「お兄ちゃん、早く! 駄目、来る!!」
「結花! 結花!?」
支離滅裂な妹の叫びに問いただすも、返答がない。
何が来ているのかは分からないが、何かが起こっていることだけは確かだ。良くない何かが……。
「結花、そこで待ってて!!」
台所に向かっていた足を玄関まで引き戻す。道中いくつかの木材が僕を押しつぶそうとするかのように倒れてきたが、上手く掻い潜り難を逃れた。
玄関に戻って来た理由は単純明快だ。そこに階段があるから。
普段なら何の気もなしに上っていくところだが、火事現場に居合わせる今となっては安全性に事欠ける。何せ家の階段は木製だ。勢い良く燃えているのも至極当然の道理だろう。
かと言って、妹の悲痛な叫びが耳朶に触れた以上悠長に消火なんてしてられない。時間がない。ここは無理矢理にでも突破する――!!
「父さん、母さん、結花――!!」
澎湃として業火が襲いかかるが、それら全てを避けることなくひたすら駆け上る。
熱風が首筋を撫で、火の粉が余すことなく全身に降り注ぐ。皮膚がただれるように熱いが、顔をしかめるに留める。今はそんなこといちいち気に留めている場合じゃない。
段差を飛ばし、一気に階段を駆け抜け二階へと到達する。
結花は確か自室に居ると言っていた。なら迷うことはない。
「あと、少しだ。もう少しなんだ……」
既に肉体と精神にガタが来ているが、自身に鞭打ち懸命に膝を立たせる。
熱気に体中が炙られ、体力の損耗が激しい。精神すら摩耗していく不快な感覚。ここは早いとこ家族を避難させないといけないな。
僕が妹の部屋に向けて一歩足を踏み出した瞬間――。
「ん?」
足に何かが当たった。床に転がっていた調度品か何かだろうか。熱気のせいで視界が不明瞭で、うまく視認することができない。
それはコロコロと僕の足元から離れ、妹の部屋の扉――その下で正体を露にした。
「嘘だろ……」
白昼夢でも見ているのかと疑いたくなる光景。炎が陽炎のように揺らめき、それを一層照らし出す。燃え盛る火の気の中、曝されていたのは――。
「とう、さん……」
慣れ親しんだ父の顔。その表情は恐怖と苦痛に歪んでいる。
すぐ横を見遣ると、不完全ながらも父の胴体が見つかった。奇妙なことに、複数の歯型がついている。何かに噛まれていたとでも言うのか――。
「クソッ……なんで……」
磨り減っていた精神と気力がごっそり持っていかれるのを感じた。地に膝がつき、虚脱感に陥る。
もう、なにがなんだか分からない。父さんはなんでこんなことに。僕は何をすればいいのか。この変死体を前にどうすればいいっていうんだ。これ、絶対に火事なんかじゃないだろ。
生温かい熱気が肌を這うように撫で付ける。不快感が全身を駆け巡る。
何も出来なかった自分に嫌気が差す。
「ハハ……このまま死ぬのかな」
活力なんて微塵もない。体中の精力を根こそぎ吸い取られた僕は、何をすることもかなわない。
「お兄ちゃん!! お母さんがッ、駄目!! 私、もう……やめて!! 死にたくない!!」
「結花……!!」
まだ、あった。やらなくちゃいけないこと。
ゆらりと立ち上がり、熱の篭ったドアノブを掴む。手のひらが焦げるかと思うほど熱いが、それがまた痛覚として気付け薬となる。
「母さん、結花!!」
勢い良くドアを押し開け、部屋の中に転がり込む。
自身の声により朦朧としていた意識が明瞭となり、眼前の場景がはっきりと知覚できる。
「なんで……ここにいるんだよ」
瞬間、妹の部屋に踏み込んだことを後悔した。ここにいてはいけないものを見てしまった。
ゆらゆらと揺れる火柱の間に立ち、舐るように妹を見据えていたソレは、先ほど市街区で見たソレに酷似していた。
地球の重力に反し、ふわふわと浮揚するソレが僕の声に反応してこちらに振り向く。
全身が真っ黒な球体に黄色く丸い双眸。その口許に咥えていたのは、父と同様に常日頃顔を会わせていた人物。時間にルーズな僕を、毎朝起こしてくれていた人。
「母さん……」
先般の歯型はこいつのせいか……。
沸々と怒りがこみ上げる。
だけど……。
「お兄ちゃん……」
何も出来ない。
僕には、力がないから。怪物を退け、この場を収めるほどの力がないから。
「助けて、お兄ちゃん……」
縋る視線で僕を見上げる結花。
少し歩けば届く距離だ。駆け寄ってやり、大丈夫だと言い聞かせ頭を撫でてやればいい。でも、出来ない。かなわない。
ソレがいるから。異形の化け物が僕らの間に立ち塞がっているから。
圧倒的な威容を前に、僕はただ呆然と立っていることしか出来ない。
「僕は……僕はッ……!!」
歯を噛み締め、拳を握る。
「僕は――!!」
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