乙が帰国したのは、その数日後だった。
その日、新人達は見えるか見えないか位の遠い位置で乙を迎えた。
ドアが空き、今井の第一声が響く。
｢お帰りなさいませ｣
そして他の使用人と共に、瀾も一礼をし乙を迎えた。
｢お帰りなさいませ、乙様｣
｢…ああ｣
一礼をしながら、ちらりと視線だけ乙に向けたが角度的に腰の辺りが微かに見えただけだった。
乙が聖慈と共に部屋へ向かっていくと瀾達は、業務に戻るため各自散らばった。
廊下を歩きながら留奈が話し掛けてくる。
｢ねぇ、乙様見えた？｣
｢ううん、全然｣
｢アタシも。
あんなに後ろじゃあ、見えるわけないっか｣
｢そんなに見たかったの？｣
｢だって、あんな写真みたら実物見たくなるじゃない？｣
｢…私は、別に…だって…｣
未だに【遊び人】のイメージが抜けない瀾は、少し怪訝そうに答えた。
『…だって、嫌なものは嫌なんだもん。
はぁ、そんな人に奉公するなんて、これから憂鬱…』
軽いため息混じりに、瀾は仕事に戻るのだった────
嫌いなタイプのはずだった。
恋人もいるのか、いないのか解らない。
きっと傲慢で身勝手で手当たり次第自分の手に収めて。
『なのに…。
そう思っていたのに実際にあった乙様は少し違った。
絶えず女性のエスコートを忘れない人だった。
絶対に好きになる事はないと…
なのに…。
あの人の温もりが無くなっただけで、こんなに苦しい…』
顔を覆い、瀾の瞳から止むことのない大きな雫は、胸の痛みとリンクして、さらに大きな雫が降り注ぐ。
タブー…
瀾はやっと気が付いた。
乙に対してのタブー…
それは『愛という表現』だと。
【愛している】と言った瞬間の乙の瞳の色が一瞬にして変わった事が何よりの証拠だろう。
『私は、なんて事を言ってしまったんだろう…。
あんな事さえ言わなければ、今この瞬間も乙様と一緒にいれたはずなのに…』
瀾は自分を恨まずには居られなかった。
ただ後悔で泣いている事しか出来ない自分を。
そして、乙を好きになってしまった自分を。
心臓がわしづかみにされるような胸の苦しみが治まる気配すらなく。
好きにならなければ…
本気にならなければ…
こんなに苦しまずに済んだ。
本当は、解っていたのだ。
自分が暇つぶしの遊び相手の１人だったことくらい。
こんなに苦しくなる前に、あの冷たくされた時に諦めれば良かった。
馬鹿みたいに一時一時が幸せであの人の傍にいれたら、あの人が自分を愛してくれたら、そんな甘い夢を見てしまった自分。
瀾に向けられた乙の笑顔が…温かく、優しい手がいとおしくて、いつまでも一緒に居たいと…
いつか結ばれたいと思ってしまった。
無理だと解っていたはずなのに。
所詮、乙と瀾は名家の娘と使用人。
近くに居る事は出来ても結ばれる事はない。
『それでも…言ってほしかった。
好きだと…愛してると。
一時の夢でも、あの人の口から聞きたかった…。
あの人の声で…。
苦しい…苦しいよ…乙様…』
激しく肩を震わせヒクヒクと泣く瀾の気持ちに同調するように、いつしか窓の外は雨を誘い、大雨が降り注いだ。