小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>



「……『うみの』っていうの?その人……」

 名前を唇に乗せる声が震えた。

「そうです。『橘海乃』っていいます……今まで言いたくなくて言わなかったんですけど」

 フルネームが確信へと誘う。胸が、熱い。

「綺麗な名前ね」

 私のいちばん好きな名前よ。この世でいちばん……

「そうなんです!だから私も悔しくて……」

 ……ヤバい。涙が落ちる。

「のぶには話したことある?」

「ありませんよ!七恵さんにもはなせないのに……戸川さんに訊かれたくないですし……」

 見つけた……私の、海乃……!

 身体中から水分が溢れ出そうだ!

 こんな顔、見られるわけにはいかなくて、振り返ってちかちゃんを抱きしめた。海乃並みに小さい。

「必ず結婚して幸せになって絶対!」

 そして……海乃を返して……

 最早、脅迫だった。

 でも、私の想いを知らないこの娘は喜んで、小鹿のように跳ねて、帰って行った。



 途端に気が抜けた……いや、逆だ。全身の血液が沸騰しそうなくらい熱くなったかと思うと、全部の毛穴から

汗が吹き出して身体を冷やす。痺れるように総毛立つ。自分の鼓動だけが音を支配し始めると、立っても居られ

ずその場に座り込んだ。涙だけがだらだらと、頬を伝い顎から床に落ちる。

 見つけた……とうとう逢える!探さなきゃ……!


 その時、店の扉が開いて、ヒデ君が出て来た。

「七さん!どうしたんですか!?」

 しゃがみこんだ私にびっくりして手を差し出した。

「大丈夫。立ちくらみ……」

 小さく笑ってみせたが私の顔は既にぐちゃぐちゃだ。何事だと思ったはずだ。

「……七さん、これからノブさん所に行くんですか?」

 そうだ!のぶにも報せなきゃ。のぶはまだ知らないはず……

 慌てて立ち上がって一歩踏み出した時に、ヒデ君に腕を捕まれた。

「待ってください!ノブさんの事で……ちょっと」

 切羽詰まったヒデ君の面持ちに、足を止めた。

「すんません!ノブさんに口止めされてたんスけど……オレ七さんのファンだし……」

 ヒデ君は頭を下げた。

「口止め?……ホントは大船に行ってない事?わかってるよ。そんな事、気にしてないよ」

「やっぱり気づきますよね……付き合ってンですもんね……じゃ相手も、わかってますよね……」

 相手?気まずそうに笑うヒデ君の言葉に、大いに引っかかった。

 歓喜に満ちた身体が、また凍り始める。

「のぶの相手って……知ってるの?ヒデ君」

「え!?いや……あの、ヤベえ……すみません、これも口止めされてたんスが……三日前にノブさんを訪ねてきた

女性客です」

「客?どんな人?」

「綺麗な人っス……いや、七さんの方が断然綺麗っスよ、いやマジに」

「この街にのぶを訪ねて来るブスはいないわよ!そんなの今までだっていくらでもいるじゃない!」

 いつの間にかヒデ君に喰ってかかっている私がいた。だって胸騒ぎが治まらない!

「今までの女とは違います、ノブさんが……」

 ……のぶが?違う?

「久しぶりらしくて、ひどく驚いて、それから喜んで……厨房で泣きながら笑ってたくらいで……」

 久しぶりで驚いて、泣くほど喜んで……そんな事させられるのは……私は身体の震えが止まらない。

「その人はノブさんのあがるちょっと前に帰ったんスけど、時間になったらノブさんもすっとんで帰ったん

ス……その時に七さんには言うな言われたんス……たぶん、あの後、逢う約束してたと思います。大船の事は一

昨日の朝電話で言われたんスが……たぶん……」

「名前は?彼女の名前!のぶが呼んでたでしょう?」

「す……すんません、覚えてないっス……」

 ……使えない!

「で、でも、あんな優しい顔したノブさんは初めてで……オレ、七さんのファンだし、ずっとお二人を応援して

んのは変わらないスけど……何か似合いで……つい思っちまいました。もしかして、ノブさんの……巷で噂にな

ってる、死んだ元カノじゃないかって……」


 ……ビンゴ!


-94-
Copyright ©魚庵(ととあん) All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える