ルイズを見送った後、僕は僕ら家族に与えられた客間を探して広い屋敷の中を歩き回っていた。今夜の夜会で使用人が出払っているのか、道を尋ねようにもなかなかヴァリエール家の使用人に出会えない。見知らぬ屋敷の中をしばらく歩き回るうちに、いつの間にかまったく人気のない廊下に来てしまっていた。
「まったく、この屋敷は広すぎるよ…。僕らの客間はどっちだったかな?」
僕が屋敷内の廊下をこうしてうろうろしていると、突然目の前に一匹の犬があらわれた。
「犬?なんでこんなところに?」
僕が突然の珍客に首を傾げていると、目の前にあらわれた犬はこちらに向かって何かを訴えるような目で必死に吠え始めた。そして、僕の服の袖口を軽く噛むと、ぐいぐいと引っ張ってきた。
(これは…ついて来いってことかな?)
僕が頭に疑問符を浮かべながら犬の案内に従ってついて行くと、犬はある部屋へと入っていこうとした。僕は公爵様の屋敷の部屋に無断で立ち入ることになんとなく躊躇いを覚えたが、犬の必死な形相に気おされて犬に従って部屋の中へ入って行った。すると、ベッドの上で苦しそうに胸を押さえている女性の姿が目に飛び込んできた。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、あなたは?」
女性が弱々しく、か細い声で僕に問いかけてくる。その顔色は明らかに青ざめている。
「大丈夫です、楽にしてください。すぐに楽になりますから」
僕は彼女が少しでも安心できるように優しく話しかけると、すぐに杖を取り出して治癒魔法を唱える。
『ヒーリング!』
僕が魔法を唱えるとすぐにその効力があらわれ、彼女の顔色には血色が戻り呼吸はだんだんと落ち着きを取り戻した。
「楽になりました。ありがとうございます、小さなお医者さん」
「いえ、この子のおかげですよ」
そういって僕は彼女の無事を確かめて一安心すると、傍にいた犬に目を落とした。
「まぁ、シーザーありがとう」
彼女は嬉しそうに僕をここまで連れてきた犬の頭を撫でてあげた。どうやらこの犬は彼女の飼い犬らしい。
「申し遅れました。私はシリウス・ド・ヴィルトール。夜分遅くの突然の来室、申し訳ありませんでした」
「いえ、本当に助かりました。危ないところをどうもありがとうございます。私はカトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌ。ここヴァリエール公爵家の次女です」
(ということは、ルイズのお姉さんか…。それにしては、家名がフォンティーヌって?)
僕がそんな素朴な疑問に不思議そうな顔をしていると、彼女が僕の疑問を察して口を開いた。
「実はこれでもフォンティーヌ家の当主なんですの。とはいえ、名前だけの当主なんですけどね」
そういって笑った彼女は猫目気味のルイズよりも目元が優しげで、女性的な奥ゆかしい雰囲気をその身にまとう女性だった。ルイズのお姉さんだけあって、やはりとびきりの美人だ。年齢は僕より5、6つ上なのか、体はルイズと違い出るところの出た女性らしい体つきをしている。髪の毛はルイズと同じ桃色で、ふわふわとした髪を腰近くまで豊かに伸ばしているのが分かる。彼女は先ほどまで眠っていたのだろう、ふわりとした着心地のよさそうな寝間着を身にまとっている。窓からの月明かりが差し込むベッドに佇む彼女の姿はルイズの妖精的なかわいらしさとは違い、引き込まれそうな蠱惑的な美しさを放っている。
「あら、どうしました?」
僕が彼女のそんな美しさに引き込まれて呆けていると、不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。僕が彼女のそんな対応に慌て、何でもありませんと赤面しながら手を振ると、彼女はそんな僕を見て楽しそうに笑っていた。
「それで、何があったのですか?」
この気恥ずかしい雰囲気をなんとか変えようと僕が姿勢を正して質問すると、彼女は表情を暗くする。
「幼い頃から身体が弱くて、たびたび発作を起こしてはあのように苦しくなるんです。最近は調子が良かったので油断していたのですが、先ほどあのように突然また発作を起こしてしまいまして…」
「そうですか…」
「だからなんです。私の体を不憫に思った父が私に領地を与えてくれたんですの」
妹と苗字が違う理由を知って、内心でなるほどと納得していた。そして、彼女の暗い表情を見て、僕は迷わず口を開いた。
「あの、よろしければ僕に診察させていただけませんか?」
「あなたが?」
突然の僕の申し出に彼女が不思議そうな顔を浮かべる。僕はどう見ても子供にしか見えないので当然だろう。
「はい。私は水のトライアングルメイジです。年はまだ幼くはありますが、多くの人々を治療してきた経験もあります」
「まぁ、その年でトライアングルですか?若いのにとても優秀でいらっしゃるのね」
彼女は心底驚いた表情を浮かべていた。トライアングルメイジといえば間違いなく一流のメイジであり、この高みに到達できるのは経験豊かな騎士や学院の教師などの一部の優秀なメイジに限られる。そのため、こんな子供がすでにその高みにあることはまずあり得ないのだ。
「はい、ここでめぐり合ったのも何かの縁。私はこの出会いを大切にしたいと思います」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれますのね。それでは、小さなお医者様にお願いしようかしら」
「それでは、失礼します。『ディテクトマジック!』。」
彼女に一言詫びてから杖を掲げると僕は探知の呪文を唱えた。呪文が発動するとカトレア様の身体の状況が伝わってくる。
(ん?左胸の肺と横隔膜の間に、不自然な陰があるな。それに、その周囲の血管の配置や流れも普通じゃない)
彼女の体の状況を確認し、さらに具体的な原因の究明のために彼女に質問を重ねる。
「カトレア様、呼吸が突然苦しくなったりするほかにも時折り熱を出して伏せったりしたことはありませんでしたか?」
「ええ、昔からたびたび激しい熱を出してはお医者さまのお世話になりました」
僕がカトレア様の病状をぴたりと言い当てたことに彼女が少し驚いた様子を見せると、僕の言葉に同意してくれた。
(やっぱりか…。おそらく、先天的に心臓から肺に伸びる血管の位置が普通とは異なり、肺と横隔膜の間に血管が伸びてしまっているのだろう。そして、この血管により栄養を与えられた周囲の組織が肥大化して、肺を圧迫しているんだ。そのせいで、この組織が肺を圧迫しては発作を起こしたり、時折り肺炎を起こしては発熱していたんだろう。とはいえ、原因がわかったとしてもこれじゃあ治癒魔法では治せないな…)
治癒魔法は自然治癒能力の強化が基本だ。そのため、呼吸の発作や肺炎などの後天的な病状は治療ができても、このような生まれつきの先天的な疾患を治すことはできない。なぜならば、もともと生まれつきそういうものなのだから自己治癒能力が機能しようがないからだ。
僕がどうにか彼女の病気を治療できないかと考えを巡らせていると、不意にカトレア様が口を開く。
「他にも、魔法を使うと急に身体全体が苦しくなったりします」
(魔法?肺の疾患は魔法の使用とは関係がないはずだけど…)
その言葉を聞いて何かを思いついた僕は一つの小瓶を取り出し、彼女にすすめた。
「これを飲んでいただけますか?大丈夫、毒ではありませんから」
「ふふ、大丈夫よ。あなたを信じていますから、小さなお医者様」
そう笑って、カトレア様は小瓶の中の液体を飲み干した。これはさきほどルイズにも飲ませた秘薬である。
僕は治癒魔法を使ううちに、治癒魔法は身体の中を流れる魔力に干渉しそれにより自己治癒能力を強化することを知った。しかし、通常体内の魔力の流れを外部から詳細に知ることはできない。体内に存在する魔力は純粋な状態のままで、いわば透明な状態だからだ。ところが、特定の薬草を複数配合することで体内の魔力を特徴付けることができることがわかった。分かりやすくいうと魔力に色をつけることができるのだ。これにより体内の微妙な魔力の変化を知ることが出来る。そこで、母から教わった秘薬作りの技術を活用し、僕はこの秘薬を作り上げた。
これにより、患者の体内の魔力の流れを読み、繊細な治癒魔法の行使が可能となったためより効率的な治療が可能となった。通常の秘薬が強い魔力を持つ薬草・霊薬などを用いて強引に治癒魔法の効果を底上げするのとは異なり、全く反対のコンセプトに基づいて作られた僕特製の秘薬である。通常の秘薬と異なり、魔力を帯びた希少で高価な薬草を用いる必要がないので、非常に経済的で重宝している。
そして、この秘薬を飲んだカトレア様に対して、僕は彼女の体内の魔力の流れを詳細に調べるべく、もう一度彼女に対してディテクトマジックの呪文を行使した。
(これは…一体どういうことだ!?明らかにこれは人の身体が許容できるような魔力の量じゃない。こんな大きな魔力が体内を流れていたら身体が耐えられるわけないよ。なるほど。魔法を使うと体調を崩してしまうのは、魔法の行使により体内の魔力が活性化して身体に負担をかけてしまうからだろうね)
僕は彼女の現状を確認し、カトレア様の傍らで腕を組み、頭を捻りながら黙々と治療方法を検討していると彼女は突然、寂しそうな陰を顔に落としてから喋り始める。
「大丈夫よ…。今まで何人ものお医者様が私の身体を見て匙を投げて行ったわ。お父様たちも私を見ていつも苦しそうな顔しているの。それに、実は私自身少し諦めているんです…もう私の体が治ることはないのでしょうね」
カトレア様はそう言って俯き、僕から顔を隠すと自分の服を両手できつく握り締めていた。彼女の手は静かに震えている。彼女は自らの境遇の理不尽さに耐えているようだった。
それを見ていた僕はそんな理不尽さに苛立ち、そして力強く言い放つ。
「大丈夫です。僕が治しますから」
カトレア様は驚きのあまり僕を見る。その顔には悲痛の表情が見て取れる。
「大人のお医者様ですら…手も足も出なかったのですよ?それなのに…」
「僕なら治せます、誓いましょう。1年下さい。それであなたの身体を治してみせます」
「で、でも!」
「大丈夫です。今までカトレア様は病気と不安できっとたくさん苦しみ続けてきたのでしょう?でも、もう大丈夫です。もう苦しまなくていいんです。僕を信じてください、あなたは僕が絶対に治してみせますから」
そう言って、僕は彼女ににっこりと笑って見せる。すると、カトレア様の目からは突然涙があふれ出してきた。そして耐えられなくなり、顔をくしゃりと崩すと僕の胸に顔を押しつけ、今まで溜め込んできたものをすべて吐き出すように大きな声をあげて泣き始めた。
こういうときどうすればいいのか。恋愛経験に乏しい僕はとにかく彼女を安心させようと、そんな彼女を軽く抱きしめると、無言で泣いている彼女の頭を優しく撫で続けた。
「…ごめんなさい。恥ずかしいところをお見せしてしまって」
目を真っ赤に腫らしながら、彼女が恥ずかしそうな顔で僕に謝罪の言葉を述べる。
「いえ、カトレア様はきっと今までずっと辛い思いをしてきたのでしょう。私の胸でよければいくらでもお貸ししますよ」
そう言って、僕は彼女の目元に残った涙を持っていたハンカチで拭いてあげた。
「…カトレア」
「えっ?」
「カトレアと呼んで欲しいの」
「ですが…」
「私はあなたにそう呼んで欲しいの。それから敬語もいらないわ、ダメかしら?」
「ダメではないのですが…。えっと…カトレアさん?」
「『さん』もいりません」
彼女はかわいく頬を膨らませている。僕はそんな彼女の年齢に不釣合いなかわいらしさに触れて、顔をほころばせる。きっと今まで強がって生きてきたのだろう。
「じゃあ、カトレア?」
「はい」
そうやって、彼女は少し顔を赤らめながら嬉しそうに笑っていた。僕は彼女の笑顔に引き込まれないように気をつけながら、これからのことを話し始める。
「カトレア。僕はカトレアの治療のためにしばらく準備をしなければならない。準備が終わったら手紙を書くから、そのときはヴァリエール公爵様に取り次いでもらえるかな?」
「わかったわ。お父様には私から話しておくわ」
「じゃあ、僕はこれで失礼するよ。夜分遅くに女性の寝室にあまり長くいるのも問題だからね」
「あら、私は別に構いませんのに」
そうやってからかうカトレアに、僕は照れ隠しに頭を掻いた。
「えっと、そういうわけにもいかないよ。それじゃあまたね、カトレア。必ず手紙を出すよ」
「ええ、シリウス。待ってるわ」
そういって、部屋から出て行く僕をカトレアは嬉しそうに見送ってくれた。ただ、その目は少しだけ寂しげだった気がする。
僕がようやくヴィルトール家に与えられた客間に戻ると家族のみんなはすでに戻ってきていた。ナタリアからはどこに行っていたのか厳しく追及されたが、話すのはなんとなく憚られたので誤魔化しておいた。ナタリアはそれでは納得しなかったが、フランになだめられてしぶしぶ引き下がってくれた。
シリウスが去ってしばらくすると、カトレアの部屋に小さな来訪者がやって来た。
「ちい姉さま」
池でのシリウスとの一件の後、自分の誕生日会を途中で抜け出したルイズは母のカリーヌからお叱りを受けていた。ようやくそのお叱りから開放されたルイズはやっとの思いで大好きな姉のカトレアのところにこうしてやってきたのだ。ルイズはカトレアを昔から「ちい姉さま」と呼んで、とても慕っていた。
「あらあら、私の小さなルイズ。またお母様に叱られていたみたいね?」
そして姉のカトレアもこのかわいい妹を「小さなルイズ」と呼んで、とてもかわいがっていた。二人はとても仲の良い姉妹なのだ。
「うぅ、パーティーに疲れたからちょっと抜け出して庭の池に…」
「ふふ、あなたは何かあるといつもあそこに行くものね」
「もう。ちい姉さまったらからかわないで下さい」
「それでどうしたの?なんだかとっても嬉しそうよ」
カトレアは怒られたばかりにもかかわらずとても嬉しそうな表情の妹の様子を見て、何かあったのだろうと悟った。カトレアは昔から勘所が良く、人の考えごとがなんとなく分かってしまうのだ。病気が長く、多くの人の顔色を伺ってずっと生きてきた彼女の悲しい特技ともいえる。
「えっと、池で男の子に会ったのですが、すごく魔法が上手で。魔法で池に雲みたいな霧を出したかと思えば、月明かりの中の霧の海を小船を魔法で浮かべて散歩してきたんです。とってもきれいでした」
「あら、なんだかとっても素敵ね?」
「はい」
ルイズはそう言って嬉しそうに笑った。それを見たカトレアはあることに気づいてルイズに問いかける。
「つまり、ルイズはその男の子に一目惚れしてしまったのね?」
「そそ、そんなじゃありません!!」
あたあたと慌てて、ルイズは顔をかわいそうなくらいに真っ赤にして両手を左右にぶんぶん振りながら必死で否定した。
「あら、そうなの?」
「全然、違います!!」
「ふふ、彼の名前はなんて言うの?」
「ひ、秘密です」
耳まで真っ赤にして俯いてしまったかわいい妹をからかいながら、カトレアは楽しそうに笑っていた。
「ルイズ。私もね、とってもいいことがあったのよ?」
「何があったんですか?」
姉の意外な発言にルイズは驚いた。彼女の嬉しそうな顔を見ると自分のことのように嬉しい気持ちがこみ上げてきた。
「ふふ、私も秘密です」
「そんなぁ…今日のちい姉さまは少しいじわるです」
「あら、ルイズも人のこと言えないでしょう?」
「むぅ…」
ルイズは姉の言葉に頬を膨らませる。仲良しのヴァリエール姉妹は、そうやって楽しそうに無邪気に戯れていた。さすがのカトレアもルイズの出会った少年がシリウスだとは、まだ気付いていなかった。