小説『Eine Geschichte』
作者:pikuto()

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「さて、私に何の用かね」

コッペリウスの腰掛けた椅子が、ぎしりと軋んだ。
机に肘を立て、くたりと下げた手に頬杖をする。
そしてその目はソファの隅に座る私を冷たく見つめていた。

その目に睨まれた私の額にひたりと嫌な汗が流れた。
恐怖からくるものでは無い、何か嫌な感覚をひしひしと私の体に直接刺しこむような目。
気がつくと、私は思わず手をぐっと握りしめていた。
ふっとその手の力を抜き、静かに落ち着いてから、私は話を切り出した。



「…ドロッセルマイヤー」


小さく私はつぶやいた。

しかし、コッペリウスはその言葉を聞いた途端、驚いたようにぴくりと目を開き、頬杖していた手を下げ、ふと顔を上げた。


「あの人がここに来たと聞いたのだけど」


ぎしりと、椅子がまた音を鳴らした。
ゆっくりとコッペリウスが椅子の背もたれにもたれかかり、何か喋る事も無く、静かにため息をついた。
だが表情はどこかしら焦っているような、迷いのある表情になっていた。


「…単刀直入に言うわ。私はあの人を探しているの。何かあの人の事を知っているのであれば教えて」



沈黙が流れた。

コッペリウスは何も喋ろうとせず、しかしその表情だけは何か迷いが見られた。
私は静かに追いうちをかけるように睨みつけた。

コッペリウスは深い、深いため息を一つついた。
そしてすっと顔を上げ、閉じていた口をようやく開けた。





「…奴は、確かにここに来た」






あの人は、ここに来ていた。

来ていた。


ただそれだけの事なのに、心から嬉しさが溢れた。
ふらふらとした足取りが、小さなきっかけでしっかりしたものになり、今この瞬間それは確かなものになった。
それだけだ。本当にそれだけだが、私にはこれ以上ない幸せに感じた。



「…しかし娘、どうして奴を探している?」




だが、そんな喜びを感じる余裕を与えないとでも言いたいように、先ほどまでの迷いの表情が完全に消えているコッペリウスは、少々きつい物言いで今度は私に質問してきた。
その目はまた冷たく、真っ直ぐに私を睨みつけていた。


しかし私はその目に再び怖れる事は無く、静かに『本』をかばんから取り出し、ぱさりと膝の上に置いた。


「その本は何かね」

「わからない。でもあの人自身が書いた部分があるから、たぶん…」

コッペリウスの目が一層きつくなった。
同時にその表情には再び迷いが見られるものになっていた。


「何故そんな物を持っている?」

「…これだけ残して、居なくなったから。これしか無いから」


途端に、彼はぐっと身を前に乗り出した。
机にがっしりと手をかけ、椅子と机を激しく軋ませ、迷いのある表情は驚きと焦りをおおいに隠せない表情へと変貌していた。
そして、溢れる驚きを底から出すように声をあげた。



「一体…さっきから探してるだの何だのと…それにその本、それだけ残して居なくなったとはどういう事だ!?奴の、ドロッセルマイヤーの書いた本だと言うのなら、それだけでどれだけ重大な物か!そんな物をどうして持っている?…お前は一体、何者だ…?」


老人の目が、まるで得体のしれないものでも見るかのような目で私をまじまじ見つめていた。
思い切り身を乗り出し、今まで色んな事象を写してきたであろう年季の入った目を大きく開けて、私だけを真っ直ぐに見つめていた。
そのあまりの様子にさすがに私も驚き、びくりと体が無意識に強く震えた。
一気に額から冷たい汗が湧き出てくるのを感じた。

だがコッペリウスはそんな私の様子などお構いなしなのか、目線をぴくりともずらすこと無く私を見ていた。

…もう、ここまできたらおかしなごまかしは無駄だろう。
コッペリウスには全てを語る必要がある。


額を流れる嫌な汗の感触をじわりと感じながら、私は静かに口を開いた。



「…私はアイネ。私はあの人と…ドロッセルマイヤーと、暮らしていたの」



絞り出すように、消えそうな声で、私は静かに答えた。





コッペリウスは何も言わず、だがひどく驚いている様子だけは分かった。
絶句、と言った方が正しいだろう。
驚きすぎて何も言えない様子だった。


だが、私はそれがきっかけと言うべきか、ぽつり、ぽつりと少しづつ漏れだすように、私の口は驚く老人に向けて自然と色んな事を話していた。



いつからか分からないがあの人と暮らして来た事。
何故探しているのか。
どうしてここに来た事を知ったか。




コッペリウスはその間、驚いた様子しか見せなかった。一言も話さず、一言も聞き逃してなるものかとでも言うように、私の話に食い入っていた。
それ程までにこの老人にとっては言葉を失う事だったのだろう。
私にとっては日常が非日常に変わってしまった事なのだが。



全てを話し終わるころには、少し空が明るくなりかけていた。



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