小説『The Last Judgement―最後の審判―【完結】』
作者:亜薇(楽園喪失)

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<8>裁きの時


「ハァ、ハァ……」
 ジャクリンと倫子を手に掛けた後、炯士の呼吸は荒く乱れていた。
 時々噎(む)せて吐き出す血液には、それまで殺してきた者の返り血も混じっている。喉につかえるようで気持ちが悪い。
 先程の悪魔やジャクリンたちが不思議がっていたように、普通の人間ならとっくに死んでいる重傷を負いながらも炯士が痛みを感じていないのには、理由があった。
 彼自身気付いていないが、彼特有の『能力』の一つとして、彼の痛覚は麻痺し感知しにくいものとなっている。先天的なものが大きいが、幼い頃から痛みに慣れていることも関係している。
 更には精神が既に、痛みを凌駕している。狩り、そして仲間の裏切りが、いつも以上に炯士を興奮させ昂ぶらせている。
 しかし一方で、体力は限界に近いところまで押されていた。少し前から自分の思うように身体が動いてくれない。
 壁に手を付き何とか立ち上がろうとするが、足に力が入らない。ここで誰か現れたとしても返り討ちにしてやるという気迫だけはあるが、現実的に応戦できるかどうかは別問題だった。
――痛みは無い。痛みなんてとうに感じなくなった。
  それなのに体が重いのは何故だ?  
 足元をふら付かせ、止まらない血を流し続けながらもゆっくりと歩き出す。
――いつか誰かが……ジェダだったか?  
  時折身体が重いように感じるのは、「殺めた者の命の重みだ」とか言っていた。
 辺りは静まり返り、人形のように倒れているジャクリンと倫子の亡骸があるだけ。
 炯士は、横目でその二人の方へ振り返った。
――そんなはずねーだろ。
  死んだ奴は何もできない。俺にのし掛かって重石になることなんか、できるはずがない。
 倫子にジャクリン、そしてこれから戦いを挑むジェダ。彼らが死んだ後少し時間が経てば、炯士は彼らのことなど忘れてしまうに違いない。
 かつて自分が殺した実の兄と姉のことさえよく覚えていないのだから猶更だ。
「あ……いつも……グルだろうな……」
――霧都。
 霧都と炯士が初めて出会ったのは二年程前、東京。
 その頃炯士は大きな街の風俗店を転々としていたから、どこの何という店だったかまでは記憶に無い。
 炯士が気まぐれで雇い主を殺した時に、自分を探していたという霧都が突然目の前に現れた。
 霧都は炯士を仲間にするべくやって来て、以来二人はほとんどの狩りで行動を共にしてきた。
――あの時……俺を迎えに来たおまえが、今度は俺を殺そうってのか?  
 壁伝いに歩いて行き出口までもう少しというところで、霧都が現れた。 
「霧都……」
 倒れているジャクリン達を一瞥した後、いつも通りの感情のない瞳を炯士に向ける。その右手には、拳銃が握られていた。
 彼は何も言わぬまま動こうともせず、暫くじっと炯士を見ている。痺れを切らした炯士は、絞り出すようにしながらも声を上げた。
「おまえもやっぱ……俺を殺すのかよ? ジェダ崇拝してんもんな……だがなぁ、俺は死なない……死んでたまるか……!」 
 炯士はナイフを構えた。彼は気付いていなかったのだ……霧都が炯士に対して全く殺気を放っていないことに。
 霧都は拳銃を持つ手をすっと上げると、方向転換し背後を向いて、撃った。
「なっ……?」
 思わぬ霧都の行動に訳も分からず、炯士は呆気に取られた顔をする。
「……霧都、君は本当に面白いな」
 霧都の向こうから聴こえてきたのは、落ち着いたジェダの声。
 先刻の悪魔の時のように、銃弾はズボンのポケットに手を入れて立っている彼の顔の前で静止し、落ちずに浮かんでいた。
「僕に向けて撃ってきたということは……炯士に加担するということ? それとも、今のはただの気の迷いかな?」
 全く動じていないジェダは穏やかな笑みを浮かべ、茫然としていた炯士を指差した。
「霧都、言ったろう? その子は殺さなければならない。必要以上に罪の無い多くの人間を傷つけ痛めつけ、その手にかけてきたのだから」
 宙に浮いている一発の銃弾を手で掴み握り締め、ぱらりと床に落とす。
 そして霧都と炯士の横を通り過ぎ、ジャクリンたちの元へと歩いていく。腰を落とし、倫子の頬を濡らしている涙を指先で優しく拭い取った。
「これ上余計な血が流れることの無いように、何よりも炯士の魂の救済のためにもね」
 何の力もないジャクリンの身体を抱き起こし、顔に掛かっていた美しい金髪を除けてやる。彼は少しの間無言で瞬ぎもせず、彼女の顔を覗いていた。
 今のジェダは、彼特有の笑みとは違った物悲しい表情を見せている。炯士はその様子を意外に思いながらも、決して気を抜くことなくナイフを堅く握る。
 やがてジェダはジャクリンを静かに横たわらせると、二人のために十字を切った。
「倫子もジャクリンも……この残酷で愚かな子供によって命を落とした」
 そう言って立ち上がり、再び霧都の方に向き直って彼の正面に立つ。
「それなのに、何故炯士を庇う? 霧都」
――ジェダの奴……珍しく、怒ってやがるのか……?  
 炯士が気付いた通り、ジェダの声には彼らしからぬ静かな怒気が含まれている。仲間として過ごしてきた中で、こんな彼を目にするのは初めてだった。
「捨て駒にしたのはあんただろう、ジェダ」
 霧都の言葉を受けて、ジェダは完全に笑むのを止めた。
「ルークの時のように……この二人が死ぬのも見えていたんだろう?」
 そう言って、霧都はジャクリンと倫子を見下ろした。
「ジャクリンと炯士が通じていたことを、あんたのプライドが許さなかった。そして倫子と炯士が深い関わりを持つことで、ルークの死について余計な疑念が倫子に生まれ、いつか自分に都合が悪くなることを恐れたんだろう?」
 ジェダがそうしたように、霧都も二人に向かって十字を切る。
「あんたの思い通りジャクリン、倫子、炯士の三人を体よく殺し始末する計画だった……違うか?」
 次の瞬間ジェダの瞳が凍てついたのを、炯士は見逃さなかった。ジェダの反応にも驚いていたが、それよりも霧都がこうしてジェダに意見していることの方が信じられない。
「……初めてだね、こんな風に君が君の考えを僕に吐き出すことは……」
 ぽつりと言って俯き、再度顔を上げるといつも通りのジェダの微笑に戻っている。怒っているようにも、焦っているようにも見えなかった。
――霧都……ジェダに逆らうつもりか?  
「ほぼ……君の言う通り。僕にはこうなることが見えていた。君が僕ではなく、炯士を選ぶということ以外はね」
 ジェダは溜息を漏らし、ジャケットの内ポケットからピストルを取り出すなり霧都に向けて撃った。
 微動だにしない霧都の右頬を銃弾が一発掠め、彼の顔に血線を入れている。
「残念だけど、君とはここでお別れだ。僕には君を殺してでも、炯士を殺さねばならない理由がある」
 彼の一言に、霧都が僅かに眉を顰めた。ジェダの言葉には炯士を殺すことに対する異様な執着が垣間見えたからだ。
 既に銃口を霧都の額に向けているジェダの方が有利、という構図だった。その上ジェダには、悪魔と同じく銃の弾を止める能力がある。
「ジェダ、一つ教えろ」
 不利な状況にも臆することなく、冷静に口を開く。
「あんたは極端に……炯士を危険視しているフシがあった。確かに、炯士の性格や強さを考えれば分からないことはない。だがそれ以上に……」
 霧都が最後まで言い終わらないうちに、ジェダの笑みが苦笑へと変わる。
「それは……説明したところで、君には分かってもらえないだろうね」
 ジェダの意味深な言葉の真意は、確かに霧都には分からなかった。しかし、傍らで聞いている炯士には少しだけ思い当たることがあった。
――そんなことより……このままだとあいつ……
 霧都の死は目に見えている。 
 自分の命ではなく、他人の命を気にすること等、炯士にとっては余りにも珍しい……初めてかもしれない。だが当の炯士本人は、それには気付いていなかった。
『俺たちのところに来ないか?  ……おまえみたいな奴にとっては、少しは楽しめるかもしれない』 
 炯士は目を閉じ、あの時の霧都の言葉を思い出す。そして口元を吊り上げると再び見開いた。
 バタフライの刃を出すと、突然ジェダの顔に向かって思い切り投げる。
「……!」 
 例によって、ナイフはジェダに当たることなく止まり床に落ちた。重傷を負い立っているだけで精一杯の炯士の行動は、ジェダにとって予想外だったようで、銃を炯士の方へと向けるまでに数秒の隙ができた。
 ジェダよりも遙かに戦い慣れた炯士がそれを逃すはずもなく、一足飛びで霧都とジェダの間に入り込み、ジェダの前に立ち塞がる形となる。 
「炯士……!」 
 目を細め唇を噛むと、炯士の眉間に狙いを定めて引き金を引かんとする。しかしそれよりも早く、血の如く真っ赫な双眸がジェダの瞳に映され輝く。
『貴方はフェイクなんですよ、ジェダ。本物が誰であるか……貴方にも分かっているんでしょう?』
 突如としてジェダの脳裏に浮かんだのは、『彼』がジェダに向けて放った言葉。
――いや、そのこと以上に……僕は炯士を憎んでいる。
  憎まざるを得なかった……初めてこの僕が、人を…………のだから。
 狂おしい程の思いを、彼はこういう形でしか表現できなかった。結局、人間として不完全であった彼は為す術も無く、自分の心と共に彼らをも葬ってしまおうとしたのである。
 炯士の右腕が、ジェダの胸を目掛けて突き出されていく。
――けれどやはり……
  主の下した審判には逆らえないということか……
 ジェダの胸の真ん中を、炯士の腕が貫く。出て来た手にはジェダの心の臓がぐしゃりと掴まれている。
 銃を落とし、炯士の身体に倒れ掛かるジェダが最期に見たのは……ジャクリンの姿だった。 




◇ ◇ ◇


「立てるか?」
 右手を差し伸べながら、霧都が抑揚のない声で言った。
「まぁな……けどフラフラだ……」
 霧都の肩に手を回し、支えられ何とか立ち上がる。
 足元が覚束かないものの歩くことはできそうだったが、吐き気と眩暈が酷い。
「血ィ……垂れ流し過ぎたな」
 霧都が自分とジェダ、そして倫子やジャクリンの着ていた衣服を裂いて、炯士の傷を止血する。 
「弾は貫通してるようだし、急所も外してる。相変わらず運が良いな」
 器用な手つきで応急処置を終え外に目をやると、既に日が昇っている。
「返り血をなんとかしろ。帰れない」
 いつものようにハンカチを差し出す霧都に、炯士は笑って首を横に振った。
「もう……無理だろ。固まって……こびりついちまってる。どっかで洗ってくしか……」
 自分の血も殺した相手の血も混ぜこぜになって、頭から足まで至る所に付着している。黒っぽい服を着ているため色は何とか誤魔化せそうだが、皮膚に付いたものは霧都の大判ハンカチ一枚で拭いきれる量ではなかった。
「何でジェダを……裏切る気になったんだよ?」 
 息絶え、俯けに倒れ伏しているジェダをちらりと見てから訊ねる。
「……特に理由はない」
 明らかに誤魔化そうとしているのが見え見えだったので、炯士は軽く舌打ちした。
「慎重で理屈っぽいおまえが……そんな訳ねぇだろ?  ……言えよ」
 珍しく追及してくる炯士に霧都は嘆息し、仕方なく答える。
「前からジェダのやり方が気に入らなかっただけだ」
 それを聞き炯士が心底意外そうな顔をする。霧都はいつもジェダの命を何も言わずに遂行していたから、てっきり何の不満もないものだと思っていた。
「……これからどうすんだよ……悪魔共は殺し尽くしちまったんだろ?」
 下を向いたまま困ったように言う炯士に、霧都は首を横に振って否定する。 
「……ジェダの次の狙いは日本だった。おまえを殺した後日本に行くつもりで、飛行機まで手配していたようだ」
 その事実が意味するのはただ一つ。
「……ってことは、まだ……殺してもいい奴らが日本にいるってことだな……」
 急に機嫌を良くした炯士は嬉しそうに笑い、天井を見上げて溜息を吐いた。
「カミサマ、カミサマ。どうか俺に楽しい楽しい殺しのチャンスを下さい。もっともっと……俺を楽しませて下さい」
 新たなる標的の存在に心躍らせ、浮かれる炯士。一方で、霧都はある一点を見極めようと考えを巡らせていた。
――神に最も近い者とされたジェダが、炯士によって殺される……この『審判』は、『神』の意志なのか……それともそれに反するものなのか。
……霧都が懼れるのはただ一つ。
 これまで起きてきたこと、そしてこれから起きること全てが、『神』の思うがままに進んでゆく……余りに残酷で絶望的な、真実。


to be continued...




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