小説『アールグレイの昼下がり』
作者:silence(Ameba)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>


──廊下を歩く乙は、片手をポケットにしまい、厨房をノックして少し開けると軽食を頼む。
出来上がった軽食をカートに載せ、ふと廊下の窓を見た。
 
「…雨…?」
「…風邪をひくわよ?」
「…!!!」
 
一瞬、聞き覚えのある声が聞こえた気がして振り向いたが、誰もいるわけがない。
 
「鈴音…」
 
物悲しい表情を浮かべ、雨をしばらく見つめていた。
初めて鈴音[リンネ]と出会ったのも、こんな雨の日だった。
荒んで遊び歩く乙が唯一、心を許した女性。
だが彼女はある日、忽然と乙の前から姿を消した。
一通の手紙を残して…。
最初は、鈴音を探すため手を尽くし、いつか帰ってくると信じていた。
しかし、鈴音から連絡は無かった。


『こんな想いをするくらいなら、もう二度と人は愛さない』


乙は、また心を閉ざすようになった。
鈴音と出会う前と変わらず、ラブペットを作り…。
それは今も変わらない…。
人を愛する恐怖、痛み、苦しみ…
乙には愛は苦痛でしかない。
 
「…ッ」


『未だに何処かで期待しているのかもしれないな…。
いつか…
帰ってくるかもしれないと…
そんな事、あるわけない。
鈴音は…もう…』


亡くなったと風の噂で聞いたことがある。
何故かそれが納得できた。
何の根拠もなく、それが何故なのかは解らないが…。
多分、鈴音は二度と乙の元には帰らない。
そんな気がしたのだ。

雨音が乙の闇の部分に溶けていくようだ。

「乙…愛してるわ」

鈴音の声が雨音に混じり存在しているような錯覚さえ生まれる。
乙は、深いため息と共にまた廊下を歩きだした。

部屋に戻るとひんやりとした空気と共に重苦しい空気が漂っている。
寝室に行くと勿論、その原因と言えるものが膝にシーツをかけ、体育座りにうずくまりヒクヒクと大きく震えていた。

「…風邪をひくぞ」

そう言うとポフンと瀾の頭に手を置き、ベッドに腰を掛けた。
よほど泣いたのだろう。
白兎のように赤く瞳を腫らして、半ば怯えた弱々しい表情を浮かべ瀾は乙を見上げた。
その表情が過去の鈴音と重なる。
乙は少し物悲しい表情を浮かべ、そっと瀾を抱き締めた。
 
「体が冷えきっている…」
「…ヒック…ヒッ…」
 
抱き締めた腕に力が入る。
乙は、過去の鈴音の温もりと、瀾の肩を重ねていた。

『そう…これはきっと…
雨のせいだ…』

そう想いながら…──



もう…元には戻れないかもしれない。
【愛している】その言葉を口にした瞬間から、この後悔は戻れない所にまで来ているのかもしれない。
瀾は、ベッドに突っ伏するように膝を抱え、泣いていることしかで出来なかった。

「…風邪をひくぞ」

不意に乙の声と共に、頭に乙の手の平が乗った。
ビクンと一瞬震えたが、来るはずのないと思っていた乙の温もりに、恐る恐る顔を上げた。
勿論、ここは乙の部屋だから、いつかは戻ってきていたかもしれない。
しかし、瀾が居るうちに戻ってくるとは思いもよらなかった。
不意に体を引き寄せられ抱き締められる。

「体が冷えきっている…」
「…ヒック…ヒッ…」

力強い乙の腕に身を委ねている自分が信じられないとさえ想ってしまう。
乙が、静かに小さく口を開いた。

「今は…まだ、言えないんだ」
「ヒック…?…ヒック…ック」

ヒクリという自分の声に瀾には、乙が何を言ったかは耳には届かなかった。
その後、瀾の肩がこれ以上、冷えないようブランケットを肩に掛けた。
不意に乙の手が瀾の手をすくい、ポケットから瀾の手の上にそっと置かれた。

瀾の手の平に置かれたもの。
それは携帯電話だった。

「…ック…これ…は?ヒック」
「…それがあれば、電話くらいは出来るだろ…」

どこか寂しそうな位、静かな声で淡々と応える乙。

「…どうして…ですか…?」
「…べつに…」
「……」

一途な想いと過去の幻影。
瀾と乙の距離は手を伸ばして、届く位置にはいなかった。
重い空気を破ったのは、乙だった。

「瀾、何か食べたほうが良い」
「はい…」

一旦流れた重い空気は、そう簡単には晴れることはない。
乙は瀾の髪を撫でると、じっと見つめた。
スルリと乙の指を通る瀾の髪。
完全に瀾の髪が滑り落ちると瀾は、乙の手に触れた。

愛しむように瀾の指が動く。
細く滑らかな乙の指…
瀾は小さく口を開いた。

「遊びでもいい…
今だけ…ほんの少しの間…
夢を見ても…良いですか…?
乙様のお側に…」
「…瀾…」

乙の首に手を伸ばし、寂しげに見つめた。
2人の唇が触れ合うと、瀾の瞳からは一筋の涙が零れた。

それは…嬉しさと虚しさと胸の痛みが交ざったものだったのかもしれない。

-88-
Copyright ©silence All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える