」
知らない内に妻の誘導に嵌まり込んでしまった。
俺は確信した。妻が戻ってくれると。もう威厳なんて必要がない。男は黙って頭を下げるべきだと。
「あの〜この通り甲斐性まない俺だけど戻って来てくれないか?」
「…………」
「駄目かなぁ」
「私こそ戻っていいの? 私は貴方を分かろうとしなかったわ。確かに省みない部分もあったかも知れない、
でも貴方は私と子供達に、なに不自由の生活を与えてくれたわ。私は田舎者だから優雅な生活が幸せかどうか
分からなかった。でも知ったの、この不景気で仕事もなく一家心中する家族を最近であったの。私は身震いした
わ。だからって贅沢したい訳じゃないけど、質素に貴方と残りの人生を暮らせればそれでいいの」
俺達にはそれ以上の言葉はいらなかった。
つづく(次回最終話)