小説『私は障害者である』
作者:佐藤賢二(ABストア)

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2. 私は確かに生まれた。

1989年11月1日早朝、私は確かに生まれた。
予定日の12月8日より1ヶ月以上、5週間も早くの出産だった。勿論私はその時の事を覚えていない。
後で、お母さんと親父の会話で、その時の様子を繰り返し聞かされた。良い話でもあり、聞きたくない嫌な話でもある。
出産の1週間前には、お母さんは切迫流産の危険から早期入院となったそうだ。妊娠7ヶ月で既にお腹の大きさは臨月を超えていた。私とお姉さんが同居していたせいだ。後で知ったけれど、双子出産はそれ自体が異常分娩なのだそうな。大概のケースで、さっさと帝王切開にする病院が多いのだ。
私、、、、と言うより、お母さんは、家の近くのキリスト教の教会に附設された病院に入院した。命の大切さを重んじ、母体の負担を少しでも軽くする気配りの中で、それなりに安らかに過ごせる評判の良い病院だった。
出産は自然分娩でおこなうことになっていた。
お母さんも親父もクリスチャンではない。お祖母ちゃんとお祖父ちゃんがクリスチャンなんだ。もっともここの教会とは宗派が違うのだそうだが、細かいことはまあ良いのである。
担当の先生も産婦人科の一番偉い先生だそうで、親父も安心してお母さんをその病院に委ねたのだった。
秋も暮れ、少し肌に刺激のあるが、しかし未だ僅かな温もりを残す心地よい風の吹く午後、突然お母さんは破水した。ベットの上にバケツの水をぶちまけたような状況だったそうだ。私は、きっと予想以上に早く起こされたような気分だったのだろう。勿論覚えてはいない。
親父も会社から急遽に呼び出された。お祖母ちゃんと一緒に、双子御用達の為に購入したワンボックスの車に乗って駆け付けたのだ。
お母さんにとってはそれからが長かったそうだ。
夕方には陣痛が始まる。
とにかく、今の私達を見れば、もうその頃には、お母さんのお腹の中で目一杯暴れまくっていたのだろう。
その時点で、既にお母さんには随分苦労をかけていたんだな。
親父は何をしていたかって?
そりゃあ何も出来ないでしょう。夕方にはもうお母さんは分娩室に移され、親父は会うことも出来ず、やることも無く、いざという時の為にお祖母ちゃんが家族控室に詰めて、一人愛車の座席をフルフラットにして寝ることにしたんだと、、、、後で親父曰く、「気になって全然眠れなかった。」と。。。 男ってお気軽だよなあ、、、
そして、その夜は、東京には珍しく空気が透き通り、星が沢山見えたと言っていた。親父は晴れ男なんだそうだ。まあ、いくら晴れてもお母さんには関係ない。私にも関係ない。
とにかく時間は過ぎ、繰り返し波のようにやってくるお母さんの陣痛は、明け方まで続く。
そうそう、前日病院に駆けつけて時、親父が言ってた。「どうせなら明日になって生まれると良いなあ。だって明日なら11月1日だよ。
「平成元年11月1日なんてゴロが良いじゃん。」ってか?益々お気軽な親父を他所に、いよいよ私も出ていこうかってことになった。ジャンケンをした訳でもないけれど、たまたま出口に近かった今のお姉ちゃんに先を譲る。姉はさっさと出て行った。そして高らかに現世に登場の挨拶代りの雄たけびを上げたそうな。お姉さんは朝日と共に生まれた。
さあ、次は私の番だ。普通順番待ちで大体最初の人が出て行った後10数分でウェルカムなんだそうだ。
準備が整ったみたいだから、私も腰を上げていざ出発だ。と、、、ところが、通路が狭くて狭くて、、、まあ普段出入りするものじゃないから、快適で無いのは仕方ない。いや、待て、、、何か引っかかってる。私も焦って手で掻きわけた訳ではないけれど、腕が先に行って、その腕に何かが絡んでいるじゃないか。よく見ると私のお腹から出ている紐みたいなものが腕に絡んでいる。更に頭を突っ込んでにっちもさっちもいかないよ〜。とほほだけれど、外からは何か金属の挟むものが入ってきて私の頭をつかんで強引に引っ張るのだ。こりゃあたまらん。痛いヨ〜!
暫く押したり引っ張ったりされたけど、てことして動かない。狭い通路でもう息もできないよう〜。このままじゃ生まれてもいないのに死んじゃうよう〜。正直呼吸困難で一時気絶したみたいだった。
お母さんはお母さんで、私達を出す為に「いきめ!、いきめ!」って言われていたのが、突然先生から「いきむな!、いきむな!」って言われたそうだ。無茶苦茶な状況だった。まるで、1週間の便秘でいきみながら、浣腸でゆるくなったお腹を急に我慢しろと言われたような感じだろうと思ったが、お母さんには確認したことはない。ある時、親父がきっとそうだとニヤけてたけど、、、
と、やがて大人の手のひらが入ってきて私の頭を押して、もと居た所に戻された。ふ〜。なんとか息はついたけど、、、生きるのって最初から楽じゃないなあ。
私はかなりのダメージだったけど、きっとお母さんはそれ以上だろうな。
さて、このままで居られる筈も無く、その後はまた、大変な騒ぎになった。
先ず、お母さんは陣痛を和らげる薬を打たれ、痛み止めを打たれ、小休止だ。親父が先生に分娩室の入り口に呼び出された。お姉さんが生まれる少し前に家族控室に戻ってきていたので、直ぐにやって来た。
「第1子は順調に出産したのですが、第2子の時に、産道を通過するときに、赤ん坊の腕が垂れ下がり、その腕と首をヘソの緒がからんでしまい、そのままだと、首が締り危険な状態になる。母子共に安全を確保する為にも帝王切開に切り替えたい。」と、初老の先生が落ち着いた感じで話す。さすが、偉い先生らしく、カッコ良いなあ。
「宜しいですか。」って、、、、おいおい、良いも悪いもないでしょう。素人のお気軽親父に何言ってんだか。
とにかく、早くなんとかしろ〜と分娩台のお母さんの股の中から叫びたい気分だ。親父もかっこ付けて、「私共は先生におすがりするしかありません。よろしくお願いします。」とか言ったとか。
すると落ち着いて先生は、おもむろに看護婦さんから一枚の紙を受け取り、それを親父に手渡しながら、「それでは、よろしければ、この誓約書をよく読んで、サインをしてください。」と言った。ズルッ、、、である。
なんてこったい。この期に及んでも責任逃れだぜ。急に素敵な初老の先生は、情けない提灯持ち的サラリーマンのジジイに見えてきた。さすがに、親父も何だコリャと思ったそうだが、出産途中のお母さんを放っぽっといてアレコレ言える訳もなく、しずしずとサインするだけだった。
書類を受け取ると、また大変な展開になるのだ。
帝王切開は外科手術だそうで、場所が違うのだそうだ。
大病院という程で無いとはいえ、私を未だお腹に入れたままストレッチャーに乗って、分娩室から通路を通って、エレベーターに乗って別の階に行き、また長い廊下の果てに外科手術室があった。結局お母さんは、別の入り口をメスで切ってもう傷だらけだ。あっ、私も傷だらけさ。傷だらけの人生さ、、、
結局、私はやっとの思いでシャバに出た。最初、ひねくれたのか、もう疲れたのか、飽きたのか、私は声を出さなかった。
医者によると「新生児仮死」と言うのだそうだ。
その後、私は先生達によってたかって顔やら背中やら叩かれたり、刺激されたり、オイオイやめてけれ、、、って感じで「パフッ」て小さな声を上げた。
「お母さん、元気なお子さんですよ。」って看護婦さんのお決まりの言葉が出る。
私だって判る。
顔は内出血で腫れ、足にもアザができている。まったく、死ぬかと思ったぜ、、、
それでもその言葉を聞いて、私の傷ついた姿を見て、力尽いて気絶してその後長く休息の眠りに付くのであった。
私は、お姉さんの隣に、同じような哺乳器に入れられ、更に無菌密閉の部屋に寝かされた。
約1時間後に、親父と対面。お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも一緒だ。それにしても、この状況ってまるで上野動物園のパンダになったような気分だ。ガラス越しに音も聞こえない。理由なく笑っているようで、変な人達だなあって思った。いつまでもニコニコ私達を見てるものだから、一寸ブリッジみたいな芸を見せてみた。。。。
と、親父は思ったに違いない。
本当は違うんだ。。。
まあ、良く分からないけど勝手に思いこむのは親父の何時もの癖。変に納得して、親父は昼前に一度家に帰っていった。
実は、親父にはある企みがあった。今日は土曜日。天気も良い。そして明日も秋晴れ予想。親父の友人とゴルフを計画していたのだ。「やれやれ、これで無事に行けそうだな。」って思いながら、早く家で準備をしようと考えていた。
夕方、再び親父は私を見にやってきた。幸せそうな顔をしていた。それに応えるように、ブリッジやら寝返りみたいな動きを私は繰り返しやった。「元気なお子さんですねエ。」と隣のおばさんに言われ、親父はご満悦な様子だった。
まあ、私は今でもサービス精神は旺盛だけど、、、、 
違ったんだヨ。のた打ち回っていたんだヨ。
お気軽な親父は全然勘違いだし、病院の先生や看護婦さんも誰も気づいていなかったんだ。
親父は明日のゴルフを思いながら、未だ意識の戻らぬお母さんに会わずに病院を後にした。
もう日もすっかり暮れて、今日も星が綺麗に輝いていたって、、、
1750グラム、性別は女、出産状況は「健康」と病院のカルテに記録された。

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