小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

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 週末の仕事を終えて、のぶの店に出向いた。

 だけど、カウンターの中にのぶは居なかった。

「のぶは?」

 カウンター席に腰掛けながら、カウンターの中で気まずそうに目を伏せる、ヒデ君に訊くと、彼はビクリと肩

を震わせた。

「休みっス……風邪ひいたようで……ひどい声でした」

 明らかに嘘だ。

「一昨日からヒデ君、のぶと大船の支店行ってたんでしょう?」

「……ノブさんに聞いたんスか?」

 おいおい、おしぼり出す手が震えてるよ?

「うん、一昨日の朝ね。その後は私も仕事詰まってたから……」

「そうなんス……ノブさん昨日から具合あんま良くなかったんで……」

 ヒデ君はのぶに弱みでも握られてるんじゃないだろうか?可哀想なくらい動揺していた。

「そっか。のぶのお守り、お疲れさまね」

 ……しまった。にっこり笑って労うつもりが、ギロリと凄んで睨みをきかせてしまったようだ……狼狽してい

る。悪いことしちゃったな。

 その時、扉を開けて、ちかちゃんが入って来た。北海道出張のお土産を持って来てくれると、今日のこの時間

は前からの約束だった。

 そして私は、とんでもない悪巧みを目論んでいた。のぶを好きなこの娘をちょっと焚き付けて、のぶの隠し事

を聞き出させようかとか、ちょっと考えていた。

 嫌な考えだけど、やっぱり気になる。

 ガールズトークと銘打って、奥の座敷席にビールを持って移動した。

 頂いた土産は、北海道では有名な喫茶店のチーズケーキだった。のぶと一緒に食べてと貰ったけど……腐らせ

てしまいそうで怖い。

 ちかちゃんはのぶの居ない事に、ちょっと安心したような顔をしていた。いっそ彼女が遊び相手だったら、私

も強気で居られたのにな……あぁ、私って浅ましい!

 そんなドロドロ感情の女を察知したのだろうか?ちかちゃんは何かに怯えるように落ち着きがない。死線がす

ぐに游ぐ。いよいよ本気になったか?……とか思ったら!

 ぬけぬけと母子手帳を見せつけられた!当然、愛しの和くんさんの子供だろう。

「で、できちゃったんだ……」

 真っ先に、のぶを焚き付ける事なんて出来ないじゃない……と、自分勝手な事を思ったが、彼女は彼女で妊娠

を酷く悩んだそうだ……その恋人の婚約者の事も含めて。だから私も素直に「おめでとう」と言えた。

 幸せに満ちた彼女の顔を見ながら……私も思っていた。

 のぶに本当に好きな人が出来たのなら、邪魔なんかしないで、ちゃんと私から幸せ応援団になってあげなきゃ

いけないんだ……

 自分が愛を勝ち得る時になって、その婚約者の立場を慮るだけの余裕を見せた彼女を、もう誰も責められない

よ。

「婚約者さんには諦めてもらいましょう」

 以前、私が言ったのだ。どんなに多くの愛する人が居ても、決められた伴侶となれるのは、たったひとりなの

だと……

 だから、信じたくないないけど……私だって、海乃だって……諦めなきゃならない時が、来てるのかもしれな

い……

「幸せになって」

 心から、精一杯の祝いの言葉だった。



 ……なのに……



 今、私の後ろで硝子の砕ける音を聞いた。

 それは硝子を叩き割るだけの衝撃を、私に与えた。

 ……今、彼女は何と言った?


 彼女は恋人の婚約者の事を気にかけていた。

 それでも彼女はその婚約者を「嫌い」だと言った。

 勝者への手向けに悪態の一つでも吐けと、そそのかしたのは私だ。

 歪んだ顔を見られたくないと、私に背を向けさせたのは彼女。

 店の外、ビルの地階のフロアに響くその声に……何故その名前がある!?

 彼女は言った……



「結婚したら、名前が『おかのうみの』だよ!?海の幸だか山の幸だかわっかんないわよ!!」



『おかのうみの』

 ……それは、誰……?



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