小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>



 また一筋、頬を涙が伝った……熱く。

 最後の数字を打ち抜いた……直線を結ぶピースは揃っていた。

 何を思い出せずにいたのだろう?アレは……のぶが纏っていた香りを、私は忘れるはずがなかったのに。

「すんません!ホントにすんません!オレがもっとノブさんの事、止められてたら……」

 ヒデ君が必死に、コメツキバッタみたいに頭をペコペコ下げて……のぶは可愛い後輩を持ったもんだ。

「……無理だったでしょう?とても止められなかったくらい、美しかっでしょ?ふたり」

「七さん……」

 それでもヒデ君の済まなそうな顔は剥がれない。

「やっぱりそうなんスか?彼女……死んでなかったんスね……」

 当たり前だ。生きているのを知った上で、あの噂は私が流したんだもの。

「ねえ、その彼女、前髪長かった?」

「はあ……目が隠れそうなくらい……」

 そうだよね、相変わらずだね。私はつい笑ってしまう。

「ヒデ君知ってる?チャンスの神様には前髪しかないの。目の前にダーッて走って来るのを通り過ぎる前に前髪

を掴まないと、振り返っ時には掴める髪はないんだよ」

 ヒデ君は何の事だかさっぱりという顔で私を見た。

「のぶはチャンスを掴んだの。逃げられる前に。だから止めなくて正解よ」

 ……だけどね、それはつまり、


 あのヤロウ……抜け駆けしやがった!!


「ヒデ君ありがとう!いろいろ聞かせてくれて!私、のぶの所に行くわね。あぁ、のぶのサボりサポートまであ

りがとうね」

 垂れ流し過ぎた涙の河を手のひらで塞き止めて、ヒデ君に背を向ける。

「あのっ……七さん!ノブさんと、喧嘩しないでくださいね」

「ごめん!喧嘩はするわ!じゃあね」

 振り返って笑って宣言して、大きく手を振った。

 遠くでヒデ君が「そんなーっ」と吼えていた。



 走った。駅まで――1分1秒が惜しくて。

 拭い取ったはずの涙は、鼻水と一緒にまた溢れ出した。

 だって、悲しくて苦しくて悔しくて腹立たしくて情けなくて……


 わかってたけど、逢いに来た先が私でないのは悲しくて……

 のぶが私と居ると知らされていたら、きっと悲しませたのが苦しくて……

 のぶに出し抜かれた事が悔しくて……

 のぶが私には隠し通そうとしている事が腹立たしくて……

 のぶの様子にしても、あの香りにしても、気づかなかった自分が、何より情けなくて……

 なのになのに……笑ってしまう。

 嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉

しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しく

て嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉

しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しく

て嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて……

 もう離すもんか!離させるもんか!

 どんな感情にも、涙が反応するのは知ってたけど、全部の感情を一度に持ってしても、涙って出るんだ。初め

て知った。



 のぶのアパートの前まで来たが、部屋に灯りは点いて居ない。

 仕事をサボってまで、逢いに行っているとでも言うのか?……いや、仕事をサボってまでとなんて、あの娘が

許すはずがない。

 それでも、のぶの腕の中に納まって、可愛く可愛く笑う海乃ばかりを想像する。その妄想だけで、意識がぶっ

飛んじゃうくらい、胸がドキドキ高鳴り熱くなる。

 そして悔しくて仕方ない……

 バラバラの気持ちでドアに凭れた。

 喧しい音を立て、アパート横の駐車場に青い車が停められた。ゆっくりと車を下りて乱暴にドアを閉めたのぶ

は、前に、首を折り曲げたままアパートの階段を上がって来る。

 上りきって顔を上げ、やっと私に気づいた。

「七恵……来てたのか……」

 妄想に反した憔悴した面持ちに怒りが込み上げた。


 仕事をサボってまで出かけたアンタが、何で一人きりで帰って来てんだよ!!


-95-
Copyright ©魚庵(ととあん) All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える