小説『The Last Judgement―最後の審判―【完結】』
作者:亜薇(楽園喪失)

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<4>欲求不満


『……ね、ね……』
――またあの声だ。
 気のせいかもしれないが、また僅かに声が大きくなっている。
 一体何なのだろう? もう何週間も彼にとっての最高の嗜好を奪われているために、極度の欲求不満からくる……幻聴なのか? 
 自分では気付いていないが、彼にはフラストレーションが溜まると精神的に不安定になり、ますます暴力的・嗜虐的になる厄介な傾向がある。
 どういう根拠からなのかは説明できないが、とにかく彼は胸のむかつきを抑えるため直ぐにでも誰かを傷付けたいと思った。
 殺せないにしても、痛め付けるなり強姦するなり精神的にボロボロにさせるなり、彼には欲望を満たすための様々なアイディアの源泉が備わっており、何だってできる。
――誰でもいい、相手を探そう。
 そう決めて、声の主を追うのは諦め急に背後を振り返る。するといつの間にか、とある人物が立っていた。
「……死ね、炯士」
 探し続けていたあの声で、目の前の人物は彼にはっきりとそう言った。






 カーテンを閉め切り、外界の光を遮断した暗い一室。
 炯士はジェダの部屋を訪れた。音も立てずに無断で入り込み、部屋の中心へと歩いていく。
 ジェダは中央の回転椅子で、無防備にも眠っていた。
――珍しいな。
 炯士とジェダが部屋で二人きりで、ジェダは眠っている状態。こんな場面は初めてだった。
――今なら簡単に寝首掻けそうだなア。

 苦笑いして、気配を出さずに近付いて行く。身を少し屈め、目を閉じて動かないジェダの顔を覗き込む。
 暗い中でも、ジェダの形の良い唇と鼻筋がおぼろげに目に入ってくる。
 炯士はジェダが大嫌いだった。いつでも穏やかで、いかにも自分は清廉潔白という顔で正論ばかり言う。
 『神』の力とやらで未来を先読みし決して過ちを冒さず、時に相手の心をも見透かす。そして何もかもが自分の思う通りになると思っているのだ。
 いくら分別のない炯士といえども、彼を敵に回すのは面倒だと考えていた。少なくとも悪魔狩りとして行動を共にしている間位は、大人しくしているつもりでいる。
 ただ、恐らく霧都がそうであるように……ジェダを絶対視するようなことはしていない。
 指先でジェダの頬にかかった金の髪を除ける。少し何かを考えた後、自分の唇を彼のそれにそっと近付ける。
「僕にそちらの嗜好はないよ」
 炯士の動きがぴたりと止まる。いつのまにか目を開けたジェダはそう言って、炯士の肩に手を置いていた。
「……起きてたのか」
 平然と言う炯士に、ジェダは薄く笑って嘆息した。
「起こされたのさ。炯士、大人をからかうな」
 諌めているつもりなのだろうが、言うまでもなく炯士に対してそんな効果はない。
「で、アジトは判ったんだろうな」
 炯士にとって、ジェダがわざわざ彼らを罠に放り込んだことなどどうでもいいことだった。気になることといえば、この後に用意されているであろうこれまでで一番の狩りのことだけ。
「もちろん。君と霧都と、倫子とジャクリンに行ってもらおうと思っているよ」
 四人で行く、というのを不満に思ったのだろう。機嫌悪そうに顔をしかめた炯士に、話を続ける。
「相手の数は15〜20人といったところだね。四人で行ったとしても君が十分楽しめるくらいじゃないかな」
 にこやかに言ったジェダを、今度は表情のない顔で見る炯士。
「先ほど『視た』ばかりだから、場所の特定に少々時間が要りそうだ。『気』は近いから、恐らくここからそう離れていないと思うけどね」
 ジェダの力は万能ではない。悪魔を気で探すには相当の集中力と時間が必要らしい。
 聞きたかったことを聞き出すと、炯士は何も言わずに踵を返した。
「あ、そうそう」
 ドアに向かって歩きだした炯士を呼び止める。彼は面倒くさそうに振り返り、さわやかに笑んでいるジェダを再び見た。
「今度は君も危なくなるかも知れないよ? 悪い遊びはほどほどにしておきなさい」
 彼は笑んだまま、炯士に何か黒い箱を投げる。
 片手では足りない大きさだったので両手で受け取って中身を開けてみると、ワルサーPPの新しい銃弾が入っていた。
 舌打ちして、苦い顔を微笑むジェダに返す。
 荒々しくドアを閉め出ていく炯士の背を、ジェダはじっと見つめていた。








 正午を過ぎた頃の暖かい日差しを受けながら、倫子はベランダで手摺に背中をもたれていた。
 彼女の部屋は三十階。普通の女性だったら、恐ろしくて手摺に近付くことさえ難しい高さである。
 目を閉じて……感覚を研ぎ澄ませた。自分の力を空気に乗せ、手繰り寄せる。
――いる……! 
 倫子はこうして、悪魔の僅かな気を感じ取れる。それが彼女の特徴的な能力だった。
 悪魔狩りはそれぞれ種類の異なる能力を持っている。たとえば炯士は、運動神経、感覚神経など戦闘に関わる全ての能力において常人を遥かに凌いでいる。他方倫子は、感知能力に優れまだ目覚めていない悪魔の小さな気でも察知することが出来る。
 やがて、倫子は目を開けた。別の気をかなり近くで感じたのだ。悪魔のものではない……霧都のものだ。
 彼女はそう確信すると、部屋に入って窓を閉めた。
「倫子、入るぞ」
 案の定、軽いノックの音と共に霧都の声が聴こえてくる。
「ええどうぞ」
 彼女の声を確認すると、彼は静かに入って来た。
「ジェダが『視』た。数日中に出ることになりそうだ」
 抑揚のない声で、淡々と告げる。
「人数は多いが、それ程大きな気は感じられないらしい。俺とあんた、炯士とジャクリンで出る」
 倫子は霧都の目を見たまま、深く頷いた。
「アビスのアジト……これを潰せばアメリカ中の悪魔を全て殺したことになるのね……」
 目的を終えると、霧都はそのまま部屋を出て行こうとした。
「霧都」
 無意識に彼の名前を呼び、制止する倫子。霧都は何も言わずに振り返り再び彼女を見る。
 何も考えずに呼び止めてしまったため、その次の言葉がなかなか出てこない。そんな自分が、もどかしい。
「彼が……ルークが死んでから、もうすぐ二年になるね」
――どうして、自分はこんな話をしているのだろう? 
「……」
 頷きもせず、ただ彼女の言葉に耳を向けている霧都。話を続けても良いのだと判断し、倫子は声を詰まらせそうになるのを堪えながら、必死に次の言葉を考える。
「私はあの時……貴方を勝手に恨んだりしたけど、今では感謝してる。本当に」
 話しているうちに、思わず彼から目を逸らし視線を低くしてしまう。
――どうして、霧都はこんな目で私を見るのだろう。
 彼の瞳には感情というものが現れていない。倫子に対する哀れみも同情も、軽蔑するような色も何もない。
 それでもただじっと、彼女の瞳を真っ直ぐに見てくるのだ。
「……」
 俯き黙ってしまった倫子を暫く見ていたが、やがて彼女に背を向け、何の言葉も発さずに出ていってしまった。
 彼が去った後も、倫子は数分そのまま立ち尽くし霧都のいた場所を見つめていた。
 やがて肩を撫で下ろすと、溜息をついてソファに腰を掛ける。自分の言動を思い出し、切ないような、恥ずかしいような、悲しいような……様々な感情が入り混じった、自分でも良く分からない気持ち。
――何言ってんだろう、私……! 
 かつて自分が恋したのは、死んだルークただ一人。幼い頃からいつも一緒にいて、いつも優しい眼差しで自分を守ってくれた。
 ルークといる時は、見つめ合うだけで、触れ合うだけで、互いの想いが相手に伝わった。
 自分の気持ちが思うように伝わらずに悔しくなるなど、倫子にとっては全く未知の……初めての経験だった。それも、相手はあの霧都である。
 この世の中の何に対しても興味を示さず、ただ悪魔狩りの使命に直向きな霧都。彼と何年か仲間として過ごしてきた倫子は、彼を冷たい人間だとは思っていない。だが誰かと心を通い合わせるようになるとはとても思えない。
 忘れもしない、二年前……運命のあの日。いつものように、ルークは狩りに出た。対峙した悪魔の少年は、既に悪魔化しており瞳は金色に輝き、体中を刻印が埋め尽くしていた。
 ルークは幼い少年を救いたいがために、悪魔化する前に殺すつもりだった。出会って数日殺すことを躊躇い、決意した時には既に、少年は自我と理性を失くした巨大な敵になっていた。
 ……そして、ルークは死んだ。
 駆けつけた倫子は絶望の余り戦闘不能となり、その場に崩れ落ちた。彼女までもが殺されそうになった時、霧都が現れ悪魔を殺し彼女を助けたのだった。
 はじめは何故死なせてくれなかったのかと彼を呪い、詰め寄った。すると彼は、反論することも慰めることもせず……感情の篭らない声でただ一言、呟くように言った。
「怒るなら怒ればいい……ただ俺はあの時、おまえまで死ぬ必要はないと思っただけだ。実際、今おまえは生き残っている」
 彼の言った通り、あの時はまだ倫子の『死ぬ』時では無かったのだ。ルークは死に倫子は生き残る、いくら抗おうともそれが変えようのない運命だったのだと、倫子はそう考えるようになっていた。
「何ボーっとしてんだよ」
 突然背後から声がした。嫌な予感を感じつつも振り向くと、炯士が妙に機嫌良さそうに笑っている。気配に鋭い彼女が、接近に全く気付かなかった。
「炯士、あなた勝手に……」
 言い終わらぬうちに、悪びれもせず炯士が首を横に傾ける。
「お互い様だろ?」
 倫子は嘆息した。先日は、遊びに夢中で自分がノックしたのにも拘らずジャクリンも炯士も気付かなかったのではないか。
「さっき霧都とそこで会ったけど、もしかして何かあった?」
 下からやや上目遣いで倫子の顔を覗いてくる炯士は、明らかに何か感付いているような業とらしい態度だった。
「……別に、何でもないよ……」
 誤魔化そうとする倫子だったが、内心彼女は恐れていた。彼女は仲間でありながら、以前から炯士を畏怖していたのだ。
「ふうん……」
 炯士は感情の動きが激しく短絡的で、比較的分かりやすい性格をしている。しかし時折、あのジェダや霧都以上に何を考えているのか解らないことがある。それは決まって、誰かを何らかの方法で痛め付けようとしている時だった。
「なあ倫子。悪いこと言わないからさあ、あいつはやめときな」
 たった一言で、倫子の嫌な予感が的中していたことに気付く。
「……あいつ?」
 分からない、という顔をしてみせたが通用しない。
「とぼけんなよ、霧都だよ」
 霧都の名に思わずどきっとし、否定するタイミングを逃してしまう。その反応を炯士は見落とさず、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「あいつは何にも考えてない。『狩り』すること以外はな。ビックリするぐらい女に興味ねーし」
 そんなことは、倫子にだって分かりきっている。だからこそこうして苦悩しているのではないか。
「それにあいつは……」
「黙りなさい炯士」
 ぴしゃりと言い、炯士を黙らせようとする倫子。予想はしていたが効果は無い。彼は片手で口を押え、失笑するのを抑えるような仕草をしている。
「くっ……く……図星かよ」
 完全に、彼は倫子を嘲り弄んでいる。
「……何をしに来たの?」
 彼女は冷たく言い放ち、少しでも反抗しようと試みる。
「もちろんアンタを笑いに来たんだよ」
 容赦なく、間髪入れずに答える炯士。
「死んだ男を忘れて霧都と……っていうのはなかなか面白いと思うぜ? 前向きでいいじゃんか。だが当の霧都は見て見ぬフリだもんなァ。アンタもいろいろと大変なのな」
 バシッ! 
 炯士の右頬を狙った倫子の平手は、標的のすぐ前で標的によって受け止められた。
――しまった。
 たった一人で炯士に敵うはずがない。腕を掴まれ自由を奪われた倫子は、そのまま力任せにソファに押し倒された。
「何を……うんっ……」
 抵抗する間もなく、彼女は馬乗りになった炯士に突然唇を奪われた。
――犯られる……!? 
 己が快楽のためには女であろうと、そして恐らく仲間であろうと平気で暴力を振るい、屈服させる。炯士はそういう少年だということを、彼女はよく知っている。
 舌を入れてきたら噛み切ってやろう、もし失敗して殺されても……人の心を弄ぶ残酷な子供に好きにされるよりましだった。そう決めたのだが、次の炯士の反応は実に意外なものだった。
「ごめんごめん……酷いコト言った……?」
 一転して別人のように優しく、倫子の髪を撫でる。先程までの彼女を陥れてやろうという残忍な表情は一切残っていない。
 微笑みながら倫子の肩を掴む手の力を弱め、彼女の頬を伝う涙をそっと指で拭った。
「あんたって奴は……! !」
 こうした炯士の反応が、倫子を落とそうとする卑劣な策略だと気付かぬ彼女ではない。
 それなのに、自分でも何故だかわからないが……もはや抵抗する気はなくなっていた。
「ううっ……」
 声にならない痛みが倫子を駆け巡る。炯士に対してではない。どこからか沸き起こる正体不明の、胸の痛みだ。
「忘れようよ。別に俺のこと嫌いじゃないだろ?」
 されるがままの倫子を抱き寄せゆっくり背に手を回すと、彼女は諦めたように瞼を閉じる。ここまで来ればあとはどうすれば良いのか、炯士は実に良く心得ていた。
 ……彼にとって、これは単なる退屈凌ぎに過ぎない。
 倫子を慰めようとしているわけでも同情しているわけでもなく、精神的にも肉体的にも誰かを喰らい尽くして悦びを感じたいだけなのだ。



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