小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

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「……海乃」

 つい、思わず名前で唱えてしまったよ。

 女の私を殴り飛ばした女の橘は息を荒らげて、仁王立ちで出迎える。

 私は左の頬を押さえながら「……痛い」と訴えたが、橘はそれを容赦しなかった。

「当たり前でしょう?甘えんな!わたしだって痛いんだから!!」

 橘が怒鳴った。こんなに怒った橘は初めてだった。 見れば、殴って赤く腫れた拳を撫で回していた。

 私は……胸がチクチクチクチク傷んだ……

「七恵ん家から俺ん家に電話があってさ、帰らないけどそっちに居ないか……って。俺は……お前がどっか行

く心当たりがあったから、橘ん家に居るって言っておいて……こいつに言ったら、飛び出して来たんだよ。ず

っと待ってたんだよ」

 のぶが口添えした。

 立ち上がって橘に一歩近付くと、また胸にパンチが飛んできた。パンチといっても、今度は勢いも力もな

く、真っ直ぐ拳を胸に翳しただけだったが……胸がはだけちゃってる上に殴られて転んで、またボタンがとれ

ちゃったので、だらしなくしどけなく開いた胸に、拳を通して直接感じた橘の体温が衝撃となって私に響い

た。

 橘の固く握られたげんこつを両手で包むと、払われた。橘は俯いたまま両手で私のブラウスの前を閉じ

て……小さく震える。

「……どれだけ……どれだけ……どれだけ心配したと思ってんの!!」

 外灯の薄明かりにチラチラ光る橘の前髪を掻き分けると、ぐっちゃぐちゃに泣いていた。

 苛めて泣かせたことはあったけど……心配して怒って、こんなにも泣かせたことは、当然だけどなかった。

 こんな時に……何なんですけど……ヤバい……チュウしたい!

 殴られた傷みもどっか行った。

「あの戸川のサルと喧嘩したんだって!?」

 えぇっ!?戸川のサルって…好きな人にその仕打ちは…ほら、のぶが目を剥いてるよ…

「いろんな事、我慢しないでよ!わたしに言ってみてよ!全部、引き受けるから…わたしは七恵が大事だも

の」

 私がいつも橘に思ってた事だ…橘は私の事、ちゃんと見ててくれてるじゃん…橘……海乃……

「ねえ、私の事これからも『七恵』って呼んでよ」

 橘は目をパチクリさせてた。

「あ……戸川くんがそう呼ぶから……間違えちゃった」

「間違ってないよ、だから……私も橘の事『海乃』って呼ばせてよ」

 橘は……海乃は鮮やかに笑う。

「嬉しい。どうして呼んでくれないのかと思ってた」

 私の顎までしか背丈のない橘が、背伸びして私の首に腕を回して抱きついた。

「……良かった。おかえり七恵。遅かったね」

 ポロポロと、ボロボロとこぼれる涙と一緒に、大切なものを抱きしめる。

「ごめん……ただいま、海乃」




 私の居る場所はなくなったりしないんだろう。

 貴女が大切に思ってくれる私を大事にするから。

 貴女が泣く事がないように、貴女が幸せで居られるように、一生をかけても守ってあげる。

 あの時から、私の気持ちは1ミリだって揺らいでいないよ。




 学祭がいよいよ近付いた。クラスが異様な盛り上がりを見せている。

 たかが学祭の演劇って、テキトー気分はあったんだけど……そうも言ってられなくなった。もう、クラス劇

団でも創りかねん勢いだ。

 そんな時に4組のジュリエットが、おたふく風邪になった。なんでこんな時に……!

 今から代役を立てるにも、2クラスでスタッフを持ち回り、満遍なくキャストを配置してある。しかもジュ

リエットなんて大役!セリフと段取りを把握していて、尚且つ本番の役回りが空いてる人間は……ひとりしか

いなかった。

 橘海乃に白羽の矢が立った。

 海乃は初めは随分とごねた顔をしたが、自分が適任だと判断したのか諦めてジュリエットを演る気になっ

た。

 もちろん、のぶは面白くない。元々ジュリエット役の娘はのぶに狂ってるので、断然ロミオを推薦してい

て、彼女から逃げての馬だったのだから。




 たかが学祭の劇。たかが代役ヒロイン。そのはずが、海乃にその異才を放させる場になるのだが。



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