小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

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 駅に着くと、のぶはもう来ていた。

 いつも思うんだけど、青のスカイラインに金のタイヤホイールって、いかにもゾクっぽくてどーよ?板前のく

せにさぁ。目立つったらありゃしない。

「ありがとう!助かったわ」

 助手席に滑り込んだとき、あの匂いがした。昨日、のぶの指が纏っていた、花のようなパヒューム……

「おっせーよ!」

 何を言う!?私はミサオちゃんとの別れを惜しむ暇もなく、急いで出てきたのよ!……って、呼び出したのは私

だけど……

「のぶが早すぎるのよ!どこから来たの?」

「だから、支店だよ。大船」

 やはり目を合わせないのぶをチラリと見やると……何だか目が赤い。まさか泣いてたとか言わないよね?

「大船から30分では来れないでしょう?」

「お前がギャンギャン、ベル鳴らすから、途中で電話したんだよ!」

「どこ?」

「……横浜」

 言ってから「ヤバい」って顔した。後部座席を見ると、ジャケットとセカンドバッグが置いてある。

「……誰かと一緒だった?」

「だから、ヒデだよ。中華街で何だったか食材買いたいって言うから……横浜駅で下ろしたんだよ」

 つまりさっきまで、この座席に座ってたんだ……そうかぁ、横浜デートかあ……ムードありそうだねえ……で

もフラレたんなら、ご愁傷様。

「横浜だから近かったんだね。私、ラッキー」

 フラレてラッキー。

「七恵は……仕事?」

 のぶは真剣な顔して運転してて、私の方を見ようともしない。

「そう。取材だった」

「じゃ、送るのは会社か……」

「うん」と返事してから、のぶの肩に顎を乗せた。

「でも夜ならのぶん家に行けるよ」

 キャラが違ったってまあいい。

 そう思っていたのに、奥から伸びたのぶの右手にデコピンされた。

「今日は俺もする事あんだよ」

 薄く笑ったのぶの横顔の前を、あの香りが掠めた。どうして?のぶの肩に寄っても匂わないのに、動くと風に

乗るように……

 ……いつだっけ……どこだっけ……

「窓開けていい?タバコ吸いたい」

 窓の方を向いた時にまたふわりと香りが流れる。何処で香るの?……シート?

 自分で開ける前にのぶが運転席から開けてくれた。

 外からの熱風に、香りはかき消された。

 ……いつだっけ……どこだっけ……

 私は、この香りを知っている。

 ドキドキと、バクバクと、ズキズキと、心臓が早鐘のように騒ぐ。

 口に付けたタバコの味も、吸い込んだ煙の重みも感じられなくなっていた。備え付けの灰皿からは、のぶの吸

った大量のタバコの吸い殻が差し込まれていた。その中に1本、フィルターに薄く口紅の付いたタバコがあっ

た……

 のぶのついた嘘に、私の胸はギュンと啼く。



 のぶ……アンタ、誰を想って泣いたの?




 会社でミサオちゃんのインタビューを原稿に起こして、終わった時にはもう22時になろうとしていた。

 たまには家の布団で寝ようと思ったのに、わざわざ中野でおりてしまった。

 だけど、のぶの部屋には灯りも無く、アパート横の駐車場にも青い車は居なかった。

 私はまた電車に乗って、今度は錦糸町で下りた。

「おかえり!ミサオ元気だったか?……どした?顔色悪いぞ」

 血色はいいはずだから、綾の言う顔色は内側の顔の方だろうな……何だ。思ってたよりいい医者なんじゃな

い。

「のぶが恋した。私、フラレるかもしれない」

「それはうーちゃんがって事か?」

 頷く私を綾は抱きしめる。

「……抱っこ」

「ん?抱く?濃厚に?」

「違う!抱っこ」

 首に腕を回した私を、身体ごと抱き上げて「はいはい」と宥めた。

 綾からはもうエタニティは香らない……どこか研ぎ澄まされた消毒薬の匂いを持っても、記憶の中のあの香り

は私の中から消えていかなかった。


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