「……『うみの』っていうの?その人……」
名前を唇に乗せる声が震えた。
「そうです。『橘海乃』っていいます……今まで言いたくなくて言わなかったんですけど」
フルネームが確信へと誘う。胸が、熱い。
「綺麗な名前ね」
私のいちばん好きな名前よ。この世でいちばん……
「そうなんです!だから私も悔しくて……」
……ヤバい。涙が落ちる。
「のぶには話したことある?」
「ありませんよ!七恵さんにもはなせないのに……戸川さんに訊かれたくないですし……」
見つけた……私の、海乃……!
身体中から水分が溢れ出そうだ!
こんな顔、見られるわけにはいかなくて、振り返ってちかちゃんを抱きしめた。海乃並みに小さい。
「必ず結婚して幸せになって絶対!」
そして……海乃を返して……
最早、脅迫だった。
でも、私の想いを知らないこの娘は喜んで、小鹿のように跳ねて、帰って行った。
途端に気が抜けた……いや、逆だ。全身の血液が沸騰しそうなくらい熱くなったかと思うと、全部の毛穴から
汗が吹き出して身体を冷やす。痺れるように総毛立つ。自分の鼓動だけが音を支配し始めると、立っても居られ
ずその場に座り込んだ。涙だけがだらだらと、頬を伝い顎から床に落ちる。
見つけた……とうとう逢える!探さなきゃ……!
その時、店の扉が開いて、ヒデ君が出て来た。
「七さん!どうしたんですか!?」
しゃがみこんだ私にびっくりして手を差し出した。
「大丈夫。立ちくらみ……」
小さく笑ってみせたが私の顔は既にぐちゃぐちゃだ。何事だと思ったはずだ。
「……七さん、これからノブさん所に行くんですか?」
そうだ!のぶにも報せなきゃ。のぶはまだ知らないはず……
慌てて立ち上がって一歩踏み出した時に、ヒデ君に腕を捕まれた。
「待ってください!ノブさんの事で……ちょっと」
切羽詰まったヒデ君の面持ちに、足を止めた。
「すんません!ノブさんに口止めされてたんスけど……オレ七さんのファンだし……」
ヒデ君は頭を下げた。
「口止め?……ホントは大船に行ってない事?わかってるよ。そんな事、気にしてないよ」
「やっぱり気づきますよね……付き合ってンですもんね……じゃ相手も、わかってますよね……」
相手?気まずそうに笑うヒデ君の言葉に、大いに引っかかった。
歓喜に満ちた身体が、また凍り始める。
「のぶの相手って……知ってるの?ヒデ君」
「え!?いや……あの、ヤベえ……すみません、これも口止めされてたんスが……三日前にノブさんを訪ねてきた
女性客です」
「客?どんな人?」
「綺麗な人っス……いや、七さんの方が断然綺麗っスよ、いやマジに」
「この街にのぶを訪ねて来るブスはいないわよ!そんなの今までだっていくらでもいるじゃない!」
いつの間にかヒデ君に喰ってかかっている私がいた。だって胸騒ぎが治まらない!
「今までの女とは違います、ノブさんが……」
……のぶが?違う?
「久しぶりらしくて、ひどく驚いて、それから喜んで……厨房で泣きながら笑ってたくらいで……」
久しぶりで驚いて、泣くほど喜んで……そんな事させられるのは……私は身体の震えが止まらない。
「その人はノブさんのあがるちょっと前に帰ったんスけど、時間になったらノブさんもすっとんで帰ったん
ス……その時に七さんには言うな言われたんス……たぶん、あの後、逢う約束してたと思います。大船の事は一
昨日の朝電話で言われたんスが……たぶん……」
「名前は?彼女の名前!のぶが呼んでたでしょう?」
「す……すんません、覚えてないっス……」
……使えない!
「で、でも、あんな優しい顔したノブさんは初めてで……オレ、七さんのファンだし、ずっとお二人を応援して
んのは変わらないスけど……何か似合いで……つい思っちまいました。もしかして、ノブさんの……巷で噂にな
ってる、死んだ元カノじゃないかって……」
……ビンゴ!