小説『私は障害者である』
作者:佐藤賢二(ABストア)

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3. 私は生まれた次の日にドライブをする。

翌2日の朝。天気は晴れ、雲ひとつ無い絶好のゴルフ日和であった。
親父はこのようなイベントの日はひとりでも起きられる。
朝6時には親父の友人の野崎叔父さんが愛車のBMVに乗って迎えに来た。
「お早うございます。」
叔父さんは親父より3つ年下で大学の山岳部の後輩なので、親父には低姿勢だ。
長身で高校時代にはバレーボール部だったとかでなかなかの好青年との評判だった。
工学部出身でセールスエンジニアをしている。
収入もそこそこで夏はゴルフにテニス、冬はスキーに長けていた。
でも叔父さんは当時独身だった。
アウトドアの遊びが好きな親父にとって格好の仲間なのである。
今回も叔父さんの職場仲間のゴルフに人数合わせで参加させてもらったのだ。
叔父さんの送り迎え付きだから現地でビールも飲めるとほくそ笑んでいた。
玄関のカギを掛け、叔父さんが親父のゴルフバッグを車のトランクに積む。
少し冷たい位の爽やかな風が吹く。
親父にしてみれば、昨日までに私達のこと、つまりお母さんの出産も無事終わり、楽しみにしていたゴルフも何とか行けそうで、何より晴れ男の面目躍如といったところで、それはもう気分も最高に浮かれまくっていたことだろう。
右ドアの助手席に腰を下ろしながら、家の戸締りやら火元点検の確認を頭の中で描いていたが、ふとガスの元栓が心配になった。
一人での留守番役だし、万一があってはいけない。万全の企みには重ねて慎重な気配りが大切とか何とか言って、「ちょっと待ってて」と言い、小走りで玄関に戻った。
いや、なにか予感がしたと言う。

電話はその時なった。玄関の外からでもけたたましい呼び鈴の音は確かに聞こえた。
「何というタイミングだ。」と心の中で舌打ちをしながら、急いでドアのカギを開ける。
当時は未だ携帯電話はほとんど普及しておらず、こうして電話に出れるのはグッドタイミングなのだ。
叔父さんを待たせている親父は急ぎ受話器を上げた。
電話の向こうからは、中年の男性の低い、しかし少し慌てた声が聞こえてきた。
「佐藤さんですか。」
「はい。」
「こちら、荻窪の天沼衛生病院ですが、、、」
「はい。」
早く車に戻りたいという焦りの中で、火の元のチェックをしながら、何かまた書類にサインでもしろってことかな?と最初親父は思った。
しかし、ただならぬ不安な心の振動を自身で感じてもいた。
「お子様ですが、、、あっと、次女の方ですが、、、実は昨晩遅くから発作が起きまして、いろいろ処置を行ったのですが、当病院ではもうこれ以上の手をつくすことができなくなりました。」
「はあ、、、?」
「いや、ですからお嬢様は現在重篤な状態でして、当院としてはやれることは全てやったんですが、、、」
「はあ、、、?」
「あっ、いや、とにかく、今は急いで大きな所で整った設備の中で治療することをお勧めしたいのですが。」
「えっ、それって娘の命が危ないってことですか。」
「あっ、いや、我々が処置しておりますので、現状命には問題がないのですが、これ以上の治療には、もっと専門の設備が必要となりますので、、、、」
ってことは、つまり治せてないってことでしょう?
「ですから、治せないんですか。」
「あっ、いや、ですから、私共としてもやれることはやった訳で、、、」
「つまり、手の施し様が無いってことですか。」
「あっ、いや、まあ、、、そう言う事で、、、」
「で、どうすれば良いのですか?」
「はい、もしよろしければ大きな病院に移送したいのですが、、、」
「とにかく、娘の為に一番のことをやってください。」
「あっ、はい。それでは親御さんの御了解を戴いたと言うことで、転院の手続きを取らせていただきます。」
はあ〜、、何か、、、親の了解が無いと何もしないのか?と、さすがにこの時は親父も切れそうになったそうだ。
「え〜、転院につきましては、日赤病院か、日本医大か、順天堂大学辺りが宜しいと思うんですが、ご希望はありますか。?」
はあ〜、、何か、、、そんなもの選べるか〜?。判る訳無いでしょう。
そんな、そこの病院より優れている病院を熟知しているなら、最初からそこで出産しますヨ。と親父は心の中でブツブツとつぶやくけれど、相手に喧嘩を吹っ掛けるより、とにかく早く手配をしなければ娘の命が危ないのである。
 「私は何処の病院が良いかなどわかりません。とにかくお任せしますから、娘の命を救ってあげてください。」
 絞り出すように懇願するのが精一杯だった。
立っていた両膝がカクカクと笑って震えていたのが止まらなかった。
違う時空間にいるような。夢の中を彷徨い空中を無重力に飛んでいるような不思議な感覚に包まれていた。
「え〜。それでは少しお待ちください。」と電話の主は伝えて受話器を置いたようだった。
その間、どれくらいの時間だったのだろうか、親父はいろいろな事を考えていた。
先ずは、直ぐにでも病院に駆けつけなければいけない。
次に、両親にも連絡しなければいけない。
特に妻の実家は埼玉県北部にあり、そうそう直ぐには来れる距離ではない。
「何れにしろ電話しなくっちゃ。」
そして、今この時間ずっと待たせてある、親父の楽しみ、、、野崎叔父さんにゴルフには行けない由を伝えないと、、、
「あ〜あ、秋晴れのゴルフがオジャンだぜ。」ってか、、、
お気軽親父〜、私は今、大変なんだぞ、、、

5分待ったか、再び電話口にさっきの男の声がした。
「お待たせしました。それでは、日赤病院を手配しました。」
「はい。」
「え〜っと。それではお父さんは何時ごろ来られますか。」
「直ぐに車で10分か15分でいけます。」
「あっ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。そうですね、8時頃には来て下さいますか。」
何か、肩の荷がおりたように、饒舌に聞こえてきた。
それがまた親父は腹立たしくさせたようだ。我慢、我慢。
病院の人も何とか手離れできそうだとホっとしたんだろう。
「それでは後ほど。」と言い、先方は電話を切った。

さあ、これからが大変だ。
先ず順番は違うだろうけど、ずっと待たせていた野崎叔父さんの所へ行く。
事情を話し、親父は辞退し一人で行ってもらうことにした。
叔父さんはいたく心配してくれて、一緒に病院まで行こうかと言ってくれたが、事情も細かく判らずどうなるのか判断出来ない中で、その申し入れは丁重に辞退した。
ゴルフバッグ等を下ろし、車を見送って、部屋に戻り、親父の実家に先ずは電話をする。
お母さんやお姉さんのケアを依頼し、一旦電話を切った。
次にお母さんの実家に電話をする。
事情を話し、お母さんの所に居て欲しいと伝えた。
電話を切ると、泊ったりすることを想定して親父は自分の着替えと洗面道具をゴルフで準備したバッグに詰めかえて、車に放り込み、再び戸締りを確認して家をでた。7時を少し回っていた。
 車を運転しながら、親父はまた、いろいろ考えていた。
何しろ携帯電話がない時代である。
一旦違う病院に離れてどうやって連絡を取ろうか?。
日赤病院で診てもらうとお金が幾ら掛かるのだろうか?。
あっ、自分の朝御飯はどうしようか?。
お昼御飯は何処で食べられるのか?。
日赤病院の近くにお店ってあったっけ?。
とか親父は次から次と頭を巡らすのだった。
う〜ん、私の事も心配しろヨ!。

そうこうしているうちに、7時20分病院に着く。
直ぐに乳児室のナースセンターに行き、カウンター越しに名乗ると、間髪入れずスムーズに待機していたように対応してくれた。
奥から主治医の伊藤先生が現れ、軽く会釈をした。
「あ〜、先ほどお電話でお話しした通りです。」
あっ、この人だ!。あの電話口の中年の男性の低い、しかし少し慌てた声の主は先生だったんだ、、、と親父は改めて感付いた。
「我々としても夜中じゅうずっと治療したんですが、特に高酸素治療を施して、何とか発作は今は治まっていますが、体にダメージを受けていますので、早急により細かな検査と対応する治療を施す必要があると判断しましたので、このように移送することにしました。」
「はあ、、、」
「日赤病院から受け入れの救急車がこちらに向かっています。専門の医者も同乗していますので、安心してください。」
と言う事は、この病院にいたら安心出来ないと言うことか?。
親父はすこし天の邪鬼な所がある。
最初の電話口の時と少しずつ不安そうなイントネーションが減り、何となく偉そうな先生の話し方になってきた感じが親父はした。
腹が立った。理由ははっきりしない。
でもこっちの反応を見ながら喋っているような気がした。
その感情を更に逆撫でする言葉が先生から出た。
「待っている間に、この書類にサインしておいてくださいネ。」
何たら同意書だとか。いやいやこの期に及んでまたまた責任逃れかよ!。
でも親父はもう怒る気力も無かった。
とにかく、娘の状態が心配だったそうだ。
今度は看護婦さんが話しかけてきた。
年配の白髪の上品で落ち着いた女性だった。
婦長さんだ。
「お父さんが一緒に行かれますね。」
「はい、もちろん。」
「何方かこちらにお見えになりますか。」 両親が来ることを伝えると、
「それでは、私の方からも状況をお話しておきますね。」
更に、ナースステーションで電話連絡できるようにしてくれるとのことたった。
今のような携帯文化の無い時代の工夫であるが、有難かった。
さらに、
「お母さんもさっき目が覚めましたので、お話しておきました。お会いになりますか。」
出産した直後に意識を失ってから丸1日寝通していたのだ。親父は会いたい由を伝えた。
しかし、間も無く日赤病院の救急車が到着するとの連絡が入ると、俄かに慌ただしくなってくる。
「時間が無いよ」と先生。
「でも、、、」と若い看護婦さん。
あの婦長さんはいない。
親父はとっさに思った。
娘の状況によっては万一ダメな場合もう今生で会えないかもしれない。
最期になるかもしれないから何とか会わせたい、、、と。
その事を先生に伝えると、「わかりました。何とかお母さんと会わせましょう。」と言って、振り返り、看護婦さんに指示をしていた。

私は、その頃新生児室の集中治療室にいた。
哺乳器のパッケージの中にいた。
何やらいろいろ注射されて、寝てなくて、もうグタグタだ。
それを今度はお出かけするって、、、?。
頭の中もグラングランだし、体もだるいし、何とかなんないの?って訴えても、声もでないし聞いてくれる素振りも無い。
深夜、先生と看護婦さんが話してるのを聞いたんだけど、私って、「未熟児痙攣」というのになっていて、その生存率って一般的に20%位なんだって。
そして、夜じゅうの格闘で、その20%に選ばれたんだって。
エライ、エライ!。エライぞ私って。
なんか褒められたみたい。
皆もホッとしていた。
それでも転院だって。
先生!何か隠して無いですか?。
実は、20%でもその中身が問題なんだ
取りあえず息をしている意味で、心臓が動いている意味で、私は確かに生きていた。
高濃度な酸素を吸わされていたけど、それってあまり良いことでは無いみたい。
とにかく、私は生きている。
そして生き続ける為に、これから救急車に乗るのだ。
私は生まれた次の日に、早くも大好きなドライブをすることになったんだ。
白衣を着た沢山の人が私を覗きこむ。
複雑な顔をして取り囲み、見送る。
大名行列の沿道の庶民達を見ているようだ。

廊下を進みT字路を左に曲がるところで、右から大きなベットに横たわったお母さんと対面した。
初対面である。
最初、ベットからストレッチャーに移そうとしたそうだが、点滴の管やらなんやらで時間が掛かっていたら、あの婦長の一言で、「時間が無いからベットのままで移動しなさい。」となったのだ。
お母さんは焦燥しきった様子が私にも判った。
5・6人の看護婦さんに囲まれ、上半身を僅かに起こされ、手を伸ばし、私のパッケージのガラスに触れながら、
「頑張ってね。頑張ってね。」と何度か繰り返して呟くように話しかけた。
初めてのお母さんの声。
あっ、そうだ、何か懐かしく、安らぐその音は、ずっとお母さんのお腹の中で聞いたあの声だ。
「行ってきま〜す。」って言ったかどうか。聞こえたかどうか。
母から離れて廊下を進むと玄関近くに親父がいて、隣に神妙な顔をして2人の白衣の先生が話をしていた。
一人は昨夜もいた伊藤先生だ。もう一人の若い先生が何やら手に持ったボードに挟んだ紙にいろいろ書き込んでいる。
あ、きっと彼が私の新しい先生でお迎えに来てくれたんだ。
感謝!感謝!。
そうして、私は救急車に乗った。
けたたましいサイレンの音が気になるけど、ほぼノンストップのドライブの始まりだ。
朝のラッシュの中、青梅街道を驀進する。

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