小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

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『いつになれば逢えるのかな……』


 そんな書き出しの物語を写し取った原稿を抱えて、早朝からのぶの部屋を訪ねようとしていた。

 今朝がた私は夢を見た。海乃の夢だった。やっぱりハダカだった……のぶを責められない……。

 起きたらまだ明け方だったけど、鼓動は速く、指先がビリビリとした。

 ……しまった。脳梗塞だ……じゃなくて、居ても立っても居られなくなっていた。身体中がざわざわしてどう

しようもなくて、いつもより3時間も早い電車に乗って、新宿で下りずに、2つ先の中野でおりた。

 のぶのアパートまで歩きながら、ちょっと自分が不安になった。

「……私、まさか欲求不満かしら……」

 いやいやいやいや、そっちは綾で解消してる!……って、我ながらそれは酷い!

 違うよ。

 夢の中で海乃は、笑っていたのにいつの間にか涙を流して泣き出したのだ――だから、不意に気になったの

だ。

 わかってる。

 朝の6時過ぎにのぶの所に来たって、のぶは寝てるに決まってる。

 だけど、ひとりで寝ていて欲しいと願ってるんだ。

 台所の窓から鍵を取って、既に慣れ親しんだ不法侵入を決め込む。……一応、たたきに女物の靴はない。上が

り込んで、にじにじと膝でのぶの寝ている布団までにじり寄っていく。

 思い切って布団を捲りあげたら……!

 パンツ一丁だったが、のぶはひとりで寝ていた。……良かった。

 でも。フワリとほんの少し、いい香りがした。……何だっけ?この香り……のぶからするの?

 クンクンとのぶの身体に鼻を近づけて……髪が胸に落ちたのだろう、ガバッと首に腕を回して胸元に抱き寄せ

られた。また寝ぼけてる?

「……会いたかった……」

 慈しむような優しい寝言に顔を上げると、何とも幸せなそうな和らいだ顔で寝ている、のぶの顔があった。

 髪を撫でるのぶの指から、優しく香る……何の香り?若しくは……誰の香り?

 のぶの瞼が薄く開いて目が合った。

「会いたかった?」

「七恵……が何でいる?」

「今さっき来たから」

「今……朝だろ?何時?」

「6時半」

 のぶの目が見開かれて、またギュッと瞑る。

「バカか!?何でそんな時間から来てんだよ!俺、まだちょっとしか寝てねえのに!」

 その言葉にドキリとする。

「寝たの遅かったんだ……仕事の後、出かけてたの?」

「……うん、ちょっと」

 視線を外したのぶに胸がざわつく。のぶは嘘をついてる時は、私の顔を絶対に見ない。

 ただの……いつもの遊びだよね?

「今日と明日、休みだよね?……私、来ようッか、夜」

 いつもは呼び出すのに……私の方から「来る」とまで言ってしまった。だって、そうじゃなきゃ……

「いや、俺出かけるから……今日」

 のぶは余所を向いたまま、私を押し退けて起き上がった。

「どこに?誰と?」

 掴んだ二の腕の、程よく張った筋肉がビクリと動いたのが手のひらに伝わる。

「……何だよ?店の……ホラ、今度支店出るから下見だよ……店のヒデとな」

 目が游いでるよ……のぶ。そんなの私でなくてもわかっちゃうよ?嘘だって……

「私も……行きたい」

「お前、今から会社だろ?それに……」

 のぶが私の腕を払って、私を見た。

「邪魔すんな」

 冷たい言葉なのに、のぶは優しい顔をしてた。

 ずっとずっと見ていなかった……のぶの素顔だ。



 のぶは、今日は誰かと出かける。



 背中を冷たい汗が伝う……嘘だ。汗なんてかいてないのに、まるで背中が泣いているように冷たい……



 のぶは、今日は誰かと出かける……それはたぶん女で……



 晴香の時なんかとは違う、うっかりでもぐらりでもなく……

 私は泣きたくなっていた。



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