小説『Hate“S” ―悪夢の戯曲―』
作者:結城紅()

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〜2〜

 リノリウムの床に三人分の靴音が高らかに響く。
 辺り一面無機質な廊下を先程から延々と歩き続けていた。
 前後には男が一人ずつ。前方を歩き、僕を牽引しているのが仮面の男。後方から追従してくるのは、素性の知れない背広の男。代わり映えしない景色にそれらの要素が加わり、不安が飽和点を越える。途端、粘りつくような強迫観念に襲われた。

 病室から出た後、僕と仮面の男は人の殺到する受付に行き、人ごみを掻き分け主殿とやらにアポを取り付けた。その時の、仮面の男の人に対する態度は酷薄なものだった。受付に達するのが困難極まることを悟るや否や、彼は懐から拳銃を取り出し中空に向かって発泡したのだ。サイケデリックな音が医院内に鳴り響いた後、辺りは興奮の坩堝に飲まれた。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人たちを押し分け受付へと到達した。不思議なことに、受付の方々は泰然自若としていた。仮面の男曰く、この総合病院は政府のとある研究機関の直轄下にあるようでこのようなことで慌てる職員はいないそうだ。医院内がやたらと広いのもそれに所以しているのだろう。

 その後、主殿とやらの指示で僕らは医院内の地下に通された。政府の要人くらいしか入ることはかなわないらしい。そして、何が理由なのかは知らないが、スーツ姿の男が一人ついてくることになった。
 それでもって、現在。殺風景な場景が途切れることなく続いている。
 不安に押しつぶされた僕は、前方の男に声を掛けた。

「なあ、あとどれくらいでつくんだ?」

「…………」

「それと、後ろの人は一体何なんだ?」

「…………」

 無言の沈黙。重圧となって僕にのしかかる。沈滞とした空気が現出する。

「なんで黙って――」

「愚昧な話をする気はない」

 言下に切り伏せられる。どうしたっていうんだよ……?

 僕の中の不安が増長するように際限なく肥大していく。強迫観念と焦燥とが禅問答を繰り返し、頭中を駆け巡る。このままどこか連れて行かれるんじゃないか。力をくれると言うのは嘘だったのではないか。邪推な文言ばかりが脳内で反芻される。脳と心が憔悴していく。

 そして不安が臨界点を迎え、怒りに変容した。

「なんで黙ってるんだよ。まるで僕に話せないことでもあるみたいじゃないか!」

 言って、気付く。その通りだと。
 沈黙は金、雄弁は銀。そんな言葉がある。要は、黙っていた方が情報が漏れることはない、ということだ。雄弁は時にして語るに落ちることもある。

 先ほど仮面の男は冗長な長広舌を振るっていたのに対して、ここに来てからはだんまりを決め込んでいる。
 嫌な予想ばかりが頭を埋め尽くしていく。
 だとしたら、僕の待遇の良さは手向けってことか。だが、人がいなくなったら誰かしら気付くはず……。

 俄かに脳内に電撃が走り、ハッとする。
 もう僕に家族はいない。それに、日本は未曾有の災害の真っ只中。こんな状況だ、人一人死んだところで誰も気づきやしない。

 逃げるという発想は愚かとしか言いようがないだろう。後ろの男は僕を逃がさないために存在しているのだから。
 諦観が心中を蚕食していく。
 不意に、仮面の男が足を止めた。

 俯いていた視線を上げると、そこには仮面の男の他に老人が立っていた。見た感じ、好々爺といったところだろうか。老人は白衣に身を包み、ニコニコとこちらに顔を向けていた。

「やあ、君が桜庭亜希君かい?」

「え、そうですけど……。何故僕の名前を……?」

 老人はくぐもった声で笑うと、笑顔を絶やさず返答した。

「私はね……最慎東吾と申します。政府特務機関[グレイヴ]の長にして、この医院の院長も務めております。患者の御名前を存じ上げているのは当たり前のことですよ」

「そうですか」

 この人も大変なんだな。ところで、グレイブ。この言葉、どこかで聞いたことあるような……。

「ああ、貴方はもういいですよ。ご苦労様でした」

 僕の後方を追随してきた男が一礼して去っていった。これはどういうことだ? 僕に危害を加える意思はないということか。

「ここには政府の重要書類が沢山あるからね。君がそれを覗かないよう、監視していたんだよ」

 確かに、ここに至るまで無数の部屋があった。中を見ていないので何があるかわからなかったが、そういうことだったのか。合点がいった。

「それで、君は力が欲しいんだね?」

「はい」

 お誂え向きな言葉に頷く。老人の背後に控えていた仮面の男が主殿、改め最慎さんに何事か耳打ちする。
 最慎さんは驚愕したようだった。

「なんと、火事で家族を失ってしまったと。そしてその火事の原因は亜喰夢。なるほど、君が力を欲する理由が分かったよ」

 悄然と最慎さんが言った。

「分かりました。じゃあ、早速君に与えよう、力を」

「ありがとうございます」

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