[無謀な試み]
わけも分からないままソレに向かって駆け出す。
「母さんを放せ!!」
全身の力を込め、拳を振り下ろす。気休めにすらならないであろう拙攻を繰り出す。
グチュチュッ!
ソレは僕を一瞥すると、気味の悪い音をたてて尻尾を生やした。そしてそれは拳が触れる前に僕を吹き飛ばした。
「――カハッ!!」
背中から壁に衝突し、喀血する。ゴキュっと骨が軋む音が聞こえた。
「お母さんが、お母さんが……」
譫言のように結花が口走る。
再び朦朧としてきた視界に、青ざめた母と蒼白とした顔色の妹が見えた。その面前で。
「グギャギャギャッ!!」
嘲笑うかのように、ソレは、
「いやあああぁぁぁぁぁァァァァァ!!!」
「――――!?」
母さんを噛みちぎった。
気絶していたのだろう。母さんは悲鳴も上げずに地に横たわった。
「いや、来ないで……」
次の獲物を品定めするような視線で化物が結花を睨めつける。
へたり込んでいた結花がじりじりと後退する。そんな結花を追随するようにソレは少しずつ近づいていく。
「やだ、来ないで。お兄ちゃん、助けて!!」
妹の悲痛な叫びを僕はどこか遠い世界を見るように眺めていた。
何の感慨も抱かずに、僕はただ眼前の現実を看過していた。いや、受け入れざるを得なかった。
指先もピクリとも動かない。本気で動かそうとすれば動くような気もするが、それには激甚な痛みが伴うだろう。
――もう、嫌だった。満足していた。諦めていた。何より、恐怖していた。
僕はもう十分やった。みんなを助けようと最後までもがき、あがいた。その結果がこれだ。どうにもならなかったのだから、頑張ったんだから。もういいだろう。
諦念が心の中を蚕食していく。
「やだ、やだ……来ないでよぉ!!」
呆然と、ソレが結花に接近していくのを黙過する。怯え切った表情の妹と、普段の笑う彼女がオーバーラップした。
僕は何をしているんだろう。
不意に頭中に素朴な疑問が浮上した。
やるべきことははっきりしている。それなのに、僕は壁面に背を預けたたまま。後ろめたい気持ちが先行して結花を正面から見つめることが出来ない。立ち上がり、ソレにかなわなくとも連れ出すことは出来るかもしれない。だが、それが出来ないのは偏に恐怖のせいだろう。原子的な、細胞のひとつひとつが震えるような恐怖に精神でさえ打ちひしがれている。
所詮、僕も自分の命がかわいいんだ。
「おにいちゃぁァァァん!!」
俄かに耳朶に触れた声にハッとする。
理性より感情が先走った。
「結花!」
指先がピクリと震えた。先ほどまで麻痺したように動かなかった体が、動く。
血を吐きつつも、懸命に立ち上がる。
だが――。
「…………」
ソレが僕を見つめた瞬間、一連の動作は止まり硬直した。恐怖が体に染み付いてしまっていた。石化してしまったかのような自身の体に、動け! と鞭打つも一向に動く気配はない。それどころか震えが加速するばかり。
動け、動けよ――!!
「…………」
ソレは僕が何もしないのを見ると、体を背け再び結花の方を向いた。
絶望的な顔色を見せる妹に、心底申し訳ない気持ちになる。自分自身が遣る瀬無い。
兄に裏切られ、これから死にゆく彼女はどのように俺を恨んでいるのだろうか。きっと最後の最後まで俺を呪うのだろう。
せめて、俺に力があれば――。
漫画やアニメだとたいていこのようなタイミングで何かしらの力が手に入るだろう。だが、現実は甘くない。
「ごめん……」
僕が諦念を冠する一言を呟いた瞬間――。
燃え盛る炎柱がソレと妹の間に割って入った。それを契機に部屋を渦巻いていた炎が勢いを増した。頽れるようにして倒れた柱から盛んな業火が舞い上がる。ソレと結花の間に炎の壁の境界線が出現した。
「グギギギ……」
悔しがるような声を上げるソレは、結花を諦め柱に背を向けた。その視線の先、放射線状のヒビが入ったような眼窩の中央に据えられた紺碧の瞳は――。