小説『支社から来た使者は死者だった!?』
作者:(没さらし)

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 墓地から二人して家路につく。駅までの道、電車の中、僕たちは会話らしきものを交わすことはなかった。何を話せば良いのか分からなかったのが理由だけど、‘ししゃ’の方も口を開かなかったのは違う理由からかもしれない。
 家の最寄り駅で電車を降りて家まで歩く。時間にして10分少々の距離。途中、60代くらいの主婦らしき女性が僕たちの脇を通り過ぎようというときに大きな声がした。
「麻衣子さん、財布忘れているよ!」
 その声に女性が振り返る。そして顔を崩す。声の主はこれも60代くらいの男性。女性に向かって走り寄ってくる。息を切らしながら、財布を高く掲げて。その顔もやっぱり笑顔だった。
「あなた、ありがとう」
 女性は感謝の言葉を述べて財布を受け取る。男性はそれに照れくさそうに頭の後ろを掻いてから「じゃあ」と言って来た道を小走りに走り去っていった。女性もゆっくりとした動作で男性と反対方向に歩いて行った。
「何か良いね」
 ポツリと僕は言った。
「そうですね。何か微笑ましくて」
 ‘ししゃ’も頷く。
「夫婦なんだろうね」
「そうでしょうね」
「うらやましいね」
「えっ?」
「何て言うか、あの二人がうらやましいなって」
 僕の言葉に‘ししゃ’が顔を向ける。その顔には驚きと戸惑い、そして頬の赤さが示すものが表れていた。僕は‘ししゃ’に告げる言葉を整理する。
「‘ししゃ’さん。僕は‘ししゃ’さんに言いたいことがあるんだ」
 僕の言葉に‘ししゃ’の目が大きく見開かれる。まだ太陽が高いが、春先で柔らかい陽光が‘ししゃ’と僕を包む。アスファルトと道の両端のブロック塀が白っぽい色に見える。空は僅かに雲がかかるまっさらな青空。
「‘ししゃ’さん。僕は‘ししゃ’さんのことが――」
 ‘ししゃ’の上気した顔がさらに赤くなる。
「いや、‘ししゃ’さんじゃダメか。僕は――」
 僕がそこまで言ったところでいくつもの足音に言葉を切る。その音の方向を見ると黒ずくめの男たちがこちらに向かって走ってきていた。

「逃げよう」
 僕は小さく鋭く言って、‘ししゃ’の手を掴んで走り始めた。黒ずくめの男たちも何やら声を上げながら、僕たちの跡を追う。待ち伏せされていたのだろう。考えてみたらもっともなことだ。たとえ授業時間の途中で抜け出しても、変装してうまく誤魔化せても、家の周りに張っていれば必ず僕を押さえることができるのだから。
 それにしても、黒ずくめの男たちの数が多すぎる。以前の襲撃はだいたい五人程度だったのが十人以上いる。これだと今の‘ししゃ’だと厳しいかもしれない。それに家の周りに張っているのなら、家までの幾つかの道で張っているなら、もっと分散するはずだ。なのにこの人数ということは。そこまで考えて寒気がした。後ろに迫ってくる足音がずいぶん近くなったような気がした。

 足音が通り過ぎていく。細かい路地に入っていって飛び込んだ空き地の藪の中。そこに僕たちは潜んでいた。足音が遠のいたことで僕は安堵の溜め息をつく。‘ししゃ’も同じように溜め息をつく。左手の冷たすぎる感覚。これだけ走って、息絶え絶えになっても、‘ししゃ’は汗一つかくことなく、その右手は冷たいものだ。
「行きましょう」
 ‘ししゃ’はそう言って立ち上がる。僕もそれに続く。でも空き地の出口に近付いたところで、‘ししゃ’の上体がフラフラと揺れた。下半身も千鳥足のようになり、崩れるように倒れ込む。僕は慌ててその体を支えた。そしてその体のあまりの軽さに驚く。こんなに華奢なのに僕を守ってくれていた。その事実が僕を打ちのめす。
「大丈夫です。ちょっと貧血みたいになっていて。少し休めばすぐに直ります」
 ‘ししゃ’の言葉に僕はただ息を漏らすことしかできなかった。

 いくつもの足音が空き地に近付いては離れて行く。黒ずくめの男たちが僕たちを捜し回っている。だからと言って、いつまでもこの藪の中に潜んでいる訳にもいかない。やがて夜が来て、春先とはいえ容赦ない冬の寒さが僕たちを襲ってくる。そうなれば、今の‘ししゃ’の体調だと風邪程度では済まないかもしれない。
 僕は携帯電話を取り出し、杉山君に電話した。こういうときは秘められた権力を持っている彼に頼るに限る。数回のコール音の後、杉山君が電話に出た。
『会長、どちらにいらっしゃるんですか?』
『今は家の近くの路地にある空き地だよ。あの黒ずくめの男たちに追われているんだ。その数が多すぎてどうしようもないんだ。助けをよこしてくれない?』
『会長。落ち着いて聞いてください。連中の団体との問題は今日中に解決します。だから連中は今日、会長を押さえようと全力を尽くしてきている訳です。私の方からもそちらに救援を送りますが、連中の数がとんでもないらしいので何の足しにもならないかもしれません。だから今日だけ。今日だけで良いので、何とか逃げ切ってください』
『逃げ切れって……』
『大丈夫。‘ししゃ’も一緒なんですよね』
『でも‘ししゃ’さんは……』
『もしものときは会長がご自身で血路を開いてください。無責任のようですが、私の言えることはそれだけです』
『そんな、そんなことって……』
 できるわけがないと言いかけた言葉を飲み込む。そしてゆっくりと電話を切った。

 俯かせた顔を上げると‘ししゃ’が優しい微笑みを浮かべて僕を見ていた。
「大丈夫です。会長は何があっても私が守ります」
 今の電話は全て聞こえていたのだろう。僕は拳を握り込んだ。
「私が連中を引き寄せますからその隙に逃げてください」
「えっ?それじゃ、‘ししゃ’さんは……」
「私は大丈夫です。さっき、約束してきましたし」
「約束?」
「体の人のお墓で。もらった命を会長のために使うって」
 一際強い風が吹いて藪が揺れる。ガサガサと音を立てて。だけど‘ししゃ’の言葉はその風に全く揺れない強いものがあった。
「だけど、だけど、そんな……」
「いいんです。せっかくもらった命を他の人のために。いえ、大事な人のために使えるのですから」
 呻く僕に‘ししゃ’は幼い子に言い聞かせるような口調で応えた。僕は拳を強く強く握り込む。爪が手のひらに食い込む。だけど痛いのは心の方だった。

「会長」
「うん?」
「私は――」
「なに?」
「私は会長のことが好きでした」
「えっ?」
「じゃあ、どうかご無事で」
 ‘ししゃ’は青白い顔の頬だけほんのりと赤くして立ち上がった。そして空き地の出口に向かって走っていった。僕はその背中から目が離せない。その背中は路地に出て塀の向こうに消えていく。
「‘ししゃ’さ――」
 最後に見る姿が背中なのが嫌で、声を掛けたくて喉まで出た言葉を飲み込む。ここでそんな軽はずみなことをしたら‘ししゃ’の決意を無駄にすることになる。気持ちを裏切ることになる。
「いたぞ!」
「追え!」
 いくつもの声が‘ししゃ’が消えていった方向から聞こえてきた。空き地から出ると僕は意を決してそれとは反対方向に走り始めた。

 道端で夕日を受けながら遠慮がちに見てきた出会い。最初の襲撃から助けてくれたときの右の顔と左の顔。笑い合った部室。体調の異変を感じた二度目の襲撃。忙しく表情を変えていた水族館。死を感じさせた三度目の襲撃。ゲームのとき脱衣所から聞こえてきた泣き声。一緒に行った墓地。そして最後の告白。
 ‘ししゃ’との短い間でのたくさんの思い出。それが走馬灯のように駆け巡る。足を止めたのは息が上がったせいか、思い出の重さに耐えかねたのかは分からない。
 荒々しい呼吸が静まってきたところで顔を上げると、夕日が照らしていた。その赤さが思い出の赤さと重なる。
「和也!」
 美穗の声が響いた。ゆっくりと顔を向けるとこちらに走ってきていた。
「‘ししゃ’さんは?」
 僕の元まで来てから美穗は訊いてきた。僕はそれに静かに首を振る。
「そっか。でも‘ししゃ’さんって……。杉山から聞いたのだけど……」
 美穗はそう言ってうなだれる。何もできない。それは僕も感じていることだった。
「でも――」
 僕は何故だか口から言葉が出てきた。何もできない。どうしようもない。そして‘ししゃ’の決意を、気持ちを大事にしなければいけないのは分かっている。
「だけど――、本当に何もできないのかな」
 そう言った僕に美穗は怪訝な顔をする。美穗が刃物で刺されそうになったとき。‘ししゃ’が洗面台で泣いていたとき。確かに感じた無力。でも本当に何もできなかったのか。違う。僕は何もできなかったんじゃない。何もしなかったんだ。そして――。
「行かなくちゃ」
「えっ?」
「このまま‘ししゃ’さんを死なせるわけにはいかないんだ!」
 僕は大声を上げていた。美穗が驚いた顔をしている。でもその声は美穗にではなく自分自身を奮い立たせるためのものだった。
 そして僕は走り始めた。元来た道を。それ以上のスピードで。

 左右の家並みが流れていく。息はもう上がっているはずなのに、心の高揚のせいか足がまだ出る。スピードはどんどん速くなる。急がないと間に合わないかもしれない。その気持ちがますます足の出を速くする。‘ししゃ’の告白のときの赤らんだ頬が頭を過ぎる。まだ僕の気持ちを伝えていない。言わなければならないことを言っていない。そして、救えるかもしれない命を救えないかもしれない。
「和也!速い!」
 はるか後方から美穗の声が聞こえてくる。だけど今は美穗を待っている余裕などない。‘ししゃ’と別れた空き地に着く。そこで耳を澄ます。どんなに小さな物音も聞き逃さないように。そして聞き取れた。そんなに遠くないところから殴り合う音が。僕はその方に向かって走り出す。まだ間に合う。そう心を急かして。
 間もなく、行き止まりの路地で黒ずくめの男たちに囲まれている‘ししゃ’が目に入る。ボロボロの姿だけどまだ大丈夫。まだ自分の足で立っている。僕は肺の奥から全部の空気を吐き出す勢いで叫んだ。
「千紗!!!」
 あのとき最後に杉山君から教えてもらった‘ししゃ’の名前。今まで言えなかったその名前をやっと口にしたのだ。

 走ってきた勢いそのまま数人の黒ずくめの男たちの背中に体当たりをして、転げながら千紗の前に辿り着く。
「会長、どうして?」
 千紗が傷だらけの顔に驚きの色を浮かべる。
「千紗! 僕のために死ぬなんて言うな!」
 息が切れ切れで胸が痛い。だけど大声を出さずにはいられなかった。
「でも、私はどうせ死ぬんですよ!」
 僕の声につられたように千紗の声も大きくなる。
「僕は君が好きだ! だから!僕のことを思うなら一秒でも長く生きてくれ!」
「えっ?」
 僕の叫び声の告白に千紗が声を漏らす。だけどすぐに千紗の困惑の顔がほぐれていく。
「会長……」
 僕は千紗の頭を手のひらで撫でるように優しく叩く。そして頬をゆるめる。千紗の顔もみるみる崩れていく。目には涙が浮かんでいる。
「僕が君を守る」
 そう言ってから囲んでいる黒ずくめの男たちを睨みつけた。数が多すぎる。何をやっても無駄だろう。勝機があるとすれば、美穗や杉山君が送ってくれる救援が来たときに今の僕みたいに背後を突く形になることだ。そのためにはそれまでの間、持ちこたえなければならない。僕は腹を据える。たとえどれだけ殴られても倒れない。万が一倒れたとしても立ち上がる。絶対に千紗は守り抜く。
 僕は気合いを込めて声を上げて、男の一人に向かって駆けだした。

 美穗の組み手を思い出して正拳を突き出す。思った以上のスピードをもってそれが相手の腹にめり込んだ。男は呻き声を上げてその場に倒れ込む。横の男が得物を振り回す。それを屈んで躱すとそのままタックルをする。これも思った以上の手応えでまたしても呻き声を残して倒れたまま起き上がってこない。
 僕って実は強かった? 今までケンカをしたことがないから分からなかったが、考えてみたらあの美穗の双子の兄だった。このくらいの実力があっても不思議じゃないのかもしれない。だけど――。
 今ので他の男たちから警戒されたようだ。それぞれ険しい顔をして構えをとった。もうまぐれは通じない。そのとき。
「危ない会長!」
 千紗の叫び声がした。そしてゴッと鈍い音が続いた。
「千、紗?」
 背後から殴りかかってきた男の得物を、僕をかばって受けた千紗が倒れ込む。
「うわ〜!!!」
 僕は絶叫を上げた。

「千紗!」
 僕が抱き起こすと千紗は僅かに呻くように息を漏らした。まだ大丈夫。だけど急いで手当てしないと。黒ずくめの男たちがそれぞれに得物を持って囲みを狭めてくる。僕じゃどうしようもないかもしれない。だけどこのままじゃ千紗が。焦る気持ちが僕の呼吸を速める。
「ふざけるな!」
 僕は怒鳴っていた。黒ずくめの男たちだけでなく自分自身へも。どうしようもないじゃない。どうにかするんだ。僕は千紗を静かに横たえるともう一度怒鳴った。それはもう何を言っているのか自分ですらも分からなかった。そして、僕の中で何かが弾けた。

 自分の体が信じられないスピードで動く。出したパンチやキックがあり得ない衝撃を感じる。吹っ飛んでいく男たちの軌跡を見ると、それは初めて千紗が襲撃者を撃退したときと同等かそれ以上。立っている男たちの姿は次々に減っていく。
「和也!?」
 ようやく僕に追いついた美穗の驚愕の声が辺りに響く。
「ほほう。これは、これは」
 感嘆の言葉を吐く杉山君の小声も聞こえてきた。今の状態は五感もすごいらしい。
「会長にもしものことがあったらと思って、感情が非常に高ぶったときだけに身体能力を伸ばす薬をお茶に混ぜていたのがここで役に立ちましたか。データ班。貴重な実験薬のデータだ。しっかり収集するように」
「杉山、あんた、あのお茶にそんなもん混ぜてたの? どうりで薬っぽかった……。ていうか、実験薬を和也に勝手に使って! それ、人体実験って言うんじゃないの!」
「まあまあ、美穗さん。こうしてうまくいったんだし」
「問答無用!」
「あれ〜!?」
 美穗のあの手刀の突っ込みの音がして杉山君の悲鳴らしきものが聞こえてきた。自業自得だと思う。
 気付けば立っている黒ずくめの男は一人もいなくなっていた。息も全く上がっていない。僕は寝かしている千紗に歩み寄る。そのとき背中に衝撃を受けた。ゆっくりと首を回して後ろを振り返ると、最初の襲撃のときに刃物を使っていたリーダーらしき男。その男がいやらしい笑みを浮かべていた。
 刺された? 美穗の悲鳴が聞こえる。それを右手を上げてなだめる。
 今の僕には刃物も効かない。背中に力を込めたまま体を回転させた。バキッと音がして刃物が折れた。男の顔が強張る。その顔に僕の正拳が飛んで、男は吹っ飛んでいった。

「和也! あんた大丈夫?」
「うんまあ、先っぽしか刺さってないし」
 僕は走り寄ってきた美穗の心配に笑顔を作って応える。どういうわけか、刃物は深く刺さらなかった。今も隆起している筋肉が防いでくれたのかもしれない。
「でも――」
 僕はそう口にしてから千紗を見遣った。美穗も押し黙る。横になったままほとんど動かない千紗。呼吸はしているらしく胸は僅かに上下しているが、顔の青白さは以前見たもの以上だった。
 僕たちは千紗のもとに歩み寄り腰を下ろす。間近で見る傷だらけの千紗の姿が痛々しい。こうなるまで僕たちを、いや僕を守ってくれたのだ。そしてその冷たい手を握った。その氷の手に僕らの体温を移して力を与えようとするかのように。そのとき千紗はうっすらと目を開けた。深い眠りから一時だけ目覚めたようなそんな眼差しで僕らを見る。
「会長――」
「もう大丈夫だから。和也がみんなやっつけちゃったから」
「そっか、良かった」
 そう言って千紗は小さく笑った。力無いその笑顔はますます寂寥感を強めた。僕は千紗の手を強く握る。僕の想いも伝えようと気持ちを込めて。
「もう僕は大丈夫だから。千紗も生きて。僕のために」
 千紗は僅かに頷いた。それからもう少し顔を崩してくれた。青白い顔を夕日が赤く染める。その色で微かに精気が戻ってきたような錯覚を覚える。そして儚げなその笑顔は満面の笑顔とはとても言えなかったけど、やっぱり太陽みたいな笑顔だと思えた。初めて会ったときから変わることのないその印象。僕はその笑顔を一生忘れないと誓った。

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