プロローグ
〜陽炎に仮面は揺れて〜
――20xx年 二年前
その日はいつも通り当たり障りのない一日を送っていた。中学に行き、授業を受け、昼飯を食べ、友達と駄弁り、寄り道をして。何気ない一日が過ぎようとしていた。
退屈すぎる一日の終着点として、友達に別れを告げ帰路につく。これもまた普段通り。
水が淀みなく流れるように、日常もまた何事も無く過ぎ去っていく。無味乾燥な日々を噛み締めながら生きていた。
幸せに生きてるくせして、心の片隅では願っていたんだ。誰か変化を下さい、と。
だからきっと、バチが当たったんだ。
大通りを通って自宅へと続く道を辿る。複雑に入り組んだ道が群れをなし、まるで迷路のように思える。この土地に住み着いて一年以上経つが、未だに迷うときがある。
突き当たりの三叉路を少し躊躇いつつ右折して、アスファルトの道を踏みしめる。そして彫金のプレートを掲げる家が目印の道を左折しようとした瞬間。
「きゃぁあぁぁぁああああ!!」
前方を歩いていた婦人が叫び声を上げた。予期せぬ金切り声に顔をしかめるが、そうもしてはいられない。
ここらでは珍しく火事かな。なんて思いつつ僕は婦人に駆け寄った。
「どうしたんですか!?」
自宅で火の気が出ていたとかそんなオチだろうな。
心の中で勝手に推測し、婦人から目を逸らし前を見ると。
「に、逃げろーーーーー!!!」
慌てて家から飛び出した中年の男性が、近隣の人に向けて叫んでいた。そしてそのまま恐ろしい形相で横を駆け抜けていく。その男性の行動が呼び水だったのか、そこら中の家の玄関が次々とバン! と開け放たれていく。
確かに火事は起きていた。最初に逃げ出した男性の隣の家だ。だが、問題はそこじゃない。
声を掛けた婦人がヒッ! と悲鳴を上げ、次いで男性の後を追うがごとく遁走する。
雪崩のように人がこちらへ押しかける中、僕は呆然とソレを凝視していた。
火事のあった家の玄関。そこでソレは――人を喰っていた。
ソレは見たこともない姿をしていた。形容し難い異形の姿。見ただけで恐怖心を煽るようなその容貌に、僕の膝はいつの間にか笑っていた。
「は、ハハハ……」
学校帰りの帰路で、怪物に喰われる光景を目の当たりにする。
アニメや漫画の中でしか起こらないと思っていた場景が、今、眼前にある。少し歩を進めれば、届く距離にいる。
あまりにもシュールな情景に、僕は枯れた笑い声を喉から搾り出すことしか出来なかった。
「そうだ、みんなはどうしたんだろう……」
不意に家族のことを思い出す。
思考が突然の事態についていけなかったのだろう。現実を受け入れることを拒否し、逃避と言えることばかりが頭中を駆け巡る。
それは当然のことなのかもしれない。日常から非日常へと無理矢理投げ込まれれば、誰しもが動揺するだろう。平静を保てなくなる。だけど、こういう状況だからこそ。冷静になる必要があるのではないのだろうか。そう言う意味では、家族の安否を気にする僕の思考は正常と言えるかもしれない。
人々が背後に流れていく中、僕は地獄絵図のような光景から目を背け、両膝に手を当てた。
「行かなきゃ……」
膝を奮い立たせ、姿勢を安定させる。
幸いここから自宅まではそう遠くもない。走れば数分の距離だ。全速力で駆ければもっと早く着く。
思い立ったが吉日、(最大の不幸の日だが)僕は押しかける集団に背を向けて駆け出す。一家の安全を願いながら。
僕はこの時、日本で何が起こっていたのか全く理解していなかった。そして、これから起こることも、何一つ。
これは前哨戦ですらなかった。
「父さん、母さん、結花……!」
心臓が早鐘を打つ。
別ルートから帰宅している僕は、知らず知らずのうちに家族の名前を呼んでいた。
さっきの怪物がいた場所とは少し離れた場所にあるので、おそらくは大丈夫なはずだ。
そう決め込んで、僕は走り続ける。そうでもしないと、心が張り裂けそうだったから。
丁字路を右へと曲がり、緩い勾配を懸命に上っていく。足腰が限界を主張してくるが、構わず疾駆する。今の僕には走ることしか出来ないのだから。
「あと、少し……」
この角を曲がれば家が見えてくる。そうすれば家族の安否が分かるんだ。
全身全霊の力をもってして地を蹴り、角を曲がる。
「みんな! 無事で――」
言葉は最後まで続かなかった。
「なんで……」
眼前の光景に言葉もない。
「なんでだよ……」
烈火の如き炎が逆巻いていた。
蛇のように身をくねらせ、視界を真っ赤に染める。
炎という大蛇が、渦が、[僕の家]で大輪を咲かせていた。
「そうだ、警察……」
突拍子もない展開に僕の思考は完全にフリーズしていた。遅まきながら、異形の怪物について申告しようとする。
悄然と覚束無い手つきで懐から携帯を取り出す。しかし、番号を打ち込むも一向に繋がる気配はない。恐らく原因は回線が煩雑しているからだろう。つまり、皆一斉に警察に電話を掛けているということ。このような事態が各地で頻発しているのだろうか。
「消防署は何をやってるんだよ……」
これもまた相手が出る間もなく切れてしまう。理由もまた然り。
「誰か……誰か!!」
助けを求めて辺りを見回すも、近隣の住民たちは既に避難している模様。ひと一人いやしない。
「みんな逃げたのか。じゃあ……」
僕の家族もきっと――。
二の句を継ぐよりも早く、叫喚が耳を劈いた。
「助けて、誰か! お父さんが、お母さんがッ!!」
「結花!?」
声の根源は焼け崩れていく家の中心からだった。
妹の声を聞いた瞬間、僕は反射的に駆け出していた。名状し難い衝動に突き動かされ、玄関の戸を開ける。
居間に駆け込み、助けを求める声に耳を澄ます。普段以上に冴え冴えとした聴覚を頼りに歩を進める。
僕の自宅は二階建ての一般的な一軒家だ。どこにもありそうな物件で、特に変わったところはない。四人の家族が暮らすには広すぎず、狭すぎずの広さをもっていた。であるからして、広すぎるというわけではないのだ。なのに、妹が見つからないどころか、家族一人にすら会わないのはおかしい。先ほどの妹の声からすると、家にいるのは間違いないようだが。
「父さん、母さん!! いるのなら返事をして!!」
見つからない以上、呼びかけることしか出来ない。
飛び散る火の粉と焼け崩れる調度品、足元で焦げる家具に気をつけて探索を続ける。
「結花!! どこにいるんだ!?」
「お兄ちゃん、ここだよ!!」
階上から殷々たる声が響き渡る。
常日頃聞き慣れている声。結花のだ。
「二階のどこ!?」
「私の部屋! お母さんも一緒! でも、お父さんが……」
父さんが……なんだ? 調度品の倒れる音に被ってよく聞こえない。