小説『支社から来た使者は死者だった!?』
作者:(没さらし)

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「あの魚、綺麗ですね♪ あっちの細長い魚もカワイイ!」‘ししゃ’がガラスに張り付いて黄色い歓声を上げる。
 僕たちの家から最寄りながら結構大きな水族館。僕たち三人はそこに来ていた。
 薄暗い館内に水槽からの照明が水の色を伴って、青く僕たちを染める。大きな水槽は壁一面にガラスの側面があって、そこから様々な種類の魚が思い思いに泳ぐのを見ることができる。
 僕ははしゃぐ‘ししゃ’を温かく見守っていた。今の‘ししゃ’はあのときの思い詰めた顔も血の気を失った顔も、どちらもしていない。ただの年頃の魅力的な女の子。そう思える。
 ‘ししゃ’が顔をガラスにくっつかんばかりに近づけていると、数十センチほどの魚がそこに寄ってきた。‘ししゃ’はその魚に、口を閉じて頬を膨らませた顔を作ったり、口をすぼめて寄り目にしたりと、次々に変な顔を披露していた。それに呼応するかのようにますます魚が集まる。‘ししゃ’は堪えきれないといった感じで顔を大きく崩して隣の僕に顔を向けた。薄暗い青に照らされた太陽のような笑顔。やっぱりそれは十分すぎるほど魅力的だった。
「今日は連れて来てくれてありがとうございます。本当に楽しいです」
 ‘ししゃ’は水槽に向き直ってから小さな声で言った。その横顔はやっぱり笑顔。それに僕は僅かに頷いて応えた。
 あの襲撃があった後、‘ししゃ’が落ち込んでいるような気がして、僕と美穗で‘ししゃ’を連れて気晴らしに行こうと言うことになった。それで水族館を選んだのは美穗。‘ししゃ’も他に人がいるところなら襲われる可能性も少ないという僕の説得を受け入れてくれた。低く飢えた獣のような声がどこからともなく聞こえてくるような気もするが、それは敵襲とは関係ない。
「あっ、あの赤い魚ってタイですよね。ゆったり泳いでいて貫禄ありますね」
「グッヘッヘッ、あのタイは身が引き締まっていそうだな。やっぱり刺身かな。あの淡泊な味がたまらん。グッヘッヘッ、考えただけでよだれが出てしまう」
 タイを指差して華やいだ顔を見せていた‘ししゃ’が、その直後に辺りに響いた獣の声に引きつった顔になる。そっと獣を窺ってから僕を見る。
「気にしちゃダメだよ。他人の振り、他人の振り」
 僕は‘ししゃ’に耳打ちした。‘ししゃ’は戸惑いながらもう一度獣を見る。そして苦笑を浮かべて一つ頷いた。
「あっ、あの妖精みたいのってクリオネですよね。カワイイ!」
「グッヘッヘッ、あのクリオネは生でポン酢につけたらいけそうだな」
「あっ、あの伊勢エビ、今ハサミ持ち上げて威嚇のポーズとりましたよ。こんにゃろ。負けないぞ!」
「グッヘッヘッ、伊勢エビはしゃぶしゃぶでもいけるらしいな。でもあのプリプリとした身を楽しむには茹であげるのが一番」
「あっ、あっ、あぁ〜!!」
 ‘ししゃ’の純粋な心が獣の邪悪な心に挫けた。まあ、最初は誰もがぶつかる壁だ。美穗と一緒に水族館に来る誰もが。
 思い返してみれば、魚が好きだと言う美穗を少ない小遣いを奮発して水族館に連れて行った幼いとき。魚が好きということが食用としてということであることが想像できなかった子供時代に、トラウマになりそうなくらいの衝撃を味わった。
 高笑いをしながら半眼で魚の値踏みをしている美穗から‘ししゃ’に視線を向けると、目に涙を浮かべてうなだれていた。
「あ、あのね、ああいう奴も世の中にはいるよ。でも世の中の大半は‘ししゃ’さんみたいな人だから。だから安心して」
「いえ。私も魚食べるし分かるんですよ。美穗さんの気持ちも。でも何て言うか、あんなカワイイまま動いているのをみて嬉しかったのに……」
 必死にフォローを入れた僕に、‘ししゃ’は噛み締めるように言葉をポツンポツンとこぼす。青白い光で照らされた、力が抜けきったような哀しい顔が、先ほどまでの明るい顔と対照的だった。それを僕は何だかうらやましいなと思えた。

 空を見上げると所々雲はあるものの、晴天と言えるものだった。水面を叩く音がしてこちらまで水しぶきがかかる。左隣でキャッーという黄色い歓声が飛んだ。水族館の屋外プールの観覧席に僕らはいた。
「イルカは普通に好きなんですね」
 右隣の‘ししゃ’が腑に落ちないという声で僕に耳打ちした。
「当然じゃない。イルカは食べないでしょ」
 美穗は声が聞こえたのか、ふくれた顔で言った。
「その論理でいくと、牛や豚や鶏はカワイイとは思えないみたいだけどね」
 水筒で持ってきたお茶をすすりながら僕はポツリと言った。
「何言っているの! 牛や豚や鶏は生で見たらカワイイじゃない!」
 美穗が少し怒ったような声になる。理不尽な言いがかりを付けられたように彼女の頭の中では変換されたのかもしれない。僕は小さく溜め息をついて、目の前で繰り広げられるイルカのショーに視線を戻した。
 輪を持った人が、それを水上に掲げる。イルカが次々に水面から飛び上がってその輪をくぐる。イルカが飛び出すたび、イルカが着水するたび、水しぶきが上がって、日の光がそれに当たってキラキラと輝いた。
 突然右隣からも黄色い声が飛ぶ。ようやく‘ししゃ’も心からこのショーを楽しみ始めたみたいだ。さっきの力無く哀しそうなのもそれはそれで良かったけど、やっぱり‘ししゃ’は明るいのが一番だ。
 空をもう一度見上げると、晴れは晴れだけど雲がずいぶん多くなっていた。だけどその雲の白さは青をバックに、より際立っていた。 

「うん? 食べないの?」
「いえ……、私はちょっと」
「僕は玉子だけだけど、いちおう食べているよ」
「おおっ! タイが回ってきた! 水族館で見たときから食べようと思っていたのよ♪」
「……」
「……」
 豪快に次々と回ってくる皿を抜き取って平らげていく美穗を見て、‘ししゃ’が引きつった笑顔になっている。僕はお茶をズズッとすすった。
「あの、いつもこうなんですか?」
「うんまあ、美穗と水族館に行くとその後に必ずこうして回転寿司にくるよ」
「はぁ」
「まあ、僕はさすがに魚は食べられなくて、玉子とガリとお茶だけになるけどね」
「そうですよね。さすがに魚食べられないですよね」
 ‘ししゃ’が我が意を得たりと少し嬉しそうな顔になった。美穗は僕らの小声のやり取りに気付いていないのか、気付いていても無視しているのか、鼻唄を歌いながらまた流れてくる皿を抜き取っている。
「‘ししゃ’さんも魚は無理でもそれ以外のものは食べられるでしょ? 遠慮しないで食べてよ」
 僕はお茶をすすりながら‘ししゃ’に勧めた。‘ししゃ’は少し返答に困ったように言葉をすぐに返さなかった。それが気になって、僕は‘ししゃ’に向き直る。僕の視線に気付いた‘ししゃ’が寂しそうに笑って言った。
「私は今食べられないんです」

「食べられない?」
「ええ。ちょっと体の調子が悪いんで控えなければいけないんです」
 ‘ししゃ’の返答に襲撃の日の青白い顔と冷たい体温が思い出された。今さらながらあの顔色と体温は決して気のせいではなかったんだと思い知る。沈黙になってしまうのが恐くてまたお茶を大きな音を立ててすすった。
 クスッと‘ししゃ’が鼻を鳴らした。それに僕はできるだけ優しい笑顔を作って応える。
「会長って良い人ですよね」
「えっ?」
「私、会長みたいになりたかったな」
「えっ? 僕なんていつも落ち着き過ぎだとかで、おじいさんとか終わっているって言われるんだよ」
「クスッ。会長はおじいさんでも終わってもいませんよ。それに落ち着いてはいるけど過ぎているとは思いません。少なくとも私の前では」
「そうそう。和也って‘ししゃ’さん来てから変わったよね。でもやっぱり歳不相応に落ち着き過ぎだけど」
 美穗が話に口を挟んでまた寿司の皿が流れてくるレーンに目を戻した。相変わらず魚に夢中のようだ。
「僕は‘ししゃ’さんがうらやましいな。‘ししゃ’さんみたいになりたい。僕にはないものを持っていてさ、何て言うか感情表現が豊かでね。見ていて微笑ましいって感じで」
「落ち着きがないとも言いますよね」
 僕の言葉に‘ししゃ’がおどけて答えた。僕も自然と顔が崩れる。
「でも」‘ししゃ’が僅かに真面目な目つきになって続けて言う。「私はやっぱり落ち着きがあって、どんなことにも穏やかな会長がうらやましいです」
「えっ?」
「うらやましいです」
 戸惑う僕に‘ししゃ’は繰り返す。その口元は笑っていた。でも瞳は簡単に受け流せないものをたたえていた。簡単に受け流せないものを。

 日が落ちないうちに家路についた。もちろん襲撃を警戒してのことだ。それでも人気のない通りに入ったところに黒のサングラスに黒の上下の服が5セット。まだ十分明るい昼間で、こんな路地でも人が通ることもかなりの確率で起こるのに。待ち構えていた男たちの指令を出している団体とTG社の間のもめ事が佳境を迎えていて、手段を選ばなくなってきたのかもしれない。
 ‘ししゃ’は前のときと同じように手で後ろに下がるように合図を送ってきた。僕と美穗はそれに従う。だけど前のときとは違う。‘ししゃ’の背中から感じていた安心を抱けないのだ。何が違うのか。それは僅かな仕草の違いなのか、前の襲撃直後の体温と顔色を知ったせいか、それとも‘ししゃ’が時折見せる憂いに気付いたせいかは分からない。
 男の一人がけたたましい声を上げて、‘ししゃ’に飛び掛かった。すぐに大きな音がして男を倒す。だけど、それは以前とは違っていた。消えるように見えていた‘ししゃ’の動きは目で追えるようになり、大の大人をはるか遠くに吹き飛ばすことができたパワーがその場で倒れ込ませる程度になってしまっていた。前の襲撃のときに感じた違和感。それは‘ししゃ’の戦闘能力の衰え。前は気のせいだと感じたものが、今回はハッキリと確信が持てる。何が原因かは分からない。でもそれは‘ししゃ’自身も気付いている。ときたま見せる憂いがその証拠だ。
 ‘ししゃ’に男の一人の得物が当たる。腕で受け止めているが前では考えられないことだ。受け止める必要がないくらいにその動きはとてつもなく速かったからだ。
 鈍い音が辺りに響いて最後の一人が倒れ込む。‘ししゃ’がゆっくりと後ろを振り返って笑顔を向けてきた。だけど僕と美穗は以前とのあまりの違いに言葉を発することができない。‘ししゃ’は荒い呼吸で肩を上下させている。でも汗の一つも浮かべておらず、顔色は昼間のまばゆい太陽の明かりに不釣り合いなほど青白い。
 何もしゃべれない僕と美穗に‘ししゃ’は悲しそうな顔をした後、儚げに笑った。太陽の明かりに包まれた青白い顔にその笑顔。どこか現実味がわかないその光景は、美しかった。

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